拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今田新太郎よりマイナーだと思われるのだが、実はwikipediaにはもう単独立項されてるという…_| ̄|○
でも、知らない人の方が多いと思うので簡単に説明してしまうと
・張作霖爆殺事件の実行犯
・満州移民の提案者
です…
特に、満州移民を実際に提案して推進したと言う事で戦前には神の如くあがめ奉られたのです
が
ご存じのように、終戦を目前にして、ソ連の満州侵攻により「満州国」が崩壊すると、移民の大半が這々の体で逃げ…というか無事逃げられた人なんかほとんどなく、財産を失っただけならまだマシな方で、一家離散、生き残った子供が「孤児」となってその後の中国で悲惨な人生を送った人が多かったのは記憶に新しいかと思います。
-その結果「東宮鉄男」は一転して恨みの対象となり、名前をいうのすらおもんばかられる対象となったのでした。
唯一の幸運?は鉄男自身は日中戦争でとっくに戦死していて、非難を直接受けなかったことでしょうかね…。
なお、名前がかなり立派なのに驚く方が多いと思いますが(というかわたしがそう)、「東宮」は”とうぐう”じゃなくて”とうみや”とよび、今でも群馬県で旅館を経営されたりしている結構な名士一族のようです。「東宮鉄男」で検索するとご親族のブログなどがぽつぽつヒットします。2006年頃にNHKの下請け会社の攻勢に根負けされ?東宮鉄男の遺品や日記を公開されて、それがNHKスペシャルで紹介されてかなり反響を呼んだようです。
こちらのブログに写真が載ってます。名は体を表す。
※ちなみにこのリンク先のブログの管理者氏はあの樋口季一郎(石原莞爾の若いときの友人で、のち満州に逃れてきた大量のユダヤ人を救ったと言われる)の親戚だそうです。
さて、今田ネタでなんでいきなり関係があるようでないようなこの人を出してきたかというと、
今田新太郎はこの人が死んだときに弔文を書いているのですよ。
でも、知らない人の方が多いと思うので簡単に説明してしまうと
・張作霖爆殺事件の実行犯
・満州移民の提案者
です…
特に、満州移民を実際に提案して推進したと言う事で戦前には神の如くあがめ奉られたのです
が
ご存じのように、終戦を目前にして、ソ連の満州侵攻により「満州国」が崩壊すると、移民の大半が這々の体で逃げ…というか無事逃げられた人なんかほとんどなく、財産を失っただけならまだマシな方で、一家離散、生き残った子供が「孤児」となってその後の中国で悲惨な人生を送った人が多かったのは記憶に新しいかと思います。
-その結果「東宮鉄男」は一転して恨みの対象となり、名前をいうのすらおもんばかられる対象となったのでした。
唯一の幸運?は鉄男自身は日中戦争でとっくに戦死していて、非難を直接受けなかったことでしょうかね…。
なお、名前がかなり立派なのに驚く方が多いと思いますが(というかわたしがそう)、「東宮」は”とうぐう”じゃなくて”とうみや”とよび、今でも群馬県で旅館を経営されたりしている結構な名士一族のようです。「東宮鉄男」で検索するとご親族のブログなどがぽつぽつヒットします。2006年頃にNHKの下請け会社の攻勢に根負けされ?東宮鉄男の遺品や日記を公開されて、それがNHKスペシャルで紹介されてかなり反響を呼んだようです。
こちらのブログに写真が載ってます。名は体を表す。
※ちなみにこのリンク先のブログの管理者氏はあの樋口季一郎(石原莞爾の若いときの友人で、のち満州に逃れてきた大量のユダヤ人を救ったと言われる)の親戚だそうです。
さて、今田ネタでなんでいきなり関係があるようでないようなこの人を出してきたかというと、
今田新太郎はこの人が死んだときに弔文を書いているのですよ。
東宮鉄男大佐のことども先述したとおり、東宮鉄男と今田新太郎の軌跡はかぶる部分があります。
顧れば昭和六年の春であったろう初めて私は当時の大尉当時の守備隊長東宮鉄男という名を知り私かに畏敬の念に堪えなかった。固より場所は奉天、東北大学に至る途中の北陵引込み鉄道遮断事件であった。当時此所を案内したのは花谷少佐であり、案内せられてみて回ったのは旅順から出てきた板垣大佐、石原中佐数名であったと記憶する。自分は御供という格好で初めて同氏の名を知り同氏の果敢なる行動の跡即ち拒馬を目前に見た。説明後の奉天特務機関花谷少佐は例の口を付いて出る雄弁に軍幕僚は万事承知という顔つきであったが自分は初めてのこととて甚だ印象的であった。(中略)恰かも建国後自分と故大佐とは行き違いとなりしも、その後十一年軍政部顧問として同じ職務を取ることとなり、茲に初めて東宮氏の人格に触れ、識見を敬し、其の信念を偉とし、其の弁を雄とし且つは人としての情誼に服した。昨年上海出征前水戸に至り雨中水戸志士並び幽谷東湖先生の墓を展したのは尚昨日の如し。あたらこの人を失う日支戦争を此の意味に於ても自分は恨みとする。しかし人間が信念を持って尽した事績は大きい物と思う。故大佐の足跡は必ず花開き実結ぶべきであり、この時の其の花其の実を君の霊に捧ぐるの一日も早からんことを念じて此の稿を終わる。終わりに故大佐が中尉時代青年将校として南支に活躍した事績は他の何人かに寄って書かれることを希望し、且つ其の時代から今日まで小畑敏四郎中将が此の亡き有為の士に目をかけられしことを併せ記する次第である。
『鉄心』4(2)p.83~84
※原文は旧字体旧仮名遣いですが、適宜新字体新仮名遣いに変更しています 読みにくいんで…
軍の命により、満州に関わる謀略を実行した犯人として。
その後の満州の運営に深く関わった人物として。
-今田は東宮のそういう部分に感じるところがあったのでしょうか?
最も生前東宮は張作霖爆殺事件の実行犯と言うことは周囲に秘匿していたようですが(でもうすうすばれてたみたいですけど)
他興味深い箇所
「顧れば昭和六年の春」:赴任していきなり見学先が張作霖爆殺事件の現場ですか
「説明後の奉天特務機関花谷少佐は例の口を付いて出る雄弁に」:口達者が軍全体にとどろいていたのか花谷
「あたらこの人を失う日支戦争を此の意味に於ても自分は恨みとする。」:「此の意味に於いても」…別の意味でもっと恨みと思っていたということですな…
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