拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
○問 満鉄改組論で第二部と第三部との間の対立という物は-「第二部」「第三部」は参謀本部の部署のこと。今田は第二部支那課所属かな?
○片倉 第二部はやれという議論が中にはあったのです。それは今田新太郎とか、われわれもおりました。今田さんとか、どっちかと言えば第二部の方は具体性がない。第三部というのは満鉄にくっついていますから、なかなか満鉄問題というのはその後に置いても、たとえば路警の問題、鉄道警察ですね、あの路警を一つ改正するのだって大変な問題なのです、第三部の説得という問題は。恰も満鉄の代理人ですから。
p.44~45
○問 では、もう少しお話しを進めていただいて、さっきちょっと話のありました士官学校事件のことなど伺いたいのですが。「辻君」:ご存じ辻政信のこと。
○片倉 それは参謀本部関係でお話しをしたように、いろいろな国内の情勢をやっているときに、もう今は忘れましたけれども、青年将校の動きとか、いろいろなことがあったわけですよ。そのうちで士官学校の時に、辻君が当時士官学校の中隊長になるという事になった。その上に辻君が神兵隊事件か何かの時にこれに関連して、彼が今田新太郎と一緒に新疆方面に旅行に出されたことがあるのです。
というのは、今田新太郎の持っているピストルが渡っているわけですよ。神兵隊事件の誰かに。つまり今田さんがやったわけですね。そういうことで、辻君も何かそういうことに関連して、彼らに嫌疑がかかると困るというようなことから、支那の奥地の旅行をさせたことがあるのです。(後略)
p.45
士官学校事件や神兵隊の話はまた後日するかも知れない。
○問 浅原さんとのご関係というのはどういう。「浅原君」:浅原健三。『反逆の獅子』に詳しい。後に今田とは大親友になる。
○片倉 私が。
○問 はい。
○片倉 これは、この前もお話ししたごとく私が関係したのは参謀本部時代で、一番はじめ浅原君は僕もあんまりよく分からんけれど影佐さんじゃないかと思うんだね。彼と軍の接触が。それで影佐さんと浅原の接触が始まって、それで影佐さんから浅原は石原さんに連絡が付いた。それから私が参謀本部におりましたから、その際にまた浅原を影佐さんから紹介を受けたわけです。それで、浅原と僕ら、それから石原さんというものが接触があった。このことは、浅原の方から見ますと、あれはご承知のように無産党の闘士であり、八幡の溶鉱炉の火を消した男で、当時の軍部から見れば、これは危険なる人物ですよ。ある意味において。浅原は、当時満州事変によってまあ関東軍がああいうことをやったと。そういう連中が今東京に帰ってきたと。浅原氏は国家革新という改造の野心を持っているわけだ。この国家改造をするには軍部を利用する以外にないというのが、彼が麻生とか、当時麻生という社会党の代議士、ああいう連中と話した、あるいは西尾ですね。当時の。ああいう連中と話した上での結論で、満州組を利用すべきだと、こういう風に、彼は結論になったと思うんですよ。それで満州組に接触を始めたんです。彼は満州組に。そこでその満州組の大将である石原さんに接触を始めた。それから、その子分みたいに思っていた僕らのところとか、今田新太郎とかそういうものに皆接触を始めたわけなんです。そして、浅原は今度はその東京の協和会の事務所が出来たので、そこの事務所にも入ったわけです、浅原が。という状態になったわけです。(後略)
p.126~127
「影佐さん」:影佐貞昭 谷垣貞一前自民党総裁の母方の祖父。
「麻生」:麻生久
「西尾」:西尾末広
○問 浅原さんと板垣さんは非常に密接に。「板垣さん」:板垣征四郎
○片倉 ええ。石原さんもよかった。今田もいいし、ぼくらもみないい。
(中略)
○問 浅原氏というのはやっぱり一人で仕事をするわけですか。それともやっぱり子分なんかがいるわけですか。
○片倉 今あの人の子分の一人で安部鹿蔵というのは映画制作会社を持っていますよ。そのころの。あの人は子分と言うより人をやっぱり動かす術を、政治家ですよ、あれは。たいしたやつですよ。だから死んだとき、西尾さんとか鈴木茂三郎、みんな来ましたよ。僕はだからその話を西尾とか鈴木にしてやったですよ、昔の話を。お葬式にはやっぱり死んでああいう人が来る。軍人では僕一人だったな。誰も来なかったけれどもね。まああとは死んでいるし、竹下さんとかその他関東軍の参謀でおってそんな人とはつき合わないですよ。あれ。もうはじめから板垣、石原、今田と私。そういう人だけです。つき合っているのは。
p.130~131
「石原さん」:ご周知の石原莞爾のことである
「安部鹿蔵」:この談話当時国際放映社長。『反逆の獅子』によると浅原健三を主人公にした映画を作ろうとしたが、結局果たせずに死去したらしい。
「鈴木茂三郎」:社会党代議士。
「軍人では僕一人」:板垣征四郎→昭和23年(1948年)処刑、石原莞爾、今田新太郎→昭和24年(1949年)死去
「竹下さん」:竹下義晴 陸軍士官学校23期。満州事変当時関東軍参謀。のち中将。浅原健三からはぶられたのは、片倉、今田と違って石原莞爾とそんなに仲良かった訳じゃないからと思われ。
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