拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
別館で戦国時代の島津氏関係の女性についてのHPを運営しているが、島津家に限らず、日本の昔の女性というのはともかくデータが乏しく、重要な役割を果たしている人でも生没年はおろか、名乗っていた名前すら分からないことが普通である。
江戸時代になってもしばらくは状況は変わらない。
島津本家の当主ですら、初代藩主・島津家久の最初の正室(島津義久三女)…の名前はさすがに分かっているが(ちなみに「亀寿」という)、次の正室の名前は全く伝わっていない。正室の名前がはっきり島津家側の記録に残るのは四代藩主・吉貴になってから(桑名藩久松松平定重の娘で「福姫」。ちなみに吉貴の父・三代藩主・綱貴も島津家側の史料には記録がないが、相手側の史料などにより、先妻「米姫」後妻「鶴姫」という実名は判明している。)。
そんな「名前のない女」の一人が、今回のネタである二代藩主・島津光久の後妻である通称「陽和院殿」こと平松時庸女(実父は時庸の実弟である交野時貞)である。
まず、彼女が光久の後妻に納まるまでの前史を語らねばならない。たぶん、それを話さないと何で京の弱小の公家の娘が70万石の大藩(見かけ倒しとはいえヾ(--;)の正室に納まったかが分からない。
光久の先妻はこれまた名前が分からない。一般的に法号をとって「曹源院殿」と言われていることが多い。陽和院殿も何で70万石の大藩の正室になれたか不思議な家柄だが、曹源院殿はもっと不思議である。なんと曹源院殿の祖父は薩摩藩の筆頭家老・伊勢貞昌。江戸時代になってからは次期藩主たる世子の正室が家中、それも家臣の一人である家老一族から迎えられるなんて常識外れもいい「事件」だったらしい(普通なら大名の娘か公家の娘)。この話を聞いた細川忠興が息子・忠利に「珍しいところから嫁を迎えるなあ」といった内容の書状を送っている(この書状についてはで紹介されている)。これについては、私的には理由の目処は付いているのだが、別館のネタにしようと思っているので省略ヾ(--;)。ここで言えるのは、当の光久は当然ながらこの結婚に不満があったようで、この結婚を取り決めた父・家久が死ぬと公然とこの妻を無視し始めたことである。
まず、父・家久が亡くなった翌年の寛永16年(1639年)には側室との間に娘を儲けている。そして、曹源院殿はまだ若かったと思われる(実は生年未詳なのだが曹源院殿実父・伊勢貞豊が寛永元年1623年)31歳で亡くなったこと、寛永9年(1632年)に光久との間に第一子の島津綱久を生んだことから推測して、元和年間の生まれで光久と余り年は変わらないのではと推測できる)が※曹源院殿の年齢を確認できる資料を後日発掘したので訂正(2008/10/30)、以後、光久との間に子供を産むことはなかった(ちなみに寛永16年の時点で曹源院殿は25歳である。)。一方で、夫・光久は側室や不特定多数の女中(名前不詳の「家女房」)達との間に次々と子供を儲けている。その間の曹源院殿の動静は不詳である。
次に彼女の動静がはっきりするのが万治元年(1658年)、曹源院殿は病気のため早世するのである。享年44歳(参考「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5))。この死に様も、管見で見た史料(「薩藩旧記雑録」追録)を見る限りでは寂しい物だったことが推測できる。実は曹源院殿が死病にとりつかれたころ、息子・綱久の嫁である伊予松山藩主・松平定頼の娘(この人も実名不明)も重い病気にとりつかれていたのだが、家臣の心配はもっぱらこの松平定頼女一身に集まっており、定頼女の回復を祈願する祈祷や読経が熱心に行われた一方、曹源院殿は放置同然の状態だったようで、息子・綱久が地元・鹿児島の寺に母の健康回復を祈願するよう命じた書状が1通残るのみなのである。
