一新納式部大輔忠朝初源八郎紀伊守ハ本家三代忠臣之三男四郎三郎忠匡長禄三年七月三日三俣戦死其子七郎左衛門忠辰其子安芸守忠興其子四郎三郎久民「イ武」於薩州永吉戦死其子紀伊守久景之養子忠朝也実ハ新納式部大輔忠衝嫡子ナリ永禄九年生母ハ新納氏慶長十六年辛亥 竜伯公御逝去二月廿日御荼毘之節於福昌寺注1門前殉死四十六歳「蘭室宗馨居士」福昌寺御廟前地蔵石塔一番目也十九歳之時分御後世之御供御約束申上ル国分ヨリ御遺骸御供ニテ鹿児島ヘ罷越御本御内へ宿被仰付也「御途中ノ御棺ヲ賜ヒテ其葬礼ニ用ケルトソ」注記
○新納式部少輔久治源八郎忠朝子「天正十五年二月三日」生「母春山「熊谷」越中直定女」元和五年七月廿一日 惟新公御逝去八月廿三日於大乗院注2川原殉死三十三歳也「竹翁元林居士墓福昌寺ニアリ後寛永九年殉死者ノ為ニ石塔ヲ伊集院妙円寺注3ニ立ツ第二番地蔵塔即久治ノ塔ナリ」
惟新公ヘ殉死セシ時伊勢貞豊注4ヘ遺サレシ消息ノ末ニ
浅カラス契ナラスヤ君ニシモ後ノ世カケテ仕エヌル身ハ
澄トオル月ノ跡ヲシシタヒ行心ハ西ノ空トコソナレ
此二首子息亀三郎ヘ与候遺書ニ載
久治殉死ノ節 中納言様注5ヨリ伊勢貞豊御使ニテ殉死之儀後世之御供ニテ無比類被思召候得共於戦場抽忠節御奉公仕候ハヽ可為御祝着之由被召留候得共御約諾申上置候一筋難黙止不奉応御意殉死仕候
○新納宅右衛門久永ハ初久晴亀三郎四郎三郎久治子也「元和元年五月七日生母大炊掃部兵衛女」五歳「之時父殉死命ニ違フノ故ヲ以」知行被召揚寺入被仰付置候故家内難渋ニ罷成「其後」父子殉死之御奉公無比類被思召由ニテ 光久公ヨリ右宅右衛門江御切米拾五石拝領被仰付候先祖代〃戦死殉死ニテ右之通御切米永代拝領ナリ「或記寛永元年十月四日久永ニ田禄ヲ賜フ」幼少ニテ父ニ離レ諸事無案内ニ有之伊勢兵部殿貞昌注6ナリ江得差図御目見之願申上兵部殿世話ニテ御太刀進上 中納言様ヘ御目見御普請奉行ニテ江戸ヘ被召列身上逼迫之段被聞召白銀百枚拝領万治三年屋久島奉行ニテ渡海「四年四月」彼地ニテ「卒年四十七法号一覚了心居士」
○新納久右衛門久有亀三郎四郎三郎久永子「母柳本壱岐女寛永十年二月七日生」幼少ヨリ 中納言様御側ヘ被召仕 綱久公注7ヘ奉仕殉死御約束申上置候処天下一統殉死御太禁注8ニ付 綱久公御逝去後弟宅右衛門忠丘ヘ家督ヲ譲リ夫ヨリ御奉公不仕候テ病死此子孫新納宅右衛門ナリ
1:福昌寺 鹿児島市にあった島津家の菩提寺、現在は廃仏毀釈の煽りで廃寺となり、島津家の墓地だけ残っている
2:大乗院 鹿児島市にあった真言宗の祈祷所、島津家と縁が深い ここも廃仏毀釈の煽りで一時廃寺となっている
3:妙円寺 日置市伊集院にある島津義弘・宰相殿の菩提寺 ここも廃仏毀釈の煽りで一時廃寺になっている
4:伊勢貞豊:天正18年~寛永元年4月20日 伊勢貞昌の一人息子。男子なく早世したため、伊勢家の跡は島津家久(忠恒)の息子(貞昭)が嗣いでいる。ちなみにこの人の娘が島津光久の最初の正室。
5:中納言様:島津家久(忠恒)
6:伊勢兵部貞昌:伊勢貞昌、上記家久の小姓から島津家筆頭家老になり、次の藩主外戚にまで登った男。
7:綱久公:島津綱久 寛永9年4月1日~延宝元年2月19日 島津光久の息子、母は上記伊勢貞豊の一人娘。
8:天下一統殉死御太禁 寛文3年、武家諸法度の公布の際に口頭訓辞ではあるが徳川幕府から禁止命令が下った。
4代の内3代までが殉死(或いは殉死希望)というすさまじい家系です。 もしかしたら、この人たちの話 に出ていたかも知れない。
この人達(4代目の久有除く)の特徴は、「そんなに恩恵受けてない人のために殉死した」事。
後、もう一つ気になる点を挙げると島津家久(忠恒)には殉死しようとしなかったこと。もし殉死するとしたら年代的には3代目の久永かな。後に堪忍料をもらうも、当初は家久(忠恒)に領地を取り上げられ逼迫していたことから、心の底では恨んでいたのかも知れませんな。
しかし、こんなに殉死したがるとは…しかも一度は領地取り上げの目にも逢っていることから、褒賞目当てでの殉死でもないような。4代目・久有あたりは「うちの家系は周囲から殉死を期待されてるから」と考えての殉死希望だったかも知れない。…悲惨だ。