島津家久(忠恒)全盛期になって急に出てくる人なのでちょっと気にはなっていたのだが、放置していた。
しかし、先日仁礼頼章という人を紹介したときにこの人のことも思い出した。久保之盛は仁礼頼章とセットで登場することが多い人だったから。
「本藩人物誌」を見ると…載ってました、久保之盛。
仁礼頼章みたいなアハーンなネタはなかったけどヾ(--;)、なかなか興味深い人だった。長文だけど頑張って入力してみます。
以下興味深い箇所をピックアップ久保七兵衛尉之盛 初平八郎 行政子十四歳之時御家調伏イタシ候山伏強剛之者罷在上意打被仰付候人々進ミ兼候ヲ之盛ヨリ右山伏へ実意ヲ相達詰腹切ラセ候十六歳ニテ両親相離レ玉薬等運送之船ヨリ朝鮮ニ罷渡候テ 家久公御側へ混(ママ)ト相勤戦功有之御感状被下候其砌名高キ剛勇之押川六兵衛ニモ増候半トノ御意有之名ヲ七兵衛ト拝領被仰付其後惟新公ヨリ御軍扇一本金字日ノ本御鉄砲一挺十匁短刀一腰下坂作九寸五分拝領被仰付候泗川御合戦ニモ戦功アリ在陣七ヶ年之間戦功之衆ヘハ御感状被下候然所御帰国之上右之御感状ヲ以イツレモ訴出候テハ過分之高頭ニ及候儀故皆々申談之盛モ朝鮮之御感状御帰陣之砌焼捨為申由候右通故武功之色相顕候砌 家久公ヨリ御誅伐之節 竜伯公へ御伺之密書之御使私曰此御使帖佐彦右エ門宗光ヘモ被仰付候旨宗光伝ニ見ヘタリ乍若年之盛ニ被仰付権威有之幸侃故心引レ候士モ有之候トナリ太切之御使只一人ニ被仰付直ニ下国大竜寺御屋形御数奇屋ニ於ヒテ御伺申上御免許之御意承知仕候テ私宅ヘ罷帰ニ不及伏見へ罷登り御返命申上候ヘハ追付御誅戮被遊候関ヶ原御合戦之砌ハ 惟新公御供仕御旗本備ト太刀初被仰付御退去之砌ハ川上忠兄々弟三人忠兄忠智久林ナリ押川公近同前ニ井伊直政カ掛口ヲ押ヘ罷在御恙ナク御退去被遊候是ヲ島津小返シ五本鑓ト相唱候帰国之上右御褒美トシテ 家久公ヨリ御腰物波平房安拝領被仰付候○庄内稲津乱ニモ罷立候○頴娃主水切腹之検使被仰付相勤候○ 家久公初テ江戸御参勤之時大奥取締之儀御直ニ被仰付御直酌ニテ御盃頂戴被仰付其砌御直酌ニテ御盃被下候ハ之盛一人之由於御前御上様御酌ニテ被下候ハ東郷重位ナリ 右通段々御高恩罷蒙候ニ付殉死之御願申上置 家久公御逝去之砌御奉公之成就ト奉存尚又頻ニ御願申上候処御家モ漸々老功之衆相少罷成候間 光久公へ御譲可被遊トノ御遺言ニテ御免不被仰付候故 光久公へ御奉公申上候正保四年正月十二日卒ス「法号繁翁玄茂居士」
…あの押川六兵衛より勝ってる?!名高キ剛勇之押川六兵衛ニモ増候半トノ御意有之名ヲ七兵衛ト拝領被仰付
(剛勇で有名な押川六兵衛にも優っているとの意味で「七兵衛」という名前を拝領するよう仰せつけられた)
平田増宗をぶっ殺し、生涯殺した人数は100人は下らないという、アサシン押川に勝ってるって(○。○)
しかもこの時まだ16歳。
…どんなキルマシーンやねん、久保之盛。そりゃ
朝鮮出兵から帰ってくるとき、大量にもらった感状(後に領地申請の証拠となる)を過分に過ぎるとみんなで焼き捨てた、という美談が書いてあります。御帰国之上右之御感状ヲ以イツレモ訴出候テハ過分之高頭ニ及候儀故皆々申談之盛モ朝鮮之御感状御帰陣之砌焼捨為申由候
((朝鮮出兵から)帰国するとき既述の御感状を持ってみんな領地を暮れ!と訴え出ると、過分に大量になってしまうだろうとみんなで申し合わせ、之盛も朝鮮でもらった御感状を帰国の時に焼き捨ててしまったという事である)
ところが!別の史料では、島津義弘が大量の感状を見て、領地を配分するのに不足しそうなのでこっそり焼き捨てたという話もあるのですな。石田三成と義弘の絡みを見てるとこっちの話も十分ありそう。