…そして曹源院殿の1周忌がすむやいなや、光久は今回のネタヒロイン陽和院殿とさっさと再婚してしまうのである。
陽和院殿は確かに「名家」という公家では下のクラス、しかも養女に行った伯父・平松家は200石取り、これでも少ないと思うなかれ。実家の交野家は御蔵米30石という、薩摩藩の貧乏郷士もびっくりという貧乏公家だったのである。しかし、彼女には「薩摩藩の家老の孫娘」という大大名の正室としては弱い弱い立場の曹源院殿とは違って2つの強力な「武器」があった。
まず1つ。平松家は「桓武平氏流・西洞院家の分家」…というのが表向きの家柄であるが、この平松家は島津家の名目上の主筋に当たる摂関家・近衛家の門閥なのである(参考文献)。光久のホンネではこの近衛家の姫辺りを後妻に迎えたかったに違いない、が、島津家は名目上はあくまで近衛家の”家臣”筋、さすがにプライドの高い近衛家の機嫌を損ねかねない。そこで、同じ近衛家の”家臣”筋である平松家の姫(実は交野家だけど)を後妻に迎えたのではなかろうか。光久の後妻に陽和院殿を紹介したのも案外と近衛家だったりして。
もう一つの武器は、彼女の「前歴」である。彼女の妹が「山の井」という源氏名で後水尾天皇の女房として仕えていたのは、以前「島津家文書」の目録を調べたときに偶然知ったのだが、先日、別件で検索していたときに、この陽和院殿も天皇に仕えた前歴があったことが分かったのである。陽和院殿は独身時代は「弁内侍」と名乗り、後水尾天皇の息子である後光明天皇の掌侍を務めていた。つまり、れっきとした女官で今風に言えば公務員だったと言えば分かってもらえるだろうか(ちなみに紫式部や、陽和院殿の妹の山の井が務めていた「女房」はあくまで臨時雇用の立場。)。参考こちら
つまり、陽和院殿は摂関家筆頭・近衛家との関係があり、そしてそれ以上に皇室との関係が深い女性だったのである。
ところで、島津光久は先妻・曹源院に不満があったにせよ、どうして急いで陽和院殿を後妻にしようとしたのだろうか。(ちなみに光久は先妻曹源院との間に2人、他に不特定多数の側室や女中との間に大勢子供がおり、跡継ぎには困っていない状態である)
私は、光久が高い官位を狙っていたからではないかと考えている。島津光久が理由不明ながら、父・家久より低い官位(家久の最高位は従三位、光久は従四位下)に留まっていた事を不満に感じて、熱心に猟官運動をしていたという指摘があるのである(参考)。江戸時代の武家の官位は徳川幕府の専権事項になっており(参考)、光久の努力だけではいかんともしがたいガチガチの制度に固まりつつあったが、そこを、光久は官位発給の大元である朝廷を動かすことで何とかしようとしたのではなかろうか。
…
延宝元年(1673年)、光久は従四位上左近衛中将に昇格する。…しかしこれが最初で、そして最後の昇格であった。貞享四年(1687年)、光久は隠居し後を孫の綱貴に譲った(先述の長男・綱久は寛文13年(1673年)に早世している)。その後光久は故郷の鹿児島に移ったが、陽和院殿は同行しなかった。光久と陽和院殿の間に子供は産まれなかった。その8年後の元禄7年(1695年)11月29日、光久は79歳という長寿を全うし生涯を終えた。陽和院殿は当然ながら臨終には立ち会えなかった。その翌年、陽和院殿は落飾(実はこの時から「陽和院」を名乗るようになる)。その後は光久の菩提を弔いつつ、先妻の曹源院殿のように家臣からガン無視されるという目に遭うこともなく、先代藩主の妻として大事に扱ってもらったようである。光久に遅れること16年後の正徳元年に死去。彼女の遺品の中からは光久の自筆の漢詩などが出てきたという(『薩藩旧記雑録』追録)。
島津光久と陽和院殿の結婚は完全に政略を狙った結婚だったが、当初の目的だった「光久の官位昇進」ではうまく機能しなかったようである。既に時代は1元女官の嘆願より、幕府の方針の方が重視される時代になっていたのである。しかし、後光明天皇の元掌侍、そして和歌が堪能だったという彼女の教養の深さは、曹源院で不満を感じていた光久を十分に満足させる物だったのではなかろうか。
