拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天正8年11月10日に詠まれた物です。
ちなみに、忠良は義久を溺愛していました。
義久の祖父・島津忠良の13回忌に際して詠まれた物です。「御文庫三番箱一巻中」
梅岳常潤かくれ給し事、きのふけふかとたとり侍しに、はや拾三廻に押移り、名残すくなく成行は、さま\/諫め給ひし道〃の事共思ひ出て、袖をうるほすはかりにこそ、悲しさのあまりに、梅岳の二字をつらね、霊前に手向侍者也、「\手向奉る者也ト御譜ニハ改メアリ」
義久
梅の花うへし岳へをこと問は
十に三とせの跡そ程無き
「御譜ニ天正八年ト朱カキ」
拾一月十日
「十三廻ハ天正八年ニ当れり、此ニ載置也」
(「薩藩旧記雑録」後編1-1183)
ちなみに、忠良は義久を溺愛していました。
日新
善も悪あくも善なりなせはなす
こゝおよ心はちよおそれよ
一不動愛染之衆生、愛顧之形容を能〃可有見執之事、
一聊尓之子細糺詰られは、各護身之符つゐには良薬たるへき事、
一閣〃候者、当日は憐慰之様にもいへとも、翌日ハ身を亡す禍根之程たるへき事、
一為国家には見をおします、あやまちをあらため、腹立なきにいかり忿度をこらへ、聖人のこと葉を恐れ、被任心底候者、則天道神慮も仏法も他所ニ有へからさるもの也、
一内には鰥寡孤独之あはれを密行し、上としてハ只臨別儀なきものか、仮初にも人をそこなひ、やふらしの持戒を逼塞候而、外には五常を匡、辻〃には禁籠張着をも下被構候、是まことの可為慈悲候、
右五ヶ條、諫言に似たりといへとも、眞平老耄之至と可有宥免候、
永禄四年十月吉日
義久
参
「義久公御譜中ニあり、糾合す」
(「薩藩旧記雑録」後編1-190)
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