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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
終戦の日なので、それっぽいネタを。



今田新太郎が最後に配属されたのが第36師団(コードネーム"雪")なのだが、そこの最後の師団長を務めたのが田上八郎中将である。

ところがこの人、今田どころじゃないくらい情報がない。

今のところ私が入手できた唯一の第36師団関係の本『戦場の聴診器―ニューギニア戦で6回死んで90歳、「おお先生」は今日も走る』にわずかに出てくる情報+ネットで拾った情報から田上さんがどんな人か見てみよう。



田上八郎は陸軍士官学校を25期で卒業、陸軍大学校は38期(大正8年(1919年))卒。有名な同級生に陸軍中野学校を作り、後にあの京都産業大学の設立に関わった岩畔豪雄などがいる。
※京都産業大学に「あの」を付けたことにつっこみは入れないようにヾ(--;)
実は陸軍大学校では今田(士官学校30期卒、大学校37期卒)のほうが先輩である。つまり…まあいいか(ヲイ)。

田上は第二次南京事件(大虐殺があったとか言われている方の戦闘です)のとき、静岡の第34連隊を率いて出陣しているが、他に出陣した3連隊の連隊長が激戦の末戦死したのに、田上は生還している。そのため、日本国内では田上を弾劾する大衆が田上の留守宅を襲撃するなどの事件となり、田上の妻は自殺に追い込まれたようです。(参考ブログ こちら

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時には少将で歩兵第45旅団長。その後、1943年10月1日付で第36師団師団長となる。今田は1941年に第36師団参謀長に任じられているので、ここでも今田のほうが先輩だった。

ところが、田上の任命と同時に第36師団は満州赴任予定を突如変更され、南方戦線への配属が決定する。後述の通り、「東条英機にとって鬱陶しい田上・今田を激戦地に追い払うための人事」…と思われても仕方ないかと。

さて、『戦場の聴診器』の主人公・三好正之軍医中尉(当時27歳)は昭和19年(1944年)3月24日、第36師団に着任する。この時既に南方の戦況はかなり悪化しており、経由地のマニラなどで赴任地に行かず脱落(それもよりによって陸軍の人からの耳打ちで脱落)する軍人が後を絶たなかったようだ。三好もマニラ到着時にいろいろ耳打ちされた物の、結局はニューギニアに行くことを決断した。
着任当時の第36師団本部のあるサルミ(現在のインドネシア西ニューギニア)の様子というと
太陽が容赦なく照りつけて、気温40度を超え、猛烈な湿気も加わってそれこそ酷暑である。しかもサルミ地区は、海岸線に沿って波打ち際から70mくらいの幅の砂浜がやや乾燥しているくらいで、その奥は深いぬかるみだらけの大湿地帯とジャングルだった。道無き海岸線も小さな河川で分断されていた。その上に降雨が激しく悪性のマラリアが猖獗を極めていたのである。
p.102
…と言う悲惨きわまりない状態であった。
でもこの後もっと悲惨になるのだが。