陽和院も、夫婦としての幸せはこの結婚で得ることは出来なかったと思われるが、仕えていた後光明天皇が承応3年(1654年)に亡くなり、宮中での居場所も怪しくなっていたときに、この結婚話は格好の寿退職の「渡りに舟」ではなかったではないだろうか。
おまけ
陽和院殿直筆の歌集 こちら(京都大学データベース)
江戸時代になってもしばらくは状況は変わらない。
島津本家の当主ですら、初代藩主・島津家久の最初の正室(島津義久三女)…の名前はさすがに分かっているが(ちなみに「亀寿」という)、次の正室の名前は全く伝わっていない。正室の名前がはっきり島津家側の記録に残るのは四代藩主・吉貴になってから(桑名藩久松松平定重の娘で「福姫」。ちなみに吉貴の父・三代藩主・綱貴も島津家側の史料には記録がないが、相手側の史料などにより、先妻「米姫」後妻「鶴姫」という実名は判明している。)。
そんな「名前のない女」の一人が、今回のネタである二代藩主・島津光久の後妻である通称「陽和院殿」こと平松時庸女(実父は時庸の実弟である交野時貞)である。
まず、彼女が光久の後妻に納まるまでの前史を語らねばならない。たぶん、それを話さないと何で京の弱小の公家の娘が70万石の大藩(見かけ倒しとはいえヾ(--;)の正室に納まったかが分からない。
光久の先妻はこれまた名前が分からない。一般的に法号をとって「曹源院殿」と言われていることが多い。陽和院殿も何で70万石の大藩の正室になれたか不思議な家柄だが、曹源院殿はもっと不思議である。なんと曹源院殿の祖父は薩摩藩の筆頭家老・伊勢貞昌。江戸時代になってからは次期藩主たる世子の正室が家中、それも家臣の一人である家老一族から迎えられるなんて常識外れもいい「事件」だったらしい(普通なら大名の娘か公家の娘)。この話を聞いた細川忠興が息子・忠利に「珍しいところから嫁を迎えるなあ」といった内容の書状を送っている(この書状についてはで紹介されている)。これについては、私的には理由の目処は付いているのだが、別館のネタにしようと思っているので省略ヾ(--;)。ここで言えるのは、当の光久は当然ながらこの結婚に不満があったようで、この結婚を取り決めた父・家久が死ぬと公然とこの妻を無視し始めたことである。
まず、父・家久が亡くなった翌年の寛永16年(1639年)には側室との間に娘を儲けている。そして、曹源院殿は
次に彼女の動静がはっきりするのが万治元年(1658年)、曹源院殿は病気のため早世するのである。享年44歳(参考「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5))。この死に様も、管見で見た史料(「薩藩旧記雑録」追録)を見る限りでは寂しい物だったことが推測できる。実は曹源院殿が死病にとりつかれたころ、息子・綱久の嫁である伊予松山藩主・松平定頼の娘(この人も実名不明)も重い病気にとりつかれていたのだが、家臣の心配はもっぱらこの松平定頼女一身に集まっており、定頼女の回復を祈願する祈祷や読経が熱心に行われた一方、曹源院殿は放置同然の状態だったようで、息子・綱久が地元・鹿児島の寺に母の健康回復を祈願するよう命じた書状が1通残るのみなのである。
…そして曹源院殿の1周忌がすむやいなや、光久は今回の
陽和院殿は確かに「名家」という公家では下のクラス、しかも養女に行った伯父・平松家は200石取り、これでも少ないと思うなかれ。実家の交野家は御蔵米30石という、薩摩藩の貧乏郷士もびっくりという貧乏公家だったのである。しかし、彼女には「薩摩藩の家老の孫娘」という大大名の正室としては弱い弱い立場の曹源院殿とは違って2つの強力な「武器」があった。
