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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日3/6(月)にBS-TBSで放送された『にっぽん歴史鑑定』を拝見。
というのもテーマが「道鏡は天皇になろうとしたのか」という、余りTVの歴史バラエティーのネタにならない物なので気になりまして。

拝見してビックリ
 解説が東大史料編纂所教授の本郷和人氏だった(○。○)
…このお方の専攻は古代史じゃなくて中世史だったはずなんだが…。テーマから見て京都女子大名誉教授の瀧浪貞子氏辺りが登場するかと思っていたんだが、予想が外れた。
と言うか本郷氏最近露出しすぎヾ(^^;)

番組内容に関して言うと、聖武天皇の遺言として「孝謙天皇が臣下を奴にしようと奴を臣下にしようと自由である(=だから孝謙天皇が希望する者を次の天皇にすればいい)」(「続日本紀」ばんない意訳)と言うのを出していましたが、これには実は「孝謙(称徳)天皇が”私はこれを父上の遺言として聞いたんだよ!!!”と言った」という前置きがありまして、私はこれは聖武天皇の本当の遺言ではないと考えています。だってこの“遺言”、「道祖王(※新田部親王の息子、天武天皇の孫)を次の皇太子にする」という聖武天皇死の直後の遺詔(遺言)と矛盾しますからね。
どうしても道鏡を自分の跡継ぎにしたかった孝謙(称徳)天皇が、父親の権威を使って道鏡即位に反対しそうな人たちを押さえつける口実として嘘ついたのではないかと。

あと、関係人物(光明皇后とか異母姉妹の井上内親王とか不破内親王とか)をはしょりすぎ。孝謙(称徳)天皇の後継争いにすごく絡んでくるんですけどね、このみなさん。まあ1時間の番組、しかも民放じゃ無理か。



さて、実は今から20年前に某掲示板で道鏡をネタに書いた拙論があったのをこの番組を見て思い出し、引きずり出してきました。
かなり拙い文だが、今改めて読んだら面白いことも書いてあったので恥ずかしながら再UPしてみます。
なかなか島津ネタが書き上げられないので、時間ウメというのは内緒ヾ(--;)

では、ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックぷりーず




弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の生年は不明で、
現在の河内国の渡来系の豪族・弓削氏の出身であります。
特に祈祷が得意であったことから、上手く孝謙天皇に取り入ったようです。
何か妖しげな人物ですね。

道鏡を話すときに、よく比較されるのが聖武天皇の母・藤原宮子に取り入っ
た僧侶・玄坊(「坊」は、本当は「日」編に「方」)ですね。
但し、これは私見ですけれど
唐に留学経験があり、学識も高かったと思われる 玄坊
…に対し
留学経験なんか無し!祈祷だけしか能がなさそうな道鏡
は、うーん「坊さん版傾城(^^;)」とでもいうのでしょうか。
”大したことない野郎”だったのではないか?という印象が私にはあります。


道鏡を足繁く宮中に招き入れる孝謙天皇(この当時は退位していて上皇)に
危機感を感じたのが「藤原恵美押勝」こと 藤原仲麻呂 であります。
仲麻呂は、自分の傀儡である淳仁天皇を通じて
「あんな得体の知れない坊主とつきあうのはやめなさい」
と、孝謙天皇に忠告したようですが、この頃仲麻呂が孝謙天皇をないがしろ
にするような態度をとっていたことと相まって、逆に孝謙天皇を怒らせてし
まいます。そして、起こったのが「藤原仲麻呂の乱」(764年)です。

これで、目の上のたんこぶである藤原仲麻呂を殺した孝謙天皇は「称徳天皇」
として重祚(ちょうそ・再び即位すること)します。
そして、彼女は道鏡を「大臣禅師」と呼ぶように命令し、766年には「法
皇」の称号まで与えてしまいます。

これらの出来事を
1)孝謙(称徳)天皇が、道鏡を寵愛する故にやったことなのか?
それとも
2)道鏡が自分の地位を向上するために、孝謙(称徳)天皇をそそのかした
  のか?
…現在でも学説の分かれるところです。
今までは、2)説の方が有力だったようですが、
現在では瀧波貞子氏、佐藤宗惇氏らのいう1)説の方が有力なようです。
というのも、
孝謙天皇は淳仁天皇の職務を取り上げると同時に尼さんになったり
(要は、僧侶になって道鏡と同じ立場になろうとした)
とか、
「大臣禅師」とか「法皇」とか、今まで無かった称号を考えて道鏡に与え
たりしている
ところを見ると、祈祷しか能のない道鏡が、最初から2)のような策略を
持っていたとは考えにくいからです。


しかし、いくら道鏡が最初は欲はなかったとしても、
いろんな称号を与えてもらって、取り巻きが出来たり
親族にも高い位を与えてもらったり
している間に欲がでてくるのは当たり前という物でしょう。

そのうち、ホントに道鏡は
「孝謙天皇が亡くなられた後は、この私が天皇となってみたい」
なーんて、大それた事を思いだしたようなのであります(○o○)。
彼は、親族の一人を太宰府に派遣して、宇佐神宮に賄賂を積み、
「次の天皇には道鏡を」
という偽の神託を出させるのです。このお告げに宮廷は仰天してしまいます。
結局、このお告げは孝謙天皇の忠臣・和気清麻呂が「嘘」であることを見抜
いてしまいますが、
清麻呂の報告を受けた孝謙天皇が、何故か(?_?)逆上して
和気清麻呂はもちろん、
清麻呂の姉で孝謙天皇の女官であった和気広虫(ひろむし)まで
流刑(○o○)したところから考えても
「道鏡の即位は孝謙天皇の意志でもあった」
事が伺えるかと思います。


こうして、次の天皇位を確保することに失敗した道鏡は、孝謙(称徳)天皇
が亡くなると、予想通り(^^;)失脚してしまいます。
この時、何らの作戦を立てずに、孝謙天皇のお墓の前でお経を唱えていたと
いう事から考えても、道鏡の「無能」ぶりが伺えるという物でしょう。
そして、道鏡は下野国(現・栃木県)に流刑となり、その地で772年に亡
くなります。


孝謙天皇と道鏡が「妖しい関係」だったかどうかを示す史料は、実は全くあ
りません(?_?)。
『水鏡』などにはそういうことを伺わす既述がありますが、この書物自体が
平安時代も末期の成立ですから、孝謙天皇と道鏡のことを面白がって書いた
可能性もあります。
道鏡の出身地である大阪府では「道鏡と孝謙天皇はプラトニックな関係だっ
た!」という説を唱える「道鏡後援会」みたいな物まであるようです。

しかし!なかなか人目に触れない女帝のお側近くに近づいて、体調回復を祈
る祈祷をしているという事自体非常にアブナイのであって、
二人の関係を怪しむ噂を出されても当然のことだったといえましょう。


道鏡については黒岩重吾氏がそのものズバリの『弓削道鏡』という小説を出
されているので、これが一番読みやすいと思います。
後、研究書としてはちょっと古いのですが『道鏡』(人物叢書・吉川弘文館)
も読みやすいです。

主な参考文献:『週刊朝日百科・日本の歴史』(文責・佐藤宗惇)
       『奈良朝政争史』(歴史新書・中村 収著)


さて
道鏡に関しては後日もうひとつなんか書いていたので、それもupしてみます。
途中で考えが変わったのか、ちょっと論調が変化してます。
次回に続く。

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