拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
時代劇チャンネルで『八代将軍吉宗』を昨日から拝見中。
おもしろかったという評判だったのだが、チャンネル権がなかったため(ToT)完全に見逃してしまった。
本放送から10年目にして、やっと見ることがかないました。
『勇者ライディーン』の3○年ぶりに最終回よりマシかf(^_^;)
さて、表題の方の登場はまだ先のようだが
この方について触れている本を入手した。
第四章「島津家との縁組み」のあたりで詳述されている。
まず
…
うぎゃー、島津家専門家として知られる山本氏にあるまじきダウトを発見(・∀・)。どこが間違いなのか?拙HPの更新したてのここを参照して下さいませ(^^;)
2代藩主光久の結婚については、私は別の見解を持っているのだが…別館のネタに付きここではひ・み・つヾ(--;)
それと、初代藩主家久は、自分の姪達を徳川家一族の松平定行に嫁がせているので(参照 1 2)、全く徳川家一族との縁組みを避けたわけでもないし、自分の跡継ぎに徳川忠長を迎えようとしたこともあったし(勿論本心からではなかったのだが) 、3代藩主の父(光久の嫡子)・綱久以降はそれなりの大名家や高家から正室を迎えているのは事実である(但し、綱久以外には正室との間に子を儲けた当主はいないことなどから見て、島津家が余り正室を大事にしていなかったことも事実のようだが)。
また、山本氏は「基本的に(鹿児島)藩主の子女は藩内家臣との婚姻が優先で、他大名との婚姻は避けていた。余った子女のみが他大名と婚姻させられた」という意味のことを書いてられる。他大名の例を余り知らないので具体的な例を挙げての断言は出来ないが、小大名並の有力家臣や支藩や分家の多かった外様大名の場合、藩内結束を固めるために家中での婚姻が多いように思われ、島津家だけを特殊例とは言えないのではないだろうか。
…つっこみが長くなったが。
徳川綱吉と側室・大典侍(清閑寺煕房娘)の間に養女として迎えられた今回のネタヒロイン清閑寺煕定の娘・竹姫(当時4歳)は、養子縁組後すぐに島津継豊(といってもこの時成人してない、まだ8歳である)と婚約させられそうになるが、島津家の方から断りがあり、この婚約は流れる。山本氏はこの背景についての考察をしてないが、おそらく
・将軍家から嫁を迎えるとともかく金がかかる
これが一番の理由だろう。そこらへんのヾ(--;)譜代や外様の大名との姫様を迎えるのとは大変さが違うのである。
その後、
これについても山本氏は
が、私はそんな甘っちょろい理由ではないように考えている。
先述のように、竹姫は五代将軍・綱吉の養女である。綱吉はご存じの方も多いと思うが、六代将軍家宣の父・綱重と不仲で家宣とも確執があり、最後まで家宣を将軍家後継者とすることを躊躇していたのは有名である。
一方の天英院は、先日NHKの「その時歴史が動いた」でもとりあげられたように(かなり過大評価され気味であったが)、夫・家宣との中は良好であり、綱吉に対しては余りよい感情を持っていなかったであろう事は容易に推察できる…綱吉の縁者である竹姫を大奥から追い出そうとするのは当然ではないだろうか。
しかし、毛利吉元の娘(皆姫)は享保12年3月20日(旧暦)に子供を儲けぬまま病死する。その2年後、突如、薩摩藩家老は老中・松平乗邑に呼び出され「竹姫を継豊の後妻にするようにとの将軍・吉宗公の命である」と言われるのである。山本氏曰く、通常、老中が言い渡した「将軍の命」はまず断れない。
山本氏は突如吉宗がこう言うことを言いだした背景には「大奥の人件費削減」があるとしている。しかし、吉宗が松平乗邑経由で島津家に渡した約定の内容からして、この婚姻が尋常の「将軍家姫君降嫁」でないことが伺える。山本氏の本によると、その内容は