まず1つ。平松家は「桓武平氏流・西洞院家の分家」…というのが表向きの家柄であるが、この平松家は島津家の名目上の主筋に当たる摂関家・近衛家の門閥なのである(参考文献)。光久のホンネではこの近衛家の姫辺りを後妻に迎えたかったに違いない、が、島津家は名目上はあくまで近衛家の”家臣”筋、さすがにプライドの高い近衛家の機嫌を損ねかねない。そこで、同じ近衛家の”家臣”筋である平松家の姫(実は交野家だけど)を後妻に迎えたのではなかろうか。光久の後妻に陽和院殿を紹介したのも案外と近衛家だったりして。
もう一つの武器は、彼女の「前歴」である。彼女の妹が「山の井」という源氏名で後水尾天皇の女房として仕えていたのは、以前「島津家文書」の目録を調べたときに偶然知ったのだが、先日、別件で検索していたときに、この陽和院殿も天皇に仕えた前歴があったことが分かったのである。陽和院殿は独身時代は「弁内侍」と名乗り、後水尾天皇の息子である後光明天皇の掌侍を務めていた。つまり、れっきとした女官で今風に言えば公務員だったと言えば分かってもらえるだろうか(ちなみに紫式部や、陽和院殿の妹の山の井が務めていた「女房」はあくまで臨時雇用の立場。)。参考こちら
つまり、陽和院殿は摂関家筆頭・近衛家との関係があり、そしてそれ以上に皇室との関係が深い女性だったのである。
ところで、島津光久は先妻・曹源院に不満があったにせよ、どうして急いで陽和院殿を後妻にしようとしたのだろうか。(ちなみに光久は先妻曹源院との間に2人、他に不特定多数の側室や女中との間に大勢子供がおり、跡継ぎには困っていない状態である)
私は、光久が高い官位を狙っていたからではないかと考えている。島津光久が理由不明ながら、父・家久より低い官位(家久の最高位は従三位、光久は従四位下)に留まっていた事を不満に感じて、熱心に猟官運動をしていたという指摘があるのである(参考)。江戸時代の武家の官位は徳川幕府の専権事項になっており(参考)、光久の努力だけではいかんともしがたいガチガチの制度に固まりつつあったが、そこを、光久は官位発給の大元である朝廷を動かすことで何とかしようとしたのではなかろうか。
…
延宝元年(1673年)、光久は従四位上左近衛中将に昇格する。…しかしこれが最初で、そして最後の昇格であった。貞享四年(1687年)、光久は隠居し後を孫の綱貴に譲った(先述の長男・綱久は寛文13年(1673年)に早世している)。その後光久は故郷の鹿児島に移ったが、陽和院殿は同行しなかった。光久と陽和院殿の間に子供は産まれなかった。その8年後の元禄7年(1695年)11月29日、光久は79歳という長寿を全うし生涯を終えた。陽和院殿は当然ながら臨終には立ち会えなかった。その翌年、陽和院殿は落飾(実はこの時から「陽和院」を名乗るようになる)。その後は光久の菩提を弔いつつ、先妻の曹源院殿のように家臣からガン無視されるという目に遭うこともなく、先代藩主の妻として大事に扱ってもらったようである。光久に遅れること16年後の正徳元年に死去。彼女の遺品の中からは光久の自筆の漢詩などが出てきたという(『薩藩旧記雑録』追録)。
島津光久と陽和院殿の結婚は完全に政略を狙った結婚だったが、当初の目的だった「光久の官位昇進」ではうまく機能しなかったようである。既に時代は1元女官の嘆願より、幕府の方針の方が重視される時代になっていたのである。しかし、後光明天皇の元掌侍、そして和歌が堪能だったという彼女の教養の深さは、曹源院で不満を感じていた光久を十分に満足させる物だったのではなかろうか。
陽和院も、夫婦としての幸せはこの結婚で得ることは出来なかったと思われるが、仕えていた後光明天皇が承応3年(1654年)に亡くなり、宮中での居場所も怪しくなっていたときに、この結婚話は格好の寿退職の「渡りに舟」ではなかったではないだろうか。
おまけ
陽和院殿直筆の歌集 こちら(京都大学データベース)
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