拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『ドリフターズ』の製造者らしいこの方のツイートで吹いてしまいましたw
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
で、今回は島津に関係ないネタ(本当にすみません…)
タイトルの人はBS-TBSの番組でちらっと紹介されたので気になって資料を取り寄せてみた。
一般向けに紹介されたのはかなり以前なのだが、ネットで検索しても余りヒットせず、知名度はかなり低い人のようだ。
しかしこの大奥人気の中、何でこんなに知名度が低いのか、勿体ないネタではある。
というのも、ほとんどまともな史料のない元禄時代の大奥女中について、かなり詳しいデータが判明しているほぼ唯一の人物なのである。と言うか大奥の御殿女中で生没年、経歴などここまで分かるのはこの人ぐらいらしい。
と言う事で紹介してみたりする。
興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
”梅津”は後に御殿女中になったときの名前で、最初の名前は勿論違いました。
下級公家である松尾(まつのお)家の姫として、承応三年(1654年)、京(現在の京都市)に誕生します。当初の名前は「シゲ」といいました。
松尾家という苗字について、京都に住んだことのある人なら「ははーん」とぴんとくる方が多いでしょうが、現在も京都市西京区にある松尾大社の社家が母体となっています。
江戸時代前期には、これらの社家が皇室を支える下級の公家となっていました。御所の上に上がれない(=昇殿の許しが出ない)家格とされたので「地下人(じげにん)」といわれます。
シゲの父・松尾因幡守相氏(まつお いなばのかみ すけうじ)も、元和7年(1621年)に松尾本家から分家し、明正天皇(当時は退位済みで「明正院」だった)非蔵人(ひくらんど)職という地位にいました。
松尾家の家系図「松尾家歴代系譜」によると、シゲの家族構成は以下の通り
長男:病気のため僧侶に
長女:シゲ(後の”梅津”)
次女:任子 朝廷に仕える、候名”周防局”
三女:俊子 中宮に仕える、候名”越前局”
次男:相匡(すけまさ 1665~1741) 正五位下、非蔵人、上北面、出雲守
シゲの妹2人は朝廷の女房となっていますが、この相氏の娘に加え、相匡の娘、相匡の孫娘(三代・相堅の娘)合計9人の内
朝廷の女房:4人(うち1人は大奥中臈→旗本の妻に転身)
旗本の妻:3人
大名(及びその分家)の妻:2人(シゲと津藩藤堂家の分家1万石の妻となった”英”)
という経歴をたどっています。林英夫氏は
当時、武家一般に、京都の公家から嫁を迎えることが望ましいこととされ、ことに将軍家をはじめ、大名・旗本など上級武家は、堂上・地下を問わず朝廷禁止の公家の家から嫁を迎える事が多かった。(中略)当時江戸では上方から移入される商品を「下り物」と呼び、ハイクラスの品物というイメージが強かったが(なお、上方商品以外を下らぬ物と言った)、京女(ことに公家出身の女)も学芸・行儀作法に秀れたハイクラスレディと見られていたのである。と解説されていますが、特に「朝廷に仕える下級公家」という立場の松尾家の娘は、小大名や上級旗本の正室の家柄としては適当だったのでしょう。
p.213
シゲは延宝年間(25,6歳の頃)に備中国松山藩(5万石)の藩主だった水谷勝宗(みずのやかつむね)の後妻となります。勝宗は20歳あまりも年上でした(○。○)。勝宗が先妻の死後、既に跡継ぎもいたのに、当時としては老年になってからなんで再婚しようと思ったかは参考文献には記述が無く不明です。林氏の解説から推測するに「水谷家に箔を付けようと思った」のでしょうか?
シゲは水谷家では大変丁重に扱われたようで、家臣を生家に使わして面倒を見ることも多く、なんと江戸と領地を往還する途中で京都の実家に泊まることもあったようです。松尾相匡の日記によると貞享2年(1685年)8月12日~15日が最初の帰省とのことで、その後も幾度か上洛しているようです(参考文献には詳しい記載がないので詳細は不明)。しかし、林英夫氏も
大名の理由のない京都滞在は幕府から認められていないが、正室は許されていたのであろうか。ただし、水谷氏が京へ立ち寄った記述はないし、事実としてもなかったと不思議がっています。
p.213~214
しかし、シゲの結婚生活は元禄2年(1689年)2月に勝宗が病死したことで終わりを告げます。
それどころか後を嗣いだ勝美も元禄6年10月に病死、その翌月に末期養子に迎えていた縁戚も病死となり、水谷家はお家断絶となります…。ちなみに水谷家断絶後の城受取役を任じられたのがあの赤穂藩・浅野内匠頭長矩でした。
勝宗未亡人であったシゲも江戸から京の実家に戻されてきます。元禄7年1月23日、41歳のことでした。
なお、勝宗とシゲの間に子供はいませんでした。これも水谷家から実家に戻された理由の一つでしょう。
通常なら、その後シゲは弟・相匡の世話になって生涯を終わるはずでした。
ところが、そのころ大奥で勃発していた権力争いによってシゲは江戸に戻されることになるのです…
ちょっとながくなりそうなんで続く_(。_゜)/
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。