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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前にも参考にした掲示板にこんな事を書いている人がいた。
昭和22年5月1日と2日、酒田臨時法廷に石原莞爾将軍を召喚した。山形県の酒田市商工会議所はものものしい空気につつまれた。極東軍事裁判が出張して、臨時法廷を開き、証人として石原莞爾の訊問をしようというのです。

裁判官の一行は判事、弁護士、速記者、通信兵、タイピスト、内外新聞記者65名という物々しいもので、特別列車を仕立て寝台車、食堂車、応接者、展望車まで備えました。石原莞爾は当時、私の父や同志たちと酒田から20キロ北方の吹浦の西山農場の自宅に静養中で、医師から絶対安静を命ぜられていました。

石原莞爾をなぜ裁判にかける必要があった理由は2つだと思います。1つは石原莞爾を東京裁判へ引っ張り出したら、何を言い出すかわからない、東京裁判をひっくり返すような発言をするかもしれないとの懸念です。第二の理由は満州事変で世界的に有名になった大物ですから、ソ連に対する手前もあり、形式的にも訊問しなければならなかったのでしょう。

石原莞爾将軍に私の父の血を輸血していました。当時石原莞爾は膀胱癌で出血が激しく、動かすには危険な容態でした。だが、石原莞爾は戦闘帽を被り、私の父のひくリヤカーに乗り、20キロの距離を酒田に向かった。米軍の軍医は非常に親切で「具合の悪いときは直ぐ休憩するから遠慮なく言え」と言った。

法廷は判事、検事、軍属キャメラマン、タイピストなど多くの人であふれ、その外に各国人が傍聴し、勝利者が敗者に向かって威圧する重苦しい空気の中に開かれました。石原莞爾は看護婦に付き添われ、1947年5月2日、極東裁判を臨時に酒田商工会議所に移して、訊問することになりました。

判事「証人石原は英語を話せるか」石原「日本語ならチョッピリ話せる」判事の問いに悠々と山形弁丸出しだったので、法廷にはドッと笑い声が起こって賑やかになった。裁判長は静粛を聴衆に喚起したのち、石原莞爾に質問しました。裁判長「訊問の前に何かいうことはないか」石原「ある。不思議に耐えないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」

堂々と発言した。裁判長も検事も狼狽して「ジェネラル石原は戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ」と言い、そして「証人はそんなことを言ってはいけない。こちらから訊ねることに対し、『イエス』か『ノー』かを答えればよい」と注意して検事の訊問に移った。
.. 2010年12月31日 23:55
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=view&p=13
検事「満州事変における日本軍の被害の程度はどうか」石原「被害の程度を言い表すのに日本語には『イエス』『ノー』といった言葉はない。」と皮肉たっぷりに切り返すと法廷は再び爆笑に湧き返った。判事は石原莞爾に同情的で、検事が何か訊問すると「ストップ」を命じ、今の検事の訊問には答弁する必要なし、と言うことも多かった。

検事がまた戦略と戦術とを混同した訊問をするので石原莞爾は知らんふりをして「今の訊問を聞きそびれた。もう一度やって欲しい」そして大きな声で「裁判長閣下!!検事の言葉をご清聴願います」と、言ったので裁判長は「答える必要なし」と命じた。その時の検事の顔が怒りと興奮とで真紅になり更に訊問を続けた。

検事「満州事変の時に日本の兵力は、相手に対し20対1であったというが、それで勝ったのか」と不思議がって聞いた。石原「勝った。戦争の勝敗は必ずしも、数によっては決まらない」検事「そんな兵力で大鉄槌を下したのか」石原「いや、中鉄槌を下した」ここでまた満廷爆笑した。

検事「外に何か言いたいことはないか」石原「本庄と板垣は気の弱い男で、可愛い部下のために思いきった断を下し得なかった。人間としては人格高潔な至って立派な人たちだ」本庄は終戦時自決したが、板垣の弁護人はその場に居合わせたので、非常に喜んで直ぐ石原莞爾に握手を求めに来た。このようにして正式な検事の訊問は終わったのである。

訊問終了後、やりこめられていた検事が石原莞爾のもとにやって来て「つまらない訊問をしてすまなかった」と詫びた。それに対して石原莞爾は「いや一向お役に立てなくてお気の毒でした」と礼儀正しく、又皮肉も交えて答えたのです。もしドイツ語で話せる位に英語ができれば、あの法廷で圧倒するような言葉が言い切れなかったのは残念だと語る。

当時の山形新聞には次のような記事が掲載されています。5月1日『世紀の謎! 何を語るか石原将軍、裁判の舞台酒田に、満州事変の全容ア暴かる』5月2日『看護婦に付き添われ、着流しで出廷、石原将軍訊問開始』5月3日『石原将軍元気に大役を果す』5月4日『審理大成功、外人記者らの印象』。
.. 2011年01月01日 00:00
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=view&p=13

上記は、未だに真相が謎になっている?「極東軍事法廷」における石原莞爾の発言とされる物です。
ちなみに上記の話を書いた人は、こういう事も別の日のレスになりますが書いています。
昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となりました。なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うと酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた側近である私の父が当時の状況をこう語っているのです。歴史の本質的な部分を洞察していて興味深いところです。
.. 2011年01月21日
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=view&p=13

上のレス達の中でちょっと気になるのはこのお話。再掲。
当時の山形新聞には次のような記事が掲載されています。5月1日『世紀の謎! 何を語るか石原将軍、裁判の舞台酒田に、満州事変の全容ア暴かる』5月2日『看護婦に付き添われ、着流しで出廷、石原将軍訊問開始』5月3日『石原将軍元気に大役を果す』5月4日『審理大成功、外人記者らの印象』。
これらの新聞記事の中に、上記の話は書いてあるのだろうか?気になるがわざわざ山形新聞のバックナンバー取りに行く気はないからなあヾ(--;)

追記
石原莞爾の極東裁判での発言史料はどうも国会図書館にあるようなんですが、今回私は
「島津以外にこれ以上手も広げたくないし金もかけたくない」(をい)
と言う主義を取っていますので、ご興味のある方はどうぞ。
こちら(p.16「Reportes Transcrept №217」)

追記2
石原莞爾の極東裁判での発言について、こういう検証を行っている人もいました。
こちら
証言者は他にもいるようですね(但しやはり莞爾の側近ですが)。

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