「継豊に側室の男子がいることは知っている。この男子を嫡子として、竹姫が万が一男子を産んでも跡継ぎにしなくてもいい。」
というものだったという。養女とはいえ、曲がりなりにも将軍家の姫君が産んだ男子が跡継ぎになれないということを将軍命で約束するとは前代未聞である。
しかも更に奇妙なのは、通常断れないはずの将軍の命を、その後もいろいろと画策して島津家が断ろうとしていることである。どうもそのなかには
「竹姫はブスなので結婚したくない!」
…という、子供じみた、というか超失礼極まりない(はっきり言って薩摩藩取りつぶされてもこれでは仕方ないだろうヾ(^^;)という言葉もあったらしい。
しかし、山本氏の話によるとここに先述の天英院が登場。竹姫降嫁を念押しする(というより強引に圧力かけたヾ(^^;)。この時に大奥老女(おそらく天英院付きの上臈の一人であろう)・秀小路との話を島津家老女の佐川が書いたという文を見ると、ますます竹姫降嫁には裏があると思わざるを得ないのである。
一方で「竹姫ブス説」については、怒るどころかむしろ素直に認めて、「それでも嫁にもらってくれ」という泣き落とし調である。また「吉宗は天英院に対して孝行者」というのは前後の文と全くつながらないし、竹姫の降嫁とは直接関係しない事項である。その話が唐突に出てくることは、「竹姫を島津家に降嫁させることが、すなわち吉宗にとって天英院の意向に添うことである」という考察を裏付ける物であろう。
…
その後、天英院は更に老女・秀小路を使わして念押し、島津家は降伏(オイ)する。
しかし、そこは関ヶ原でも減封0石転封無し!で生き延びたナイロンザイル生命力+スーパーサイヤ人の島津家ヾ(^^;)、以下のような無理難題を幕府に了承させていた。
1)竹姫の御殿用地として芝の薩摩藩邸北6870坪を与えられる。幕府は当初4700坪を提示していたが、薩摩藩の要求により大幅UPした。
2)享保20年(1735年)、玉川上水の水を屋敷内に引くことを許可される。
など。
それにしても、徳川幕府は何故ここまで失礼なことを大藩とはいえ一外様大名の島津家に言われながらも我慢し、大幅な譲歩をして、竹姫を島津家に嫁がせたのか?
ここに有名な巷説がある。竹姫は徳川吉宗の愛人だったという物である。
おもしろかったという評判だったのだが、チャンネル権がなかったため(ToT)完全に見逃してしまった。
本放送から10年目にして、やっと見ることがかないました。
『勇者ライディーン』の3○年ぶりに最終回よりマシかf(^_^;)
さて、表題の方の登場はまだ先のようだが
この方について触れている本を入手した。
第四章「島津家との縁組み」のあたりで詳述されている。
まず
(島津家は加賀藩前田家、仙台藩伊達家の次に来る大大名でありながら)縁組みは江戸初期以来島津家内部で行っていた。
藩祖家久は、叔父の島津家当主、義久の娘を正室とし、その没後は一門の島津忠清の娘を正室としている。
二代藩主光久も家臣伊勢貞昌の娘を正室として迎えるという外様大名としては異例の縁組を行った。正室の没後は、公家の平松中納言時庸の娘を継室に迎えた。
島津家の始祖忠久は、近衛家の家司とされており、中世以来近衛家の「門流」であった。(中略)平松家も近衛家の「門流」であり、門流同志で縁組みをしたことになる。ここには徳川家一門や他の外様大名との縁組を避けたいという気持ちが表れている(以下略)
…
うぎゃー、島津家専門家として知られる山本氏にあるまじきダウトを発見(・∀・)。どこが間違いなのか?拙HPの更新したてのここを参照して下さいませ(^^;)
2代藩主光久の結婚については、私は別の見解を持っているのだが…別館のネタに付きここではひ・み・つヾ(--;)
