拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
…タイトルの人物を知っているというあなたはかなりの島津ヲタヾ(^^;)
知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)」)という単純な物ではなく、本当の対立は島津斉宣と広大院茂姫の間にあったのではないかという気がするのだが…。
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知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
とある。(島津)忠厚 母 島津式部少輔久般女(以下略)
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
訳していても何がなにやら分からない文章であるが、要点をいうと(重豪の)御子様方のお母上のことについて、勘解由殿(=市田盛常、重豪側室・お登勢の方の弟、徳川家斉正室・広大院茂姫の叔父)におたずねしたところ、善兵衛殿(=篠原国宝)がここから出発される前に勘解由殿から話は聞いているご様子でした。雄五郎様(=今回のネタ(^^;))、亀五郎様(重豪の四男、五男とも)、感之介様(=重豪の五男、六男とも)ご三名様のご実母は島津式部少輔殿の密子(=隠し子)と申すことについて、この度他の御用で大炊殿(該当人物未詳)か ら「於房の方とはどの方の娘なのでしょうか」と訪ねられ、先のお達しの命によって回答申し上げたところ、「江戸では”密子”と申し渡すようにと聞いたのだ が」とお尋ねになり、私どもは承知しているとはいわなかったのですが、もっとも系図などを見ても(御子様の)母上については”密子”と記されております が、後から疑わしくなったのでしょうかと存じますがと申し上げたところ、まず私は思うところがあって「留守居の方へ餘家抔へも有之儀候哉→適当に訳できないためそのままにしておく)」 と、当たり障りのないよう、また尋ねておいてくれとの旨おっしゃいました。そこで、お留守居方に尋ねたのですが、いまだ回答がありません。「密子」という 用語は系図のどこを見ても見あたらず、いずれ「養女」と記されるだろうと私では考えていたのですが、そちらの方でも今一度この件をご検討下さり、勘解由様 にも伺いを立てて下さい。(以下略)
- 重豪の3人の息子の母「於房の方」は「島津式部少輔の隠し子」と称することになっていた
- が、系図などの公式文書を見てもそんなことは一言も書いていない、実は「於房の方は島津式部少輔の養女」じゃないのか?
- この件について市田盛常にもう一度確認を取ってくれ
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
二 亀五良 天明四年辰二月二十八日生同六年四月十一日夭
香樹院殿秋露幻清大禅童子
母島津式部少輔密子ノ筋
三 感之介 天明五年午八月十七日生同六年四月十一日夭
義光院殿天真祐明大禅童子母於豊方
女子 於礼 松平但馬守養女
一 忠厚 雄五郎因幡実島津兵庫久微子天明二年壬寅
五月十九日生母島津式部少輔密子之筋
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
三男 忠厚
初名 久邦 雄五郎 因幡 安芸 市正 老号山松
○天明二年壬寅五月十九日生于薩府、母島津式部少輔久般女実島津兵庫久徴之男、公為己子以告大家云、七年丁未六月九日、令于国中為己所生、七月九日、置於抱守御小姓令給事之、十三日告朝三男
(中略)
亀五郎
○天明四年甲辰二月二十八日生于芝邸、母石井進六正純亀井能登守矩貞臣女称於豊方、又改於房方、又改於富貴方
○此年七月二十九日夭亡、法名香樹院殿秋露幻清大禅童女(ママ)、安主于恵燈院
感之介
○天明五年乙巳八月十七日生于芝邸、母同上
○六年丙午四月十一日夭亡、法名義光院殿天眞祐明大禅童子、八月二日、帰埋遺毛于福昌寺、安主同上
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)」)という単純な物ではなく、本当の対立は島津斉宣と広大院茂姫の間にあったのではないかという気がするのだが…。
拙ブログ関連ネタ
公家・堤家と鹿児島藩
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