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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回から、いろんな本に出てくる今田新太郎を捜してみようと思う。-まとまった史料がないので…

今回取り上げる本は『中江丑吉の人間像-兆民を継ぐ者』阪谷芳直・鈴木直編 風媒社刊
なお、中江本は色々あり、同じ文が再掲されることが多く、重複することもあるかと思いますがご容赦下さい。
昭和17年8月30日北京の旧宅で、無宗教告別式が行われた。曹如霖氏と阪谷希一氏とが主催した。大正岡村寧次の姿も見えた。武官時代の知合であろう。少将今田新太郎はかねて反東条派として山西省路(※正しくはさんずいに「路」)安に追いやられていたが、激越な弔文を寄せた。
p.32
残念ながらこの弔文は残ってないようだ…読みたかった
蘆構橋事件が起こったとき、中江さんは海水浴のため九州小浜海岸について2,3日目であったが、そくざに1ヶ月の予定を切り上げて北京に帰ってしまわれた。長期の戦乱が来たのに避暑することはつつしむべきだというのであった。やはりそのころ少時から親しんだ後輩の今田新太郎大佐宛に、今度の事変は蒋介石を明の太祖たらしめるものだ、と言う意味の手紙を送っていられる。
p.80~81
7月24日~7月27日
(中略)
27日。午前中、7度台に下る。今田氏(新太郎大佐)より加藤(※ばんない注 惟孝、丑吉の弟子の一人で後東京教育大教授)宛の手紙、「そんなマヅイ食物ばかり差上げないで、鯛の茶漬とか鯵の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と書いてある。中江さんいわく「オツリキで栄養のない物を食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦に苦痛(シュメルツ)はつきものだ。自分はシュメルツに耐えて戦争する也、と返事に書いてくれ。」
p.151
7月30日。
(中略)
…他の人へは返事は書いてくれたか。」今田老人(新太郎大佐の老母)がまだだから、食物の話(7月27日参照)を書いた息子さんの手紙を同封してあげましょうかというと、「イカンイカン、お前はどこかに抜けたところがある。今田はオッカサンの前ではあんなくだけた態度は見せない。親子の間のそういう秘密が分からなくては駄目だ。」
p.154
もちろん、私などには、そのヘンリンも見せてくれなかったが、中江さんのこの頃の(※ばんない注 蘆構橋事件の頃)気持ちの中には、支那事変の始末をどうするかと言うことで、支那を知らない日本軍部のやり方に大きな批判があったようである。親しい参謀本部付の今田少佐への手紙にうかがわれる。8月11日付の今田少佐への手紙には
「世界の一書生より見るも、現在の情勢の如くんば嘗つて昨年小生申し上げたる通りの結果を実現しつつある訳にて全く憂慮に不堪、機断を加ふる以外には如何なる”手”もなしと確信致居候
然し乍ら四億万と一億に近き人間が機に水を隔つるのみ(に)て生存せる事実は、如何なる力を持ってするも抹殺し得科からざる事実也、目前一時の情勢には勿論悲観するも大局上は毫も悲観の用なし、一日も早く大道に復興する日を熱望するのみにて候」…
とある。
その註に「事変の拡大方針の決定前後に中江は今田少佐に、拡大すると長引いて大変な結果になるぞ、と言う意味の書簡を送った。その文中に”蒋介石をして明の太祖たらしむる勿れ”という言葉のあったことを今田が口にしており、これを今田は参謀本部で石原莞爾その他と、廻覧し熟読したと言うが、この書簡は見あたらない」
p.209~210
帝国陸軍の天才と謳われた石原莞爾中将については、その鋭い頭脳、禅僧のような克己、予言者的性格に加えて、「反東条」に由来する悲運の故に、今なお信仰者が絶えないが、私(※ばんない注 阪谷芳直のこと)自身にあっても、父(※ばんない注 阪谷希一)が満州建国で生死を共にした数多い軍人中、高い評価を与えていた唯一の軍人が石原であった影響もあり、稚い頭の中でこの人だけは特別の軍人だというイメージが、いつの間にか根を張っていた。中江さんが幼時から親しみ後輩として導いた人に、石原莞爾の一の子分と称され、「陸軍の黒豹」と渾名された剽悍な一将軍今田新太郎少将があり、日華事変末期から太平洋戦争勃発にかけて、「反東条」をもって鳴っていたのを睨まれ、山西省路安に追いやられていたことなどから、私は中江さんも当然石原将軍に好意と同情を寄せている物と決め込んでいた。(後略)
p.260
なお、この後阪谷芳直との会話の中で、中江は「バカなことを言うな!東条の石原処断は正しい。石原といえども軍律に違背すれば、容赦なく処断すべきが当然だ。君はこんな事を見誤っちゃあいかんよ。」と阪谷をしかり飛ばしたそうだ。
中江さんは軍人との交友もあった。(※ばんない注 小倉倉一 のち札幌大学教授)は中江宅で、居合わせて、二度ほど今田新太郎将軍(当時大佐)にあったことがある。今田は中江さんに心服している軍人の一人だった。中江さんの死後、私はこの将軍と親しくつき合うようになった。人間としてすぐれた人だったが、終戦後幾ばくもなく他界した。
p.299
この文を書いた小倉倉一(のち札幌大学教授)は晩年の今田の事を良く知っていた一人と思われるが、残念な事に晩年の今田新太郎についてはこれくらいしか文章を残していない。やはり昭和32年(1957年)の花谷正証言で柳条湖事件の実行犯であることがばれ、話すことがはばかられるようになったことが起因していると思われる。
さきのべた今田将軍は、「火の玉」とあだ名された果断のタイプの軍人であったが、その今田を例にとり、中江さんは次のように言ったことがある。
「今田が、自分に心服し、ついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見を持っているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである。」
p.302

長くなったのでここでいったん切ります。

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