三好軍医は早速着任の挨拶に行く。
三好軍医は、さっそく、第三十六師団長・田上八郎中将と参謀長・今田新太郎少将に着任の申告を行った。
「陸軍軍医中尉・三好正之は昭和19年1月30日付を以て第224連隊付き軍医に補せられました。ここに謹んで申告致します。」
(中略)
「三好軍医、長旅ご苦労だった。ところで早速、東京や内地の状況を教えてくれないか」
東条英機首相に疎んじられてニューギニアに左遷させられていた田上師団長は、中央の情報に飢えていた。今田参謀長も、軍人が作戦よりも政治に深入りすることを痛罵した反東條派の一人で、同じく激戦地に飛ばされていた。
p.103
肝心の東条に疎んじられた理由が書いてない_| ̄|○ まあ、田上さんがメインじゃないからな…。
さて、三好さんはどうも田上さんに気に入られたらしく、その後毎晩のように話し相手として呼ばれたらしい。
三好は、毎晩のように師団長に状況報告をもとめられた。田上中将も三好軍医の豊富な話題に大いに満足した。話は更に当世の流行歌や映画、鹿児島を舞台にした岩田豊雄の人気小説『海軍』などにおよび、薩摩隼人の田上師団長を大いに喜ばせた。
p.104
おおお!田上さんは薩摩隼人でごわしたかヾ(^^;)好感度UP。…単純でスマン
ちなみにご存じの方が多いと思いますが、岩田豊雄のペンネームが「獅子文六」、『海軍』は映画化もされたようです。
更に話はヒートアップする。
その頃、庶民が鬱屈を発憤させるのに数々の替え歌が流行した。「愛国行進曲」の節にのせて「御代東条のハゲアタマ…」と、東条首相を揶揄する歌が口ずさまれていた。
田上と東条との関係を知っており、反骨精神旺盛で師団長に同情的だった三好軍医は、座が和む内、この話題もふと口にでかかったが、流石に不謹慎だとぐっと腹の中にしまい込んだ。
p.104
その後、アメリカ軍の猛攻撃により第36師団は壊滅寸前まで追い込まれる。更に、上層部(第2軍)の現場を分かってない作戦ミスで、第36師団旗下の松山連隊はジャングルで玉砕寸前の目に会わされる。この時、
「雪部隊」司令部は、この阿南(※ばんない注 阿南是幾)第二方面軍司令官による命令の「非」なることに、条理を尽くして悲痛な作戦再考の意見具申をした。
p.108
意見の内容の概略は
・敵の攻撃で船を失い、命令の場所まで移動が出来ない
・海岸線は敵に察知され、ここからの移動は無理
・攻撃は守備よりも多くの資材を要するが、現在保有している資材は2ヶ月分しかない上に、以後の補給の予定もない
・こんな状態で言われてるような作戦実行したら、ジャングルの餌食になるか敵の餌食になるかどちらか、死ねと言われてるような物
『戦場の聴診器』には明記されていないが、これに田上は勿論、今田も深く関わっていることは言うまでもないだろう。しかし、この声は阿南司令官には届くことはなく、仲介に入った寺内(※ばんない注 寿一、寺内正毅の息子)南方軍総司令官が「それじゃ、第36師団本隊は動かなくてもいいから、旗下の松山連隊だけでも」という中途半端な命令を出し、上記のような災難にあったのであった。

その後、第36師団は大きな攻撃には遭わなかったが(戦線が一気にサイパンまで北上したから)、今度は日本からの補給が来なくなり、昭和19年8月には連絡も付かなくなる。こうして師団全体がマラリア地獄+飢え死寸前に追い込まれる…本土との接点がなくなり先の見えない迷走状態に入ったことから、自殺者も相次いだらしい…。

昭和20年8月15日、ようやく戦争が終わったときには10000人いた師団が3000人ほどに…。
しかし、復員船が到着したのは更に10ヶ月後の昭和21年6月であった。
三好軍医はこの船に乗ったが、責任者であった田上と今田は乗っていない。
検査場に入る前、集まった師団将校は二列横隊に整列して、師団長の決別の挨拶を受けた。
「・・・戦いが敗れたりと云えども、幸いにして諸官を送還出来ることを喜ぶ。今後に於いて、日本復興のため生命を捧げてほしい。余は全責任を負ってここに残る。幾万の死んだ戦友と共に、はるか南溟より諸官の活躍を祈ってやまない。諸官、さらば」
田上師団長、今田参謀長、国分経理勤務部長らは、指定の戦犯要員収容所へ静かに歩み去って行く。涙でかすんだ私の眼は、その後姿を彼方に消えるまで追っていた。
富谷太一著「ニューギニア最後の死闘」から引用
http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub408.html
この後、田上と今田の運命は分かれる。
今田は昭和21年12月に復員。が、
師団長の田上八郎中将は、オーストラリア軍の飛行機の不時着操縦士やスパイ容疑の現地人を処刑した罪で、責任を負わされて戦犯となった(昭和23年刑死)
p.174
これは何ともつらいところで、先述したように第36師団全体が日本から補給無く干殺しの刑にあってる状態で捕虜を抱えている余裕なんて無く、万が一捕虜にしたところでやっぱり食料が無くて捕虜虐待で、どっちにしろ死刑になる運命から免れなかったような気がします…。オージーに「本国から補給が無く師団全体が死にかかってる」なんて言ってもとても信じてもらえなかったでしょうしね。
田上さんの遺言。孫引きです。
拝啓
 愈々昭和二十三年十月六日午前九時ホーランジャに於て敗戦の犠牲となり、亡き多数戦友の後を追ふ。
 茲に五十七年の一生を了るも、軍人生活三十有八年完全に其の任を果し得たるを満足とし何等思ひ残すこと更に無し。
 堅く神州の不滅を信じ霊となりて皇国を守護せん。
 最後迄罪は自覚せず、其点満足。