そして関ヶ原の合戦で無傷?で突破完了。さすが押川を上回るというモンスターの本領発揮。しかもその押川も一緒にいるって言う(○。○)井伊がかわいそうすぎるヾ(--;)関ヶ原御合戦之砌ハ 惟新公御供仕御旗本備ト太刀初被仰付御退去之砌ハ川上忠兄々弟三人忠兄忠智久林ナリ押川公近同前ニ井伊直政カ掛口ヲ押ヘ罷在御恙ナク御退去被遊候是ヲ島津小返シ五本鑓ト相唱候
(関ヶ原の合戦の時には、島津義弘の御供をして旗本備えと太刀初めを仰せつかり、退去之時には川上忠兄・忠智・久林、押川公近と一緒に井伊直政の掛口を押さえ、つつがなく義弘を御退去させたのである。これを「島津小返し五本鑓」とみんなで一緒に唱えたとか。)
実は、今回一番目を引いたのがこの箇所。家久(忠恒)が初めて江戸に行ったのは慶長8年ぐらいになるのかな?(うろ覚え)。その時に鹿児島で留守番して大奥の風紀取り締まりを任されたみたいなんですが、実はこの仕事を任されたもう一人が、あの東郷重位というのですな。しかも久保之盛は家久(忠恒)の御酌なのに対し、東郷重位は「御上様」こと島津亀寿の御酌だったというのは興味深いです。家久公初テ江戸御参勤之時大奥取締之儀御直ニ被仰付御直酌ニテ御盃頂戴被仰付其砌御直酌ニテ御盃被下候ハ之盛一人之由於御前御上様御酌ニテ被下候ハ東郷重位ナリ
(家久公が初めて江戸に参勤されたとき、大奥取り締まりを直々に仰せつかり、家久本人の御酌でお酒を頂戴したのである この時家久本人の御酌をもらったのは之盛一人だけであったという。家久の目の前で御上様(=島津亀寿)の御酌でお酒を頂戴したのは東郷重位である)
しかし、この仕事を担当した久保之盛、東郷重位共々薩摩が誇るキルマシーンですなヾ(--;)こんな強烈なの置いとかないとすぐ乱れてしまうような大奥だったのかしらん。
かなり家久(忠恒)に贔屓されたことから、家久が死ぬときに殉死を希望していたのですが、結局却下されたようです。しかし、こんな強烈スナイパー残されても光久扱いに困っただろうなあ。…あ、上の訳、もうちょっと踏み込んだ意訳をしたらこうなるかな?右通段々御高恩罷蒙候ニ付殉死之御願申上置 家久公御逝去之砌御奉公之成就ト奉存尚又頻ニ御願申上候処御家モ漸々老功之衆相少罷成候間 光久公へ御譲可被遊トノ御遺言ニテ御免不被仰付候
(以上の通り、大変家久に恩義を蒙ったので、殉死したいという御願いをしており、家久公が死んだときには御奉公も成就してしまったと感じ、また度々(殉死の)御願いをしていたのだが、段々古い家臣が少なくなってしまったので、光久公に(之盛を)譲りたいという御遺言があったため殉死は許可されなかった)
「遺言 ”くぼゆきもり”という大量殺戮兵器があるんだけど、ぼくが具合が悪くなってから自爆ボタンがずっと点灯してるんだ でも安全な処分の仕方が分からないから後に置いとくね いゑ久」
光久「ちょい待てオヤジ」
…ところで、仁礼頼景は殉死願いを出してないようなのだが。当時の常識なら仁礼の方が殉死してもおかしくないんだけどな。徳川家光とアーンな関係にあった堀田正盛は、家光死んだ後さっくり切腹したんだけど。
そんな久保之盛の家族達。
祖父・久保行久→当初は島津忠良に仕える。その後、島津義弘の飯野移転の際に義弘に付けられる。
父・久保行政→兄・行経が朝鮮出兵で戦死したため、跡を嗣ぐ。早くから忠恒付きだったらしく、当時私領を持って無くて不自由していた忠恒に、自分の領地50町を献上したという。なお別の史料では、当初仁礼頼景の父と共に島津久保につけられていたという。
子・久保之昌→家久(忠恒)~光久に仕える。儒学を学び、篤厚の気質だったため人が寄ってきたという。
かなり早くから島津義弘一家と近い一族だったようです。
それにしても。
キルマシーンの息子が「篤厚の気質」…分からん物である。