それと、初代藩主家久は、自分の姪達を徳川家一族の松平定行に嫁がせているので(参照 1 2)、全く徳川家一族との縁組みを避けたわけでもないし、自分の跡継ぎに徳川忠長を迎えようとしたこともあったし(勿論本心からではなかったのだが) 、3代藩主の父(光久の嫡子)・綱久以降はそれなりの大名家や高家から正室を迎えているのは事実である(但し、綱久以外には正室との間に子を儲けた当主はいないことなどから見て、島津家が余り正室を大事にしていなかったことも事実のようだが)。
また、山本氏は「基本的に(鹿児島)藩主の子女は藩内家臣との婚姻が優先で、他大名との婚姻は避けていた。余った子女のみが他大名と婚姻させられた」という意味のことを書いてられる。他大名の例を余り知らないので具体的な例を挙げての断言は出来ないが、小大名並の有力家臣や支藩や分家の多かった外様大名の場合、藩内結束を固めるために家中での婚姻が多いように思われ、島津家だけを特殊例とは言えないのではないだろうか。
…つっこみが長くなったが。
徳川綱吉と側室・大典侍(清閑寺煕房娘)の間に養女として迎えられた今回の
・将軍家から嫁を迎えるとともかく金がかかる
これが一番の理由だろう。そこらへんのヾ(--;)譜代や外様の大名との姫様を迎えるのとは大変さが違うのである。
その後、
とある。ここからも、島津家が将軍家姫君の嫁入りを迷惑に思っていたことが伺える。しかし、更に気になるのは天英院(六代将軍・徳川家宣正室)が竹姫を片づけたがっている(きつい言葉ですみません…)ことである。島津家では(御広敷役人の)堀正勝から「天英院様が継豊様と竹姫の婚姻が調わなかったことを残念に思っておられている」という話を聞き、まもなく長門国萩藩主毛利吉元の娘との縁組を成立させた。
これについても山本氏は
天英院は竹姫を子供の頃から知っていて、妹同然に思っていた
からとする。別の著者の本になるが『大奥の奥』では「天英院が行き遅れになっていた竹姫をかわいそうに思っていたから」としている。確かに、天英院付きの女中が島津家宛てに書いた手紙の中に「天英院は竹姫を妹同様に思し召し」という話は出てくるようだ(山本氏の本より)
が、私はそんな甘っちょろい理由ではないように考えている。
先述のように、竹姫は五代将軍・綱吉の養女である。綱吉はご存じの方も多いと思うが、六代将軍家宣の父・綱重と不仲で家宣とも確執があり、最後まで家宣を将軍家後継者とすることを躊躇していたのは有名である。
一方の天英院は、先日NHKの「その時歴史が動いた」でもとりあげられたように(かなり過大評価され気味であったが)、夫・家宣との中は良好であり、綱吉に対しては余りよい感情を持っていなかったであろう事は容易に推察できる…綱吉の縁者である竹姫を大奥から追い出そうとするのは当然ではないだろうか。
しかし、毛利吉元の娘(皆姫)は享保12年3月20日(旧暦)に子供を儲けぬまま病死する。その2年後、突如、薩摩藩家老は老中・松平乗邑に呼び出され「竹姫を継豊の後妻にするようにとの将軍・吉宗公の命である」と言われるのである。山本氏曰く、通常、老中が言い渡した「将軍の命」はまず断れない。
山本氏は突如吉宗がこう言うことを言いだした背景には「大奥の人件費削減」があるとしている。しかし、吉宗が松平乗邑経由で島津家に渡した約定の内容からして、この婚姻が尋常の「将軍家姫君降嫁」でないことが伺える。山本氏の本によると、その内容は
「継豊に側室の男子がいることは知っている。この男子を嫡子として、竹姫が万が一男子を産んでも跡継ぎにしなくてもいい。」
というものだったという。養女とはいえ、曲がりなりにも将軍家の姫君が産んだ男子が跡継ぎになれないということを将軍命で約束するとは前代未聞である。
