拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
京都の今熊野観音寺には島津義久の逆修墓と言われる物がある
拙HP こちら
桐野作人氏の紹介 こちら
この中心にあるのが島津義久(或いはその娘の亀寿)、向かって左隣にあるのが平田増宗 というのは判明している。
ところが、右側にある物は誰の物か判然としない。というのも「薩摩住」(胴部)「春栄(或いは「春宋」)」(台部)としか掘られておらず、データが圧倒的に少ないのである。
しかし、その少ないデータから無理矢理探そうではないか!「春栄(春宋)」は誰じゃ~ヾ(^^;)
まず、京都で築かれた墓という事から類推して、慶長3年時点で在京の人物という事になる。ちなみに義久、亀寿、増宗は当時在京していました。
次に、義久・亀寿にかなり近い人物であるという事。増宗は弟・宗親が義久専属の家老になるなど義久にかなり近い人物でした。
まずこういう物を探す基本文献といえば
「本藩人物誌」(鹿児島県史料集13)
順番にめくっていきます…
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この中心にあるのが島津義久(或いはその娘の亀寿)、向かって左隣にあるのが平田増宗 というのは判明している。
ところが、右側にある物は誰の物か判然としない。というのも「薩摩住」(胴部)「春栄(或いは「春宋」)」(台部)としか掘られておらず、データが圧倒的に少ないのである。
しかし、その少ないデータから無理矢理探そうではないか!「春栄(春宋)」は誰じゃ~ヾ(^^;)
まず、京都で築かれた墓という事から類推して、慶長3年時点で在京の人物という事になる。ちなみに義久、亀寿、増宗は当時在京していました。
次に、義久・亀寿にかなり近い人物であるという事。増宗は弟・宗親が義久専属の家老になるなど義久にかなり近い人物でした。
まずこういう物を探す基本文献といえば
「本藩人物誌」(鹿児島県史料集13)
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