拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
…と、タイトルのように書かれている本などが多いわけですが。参考 wikipedia「島津豊久」
あの絶版騒動を起こした『島津○る』もそうじゃなかったかな?失念。
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
また同本では
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。
あの絶版騒動を起こした『島津○る』もそうじゃなかったかな?失念。
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
豊久のことは一言も出てこない。また、自分が西軍に着いた理由を「三成が家康の天下取りを恐れて上杉景勝と佐竹義宣と密約して西国の軍勢を動員したから」と書いているところは興味深い。どちらにしろ、当事者の島津義弘の回想録では、豊久は義弘をしたって(或いは同情して)関ヶ原に同行したわけではなさそうである。爰に江州沢山(=近江国佐和山)の城主石田治部少輔(三成)は太閤之御時股肱の臣と為り、其の威肩を双べる人無し。然る処、内府公(=徳川家康)の命有 り、出仕を止められ、蟄居するの中、思い含む所は、内府公が秀頼公に至りて、天下を譲らる可き儀これ有る可からずと。然からば、心を長尾(=上杉景勝)、 佐竹(義宣)に合せ、関西四十国の軍兵を催して、則ち伏見の城を攻め破り、美濃国に発向す。此の由関東に相聞え、忽ち 東国の軍兵打上る。時に慶長五年庚子九月十五日濃州関ヶ原に於いて合戦有り、数刻相挑むと雖も、今だ勝負を決せざる処、筑前中納言(=小早川秀秋)戦場に 於いて野心を起こすに依り、味方敗北し、伊吹山に逃げ登る。(以下略)
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
とあるのが初出である。この文からも豊久が伯父をしたって関ヶ原に同行したとは読みとれない。同年(=慶長5年)九月義弘濃州大垣城外に陣す。同十三日石田三成陣中に来る。嶋津中務大輔豊久も亦此席にありて(以下略)
また同本では
と豊久に島津義久所属の軍勢がつけられていることも興味深い。ちなみにご存じの方が多いと思うが、島津義久はこの時在国で、当然関ヶ原の合戦には直接参戦していない。其翌十五日の暁寅卯の間(=午前五時頃)に、関ヶ原に到着す。則石田三成已に備を二段に設け、其の一段は嶋左近父子、雑賀内膳を将とす。又一段は三成此にあって指揮す。皆道路の北に備ふ。次に嶋津中務大輔豊久冨の隈方(=島津義久所属)の士卒是に属す。三成が備をさる事一町ばかり為り。
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。
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