しかも更に奇妙なのは、通常断れないはずの将軍の命を、その後もいろいろと画策して島津家が断ろうとしていることである。どうもそのなかには
「竹姫はブスなので結婚したくない!」
…という、子供じみた、というか超失礼極まりない(はっきり言って薩摩藩取りつぶされてもこれでは仕方ないだろうヾ(^^;)という言葉もあったらしい。
しかし、山本氏の話によるとここに先述の天英院が登場。竹姫降嫁を念押しする(というより強引に圧力かけたヾ(^^;)。この時に大奥老女(おそらく天英院付きの上臈の一人であろう)・秀小路との話を島津家老女の佐川が書いたという文を見ると、ますます竹姫降嫁には裏があると思わざるを得ないのである。
…一言でまとめると「難癖つけて断ろうなんて思うなよ!」という脅迫文そのものだがヾ(^^;)、「竹姫様は、御年若の頃から、ご相応の相手もなく、数年間御暮らしになっており、公方様(=吉宗)がことのほか御苦労様に思し召し、幸い大隅守様(=島津 継豊)が御奥様もいられないので、先だっても御内々のことがございましたが、一位様(=天英院)にお頼みなさったので、本日佐川を召し、この段を申せとの 上意でございました。公方様はことのほか御孝行で遊ばしますので、一位様を文昭院様(=家宣)同様に思し召されてます、もっとも、竹姫様のご器量は勝れていると言うほどの物ではございませんが、 ことのほかご利発にご幼少の頃から御覧なされてますので、一位様にも御孝行でございます。なにとぞお片付けなされたくと思し召されてます。先年も上総介様 (=島津吉貴、継豊の父)が縁談をお断りになられた事情も、一位様はご存じで遊ばされます、この度もまたまた断りになられるかと思い、今日佐川を召し、こ の段を詳しく申せ、との御事でございます。」
一方で「竹姫ブス説」については、怒るどころかむしろ素直に認めて、「それでも嫁にもらってくれ」という泣き落とし調である。また「吉宗は天英院に対して孝行者」というのは前後の文と全くつながらないし、竹姫の降嫁とは直接関係しない事項である。その話が唐突に出てくることは、「竹姫を島津家に降嫁させることが、すなわち吉宗にとって天英院の意向に添うことである」という考察を裏付ける物であろう。
…
その後、天英院は更に老女・秀小路を使わして念押し、島津家は降伏(オイ)する。
しかし、そこは関ヶ原でも減封0石転封無し!で生き延びたナイロンザイル生命力+スーパーサイヤ人の島津家ヾ(^^;)、以下のような無理難題を幕府に了承させていた。
1)竹姫の御殿用地として芝の薩摩藩邸北6870坪を与えられる。幕府は当初4700坪を提示していたが、薩摩藩の要求により大幅UPした。
2)享保20年(1735年)、玉川上水の水を屋敷内に引くことを許可される。
など。
それにしても、徳川幕府は何故ここまで失礼なことを大藩とはいえ一外様大名の島津家に言われながらも我慢し、大幅な譲歩をして、竹姫を島津家に嫁がせたのか?
ここに有名な巷説がある。竹姫は徳川吉宗の愛人だったという物である。
上記の経緯から見ると、
竹姫が行き遅れてかわいそうだったからとか
大奥の経費削減とか
竹姫が島津家に嫁いだ背景にあった物は、そんな簡単な理由でなかったことが伺える。
行き遅れたのが理由であれば
失礼極まりない島津家より、他の大名家を探せばいい。元々公家出身の竹姫だから、公家や宮家に嫁ぐという手もある(最も将軍家息女で公家や宮家に嫁いだ前例はないが、竹姫自身には有栖川宮家と婚約していた前歴があった)。
大奥の経費削減をするための口減らしでも、同様である。
また、竹姫降嫁は「吉宗から言い出した」と言うことになっているが、実際は天英院が動き、その熱心さが目に付く。山本氏は
何が何でも島津家、というか、島津家しか竹姫の降嫁先として言いくるめられそうな大名家がなかったという方が事実なのでは無かろうか?
