拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
拙ブログの路線からは大きく外れますが、来年の大河のネタ、そして私にもそれなりに縁のあるひとなんで。
さるところから、新島八重の特集を組んでいる小冊子を入手した。
専門的な歴史雑誌などではないが、八重にそれなりに縁のあるところが出したものであり、信頼性は高い。
この特集の内、興味深いのが生前の八重を知っている現存人物の回想録。
…とは言っても、八重は昭和6年(1931年)死去なんで、八重を知ってる人も当時は子供、そして平成も22年の今ではかなりの高年齢…
でも晩年の八重に関する記録は余り残ってないので貴重なお話である。
では早速ご拝聴。
さるところから、新島八重の特集を組んでいる小冊子を入手した。
専門的な歴史雑誌などではないが、八重にそれなりに縁のあるところが出したものであり、信頼性は高い。
この特集の内、興味深いのが生前の八重を知っている現存人物の回想録。
…とは言っても、八重は昭和6年(1931年)死去なんで、八重を知ってる人も当時は子供、そして平成も22年の今ではかなりの高年齢…
でも晩年の八重に関する記録は余り残ってないので貴重なお話である。
では早速ご拝聴。
トップバッターはAさん(仮名)です。インタビュー当時101歳(○。○) ※以下、特別の場合を除いて証言者の名前はすべて仮名です
それにしても襄は八重に気を使いすぎじゃ。出張から帰ってきたといっても真夜中でもあるまいし。
つぎはTさんとKさんです。1915年生まれ1934年に高等女学校卒という事は…今97歳?(あってるかな?)
あんまり笑ったこと無いというのも年齢のせいなのですかねえ。それとも愛想のない性格だったのか。
更に続く。清水佐和子さん(91歳)。この方は先日八重から形見分けでもらった雛人形を公開した人です。(なので実名)
では最後。Oさんです。この人は文章の内容から逆算すると89歳かな?このかたも、先程の清水さんの実家と共に八重さんと家族ぐるみで交流のあった数少ない人だったようです。
その他に今回の特集で気になるところを数点
・新島没後の早い内から、同志社の学生が八重を訪ねて襄の思い出話を聞こうとしたが、八重が話すのは何故か会津時代の自分の武勇伝だったらしい
…⊂(。Д。⊂⌒`つ おーい、八重よ、お客様はブレンドコーヒーを頼んでいるのにどうして牛丼特盛りを出す…
・大正14年に貞明皇后に拝謁したが、これはすごく八重にとって一生忘れられないうれしいことだったらしい。
「(貞明皇后が)老体を大切にせよと御やさしく仰せ下さいました。わたしはただただありがたさ貴さに目がくらむやうでした。実に身に余る光栄でした」
戦前とはいっても、何か喜び方が過剰なような気がする。この辺は同じ会津出身の山川健次郎とかと似たような空気を感じるなあ。
多分史実の新島八重は、良くも悪くも最後まで会津人(※福島県人ではない)と言うところから出られなかった人なんだろうなあ、と思います。まあそこをNHKマジックであの篤姫のように明るく軽く元気よく…にされてしまうのかしら。あああ_| ̄|○
新島襄が子供が無くて、弟さんも夭折していたので養子を取っていた(しかもこの養子と八重は折り合いが悪かったらしい)という話は聞いたことがあったが、名前は初めて知った。「新島先生と八重さんの性格は全く対照的で、八重さんは気丈でしたけど新島先生はともかく優しかったですねえ」
「新島先生は出張から帰宅するとき、いったん市内で宿を取って1泊してからほどよい時間を見計らってご帰宅されてたのですよ」
なおAさんの叔母さんは新島家の養子・公義氏の妻だったので、新島家とは交流があったとのこと。
それにしても襄は八重に気を使いすぎじゃ。出張から帰ってきたといっても真夜中でもあるまいし。
つぎはTさんとKさんです。1915年生まれ1934年に高等女学校卒という事は…今97歳?(あってるかな?)
学校で見かけたことがなかったというのは、襄の死後、学校経営陣とうまくいかなかったことと関係しているのか、それとも単に年齢の問題か。「通学路の途中で八重さんの家の前を通ったのよ(※ばんない注 寺町丸太町上る、現在新島会館として残っている)。たまに八重さんは掃除をされていたかな?深くお辞儀をするんだけど、八重さんは軽くうなずく程度でねえ。余り笑顔もなくて毅然とした人だったなあ」
「色白で、いつも被布を着てかくしゃくとした夫人だったけど、滅多に学校では見なかったなあ」
あんまり笑ったこと無いというのも年齢のせいなのですかねえ。それとも愛想のない性格だったのか。
さらに次、Hさん。記事の内容から逆算すると95歳かな?
この方の入学翌年に八重は死去。病気で動けなかったのか?でもなくなる前日まで茶会してたという話もあるしなあ。「学校で八重さんのお姿を見かけることはほとんどなかったですね」
更に続く。清水佐和子さん(91歳)。この方は先日八重から形見分けでもらった雛人形を公開した人です。(なので実名)
この方の実家(ちなみに同志社の附属女学校の校長先生を務めていた)は八重と家族ぐるみで交流していた数少ない人のようです。「八重さんには小さい頃から取ってもかわいがってもらいました」
「弟も子供や孫のようにかわいがってもらっていたんですよ」
では最後。Oさんです。この人は文章の内容から逆算すると89歳かな?このかたも、先程の清水さんの実家と共に八重さんと家族ぐるみで交流のあった数少ない人だったようです。
Oさんが7歳の時に八重さんはなくなったとのことなので、子供(当時)の記憶がどれほど当てになるのかというのはともかく、「凜としているが気むずかしい」というのは,今までの証言と一致するところです。「私は八重さんがおうちに来たときには「おばちゃま」と呼んでいましたの」
「でも八重さんは優しいけれど、凜として気むずかしくて」
その他に今回の特集で気になるところを数点
・新島没後の早い内から、同志社の学生が八重を訪ねて襄の思い出話を聞こうとしたが、八重が話すのは何故か会津時代の自分の武勇伝だったらしい
…⊂(。Д。⊂⌒`つ おーい、八重よ、お客様はブレンドコーヒーを頼んでいるのにどうして牛丼特盛りを出す…
・大正14年に貞明皇后に拝謁したが、これはすごく八重にとって一生忘れられないうれしいことだったらしい。
「(貞明皇后が)老体を大切にせよと御やさしく仰せ下さいました。わたしはただただありがたさ貴さに目がくらむやうでした。実に身に余る光栄でした」
戦前とはいっても、何か喜び方が過剰なような気がする。この辺は同じ会津出身の山川健次郎とかと似たような空気を感じるなあ。
多分史実の新島八重は、良くも悪くも最後まで会津人(※福島県人ではない)と言うところから出られなかった人なんだろうなあ、と思います。まあそこをNHKマジックであの篤姫のように明るく軽く元気よく…にされてしまうのかしら。あああ_| ̄|○
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