 敦子よ、留守のみを頼み何等其方に報い得ず此の事のみ断腸の思ひ、貴女も戦争の犠牲として後を何卒頼む。今後苦しき一生何卒元気に過されよ。

 隆、寛男、明よ、共に体を丈夫に各々所信に進み其各自の職場に於て皇国の再建に一路邁進せられよ。
 兄弟協力亡父の跡を見よ。
 母上は君等三子の為に辛苦せらる。
 予に代りて母上に孝養を頼む。
 毛利元就の遺言を其侭君等に呈す。

 重雄兄、永い事御世話に相成り何等報いず相済み申さず。
 今後も遺族は何かと御世話になること宜しく頼み入る。
 父上様の主義、至誠、正義、正直、母上様の慈悲、心に銘じ今日迄過し来り概ね御両親の所期に従ひ得しを喜ぶ。

 其他皆様、御世話に相成り厚く御礼を申上ぐ。
 切に皆様の御健康と御幸福とを祈り上ぐ。

子供等よ、一誠無我、任務精進の事
皇国万歳 いざさらば     結尾
http://stomach122.jugem.jp/?eid=1231
刑の執行は昭和23年(1948年)10月6日であった。



さて、この本には三好軍医が今田参謀長となんか交流があったという話は出てこないのですな_| ̄|○ 他のエピソードで三好さんはドイツ語がぺらぺらだったと言う事が描かれ、ドイツ語がしゃべれる同僚とはドイツ語で内緒話をしていたらしく、今田も恐らくドイツ語はぺらぺら(カントを原著で読めるくらい)だと思われるのですが…。
うーむ、ご本人に聞いてみるべきか。ご健在なら今96歳…(2013年現在)。

なお、『戦場の聴診器』にて「三好軍医が前線で弾が飛び交うさなか、ある士官の足が壊疽しかかっていたので軍刀でぶった切った」と言うすさまじい話が出てくるのですが、その士官とはこの人のことです。今田の部下だったらしい

さらにおまけ
偶然だが第36師団所属の兵隊さんの回顧談が載ってた 山形新聞2013/08/13

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無題
20年前に祖父の戦時中のアルバムを見せてもらったとき田上八郎さんの写真がたくさんあり、なぜこの人の写真をこんなに持っているのか聞いたところ、家族に送る写真を撮るときに格好良く撮れるようにと田上上官が自身の馬に乗せてくれたそうです。その時の馬上の人になった祖父(嬉しさのせいか両足がピーンと開いて伸びた状態なので馬に乗ったことないのがまるわかり(笑))の写真は気に入って保存しました。そのエピソードだけ聞いたときに優しい上官だったのかな?と想像して調べたらここに着きました。この方や部隊の事をもっと知りたいです。
通りすがりのたぶん元部下の孫 2015/10/23(Fri)04:19:46 編集
田上八郎について
はじめまして。貴重なコメントありがとうございます。

お祖父様が田上八郎の部下と言うことは、第36師団関係者のご子孫と言うことでしょうか。
拙記事にもありますように、田上八郎に関する史料は非常に少なく、この記事を書いた後に見つけたのが
『雪 第三十六師団戦誌』
という関係者の回想録で、これが今のところ一番詳しいです。ただかなりの稀覯本で、所蔵しているところが少ないです…。
他、静岡の連隊長時代の記録では
『ああ、静岡三十四連隊 房だけの軍旗とともに』
と言うのがあります。これがまた稀覯本ですが…。
ご参考になれば幸いです。
ばんない 2015/10/26(Mon)22:07:10 編集
お返事いただき、有難うございます。
教えてくださった本はぜひ探してみます。
祖父は田上上官の写真以外に現地の中国人たちと話してたり、一緒に川で洗濯してる写真とかもいっぱい持っていました。最近インターネット上で日本の軍人が現地の中国人の麻雀を眺めてる写真を見かけたので、この写真をどこかで見たことあるなと思い出して調べていたらここのページを見つけた次第でした。
田上八郎さんが指揮していた部隊は本当に南京大虐殺に関わりがあったのでしょうか…。祖父は自分は食糧班で実戦をする前に病気と足の怪我で早々に引き揚げたので部隊の事をよく知らない、上官はよくしてくれる人だったとしかいっていませんでした。本当に運が良かったのか、記憶に蓋をしたのか…。祖父は十数年前に亡くなったので真実はわかりませんが、機会があれば調べてみます。
通りすがりのたぶん元部下の孫 2015/10/29(Thu)21:40:51 編集
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