先述のように、島津家は天英院の実家・近衛家とは深い関係にある。天英院から強く言われると、上下関係を重視するこの時代、島津家は断ることが出来ない。
また、この当時、吉宗には側室は何人かいた物の、正室は亡くなっており、そこで(この時代では行き遅れだが、やもめの吉宗とはじゅーぶん釣り合いのとれる年齢の)竹姫が吉宗と恋に落ちるのはとてもあり得る話である。事実、こういう話もあるのである。更に吉宗は正室がいないので彼女と結婚するのに問題がない。…ところが、この頃将軍正室不在の大奥を実質的に支配していたのは先々代将軍夫人の天英院であった。竹姫が吉宗正室となると、突如天英院の地位を脅かすライバルが登場することになる。しかもそれは夫と確執のあった人物の養女である。…天英院としては心安からぬ物があったであろう。
天英院は吉宗が竹姫と結婚したい旨を話すと
「竹姫は大叔母に当たるため倫理に反する」
といい、猛反対したという。確かに、吉宗は系図上6代将軍の養子と言うことになっている。が、事実は竹姫は他家からの養女であり血縁関係はないし、年齢も吉宗の方が上で、この天英院の反対は無理がある。
…しかし、吉宗が将軍になるに当たってはこの天英院の後押しがあり、この反対は押し切れなかった。その後、天英院の意向により竹姫は嫁に出されることになった。しかし、吉宗と竹姫の関係は大名家では公然の秘密となっているため、どこも縁談を受けてくれそうにない。その頃、天英院のにらみが利く島津家の当主が享保12年にタイミング良く(失礼)やもめになった。そこに天英院が目を付けたのではないか?
…と言う所が真相ではないかと私は考えている。
竹姫は降嫁後も破格の厚遇を受けていることが山本氏の著書で紹介されている。
1)通常三位以上の大名の妻となった将軍姫君しか名乗れない「御守殿様」という称号を名乗ることを許された。竹姫夫・島津継豊の位は従四位上どまりであった。
2)享保20年(1735年)2月23日、竹姫は猶子とした益之助(夫・継豊が側室との間に儲けた長男)と実子菊姫を連れて江戸城を訪問した。「そち達こちらに参れ」といった吉宗に対して、当時数え3歳だった菊姫は「そちこそこちらへ参れ」という思いっきりゴーマンな態度(最も幼児だから仕方ないのだが)をとったが、吉宗はちっとも怒らなかったばかりか、本当に菊姫の元にいって話しかけたりしたという。その様子はまるで自分の子供か孫に対する態度そのものであった。
将軍をしてもこの丁重な扱いぶりからも、竹姫の立場を伺い知ることが出来る。
竹姫の島津家降嫁は大もめにもめたすえまとまった物だったが、継豊と竹姫の間にはちゃんと夫婦関係があったようで、先述したように一女・菊姫が享保18年(1733年)に誕生している。この時、竹姫は29歳であった。
この時代の武家女性は30歳になると夫との同衾を辞退するのが慣例であった。菊姫以後、継豊との間に子供が産まれなかったのはこれが理由であろう。
延享3年(1748年)、夫・継豊は隠居し、以後鹿児島で生活する。竹姫は鹿児島には同行せず、宝暦10年(1760年)9/20(旧暦)夫は鹿児島で死に、二度と再会することはなかった。
『大名の暮らしと食』では、江戸の薩摩藩邸にて、江戸とはちょっと違う薩摩風の生活を満喫している竹姫の姿が紹介されている。日々の生活は楽しんでいたようだが、晩年の夫との別居など、心中はいかな物だったのであろうか。それともこの時代の武家の女性はこういうもの、と割り切っていたのだろうか。
竹姫が行き遅れてかわいそうだったからとか
大奥の経費削減とか
竹姫が島津家に嫁いだ背景にあった物は、そんな簡単な理由でなかったことが伺える。
行き遅れたのが理由であれば
失礼極まりない島津家より、他の大名家を探せばいい。元々公家出身の竹姫だから、公家や宮家に嫁ぐという手もある(最も将軍家息女で公家や宮家に嫁いだ前例はないが、竹姫自身には有栖川宮家と婚約していた前歴があった)。
大奥の経費削減をするための口減らしでも、同様である。
また、竹姫降嫁は「吉宗から言い出した」と言うことになっているが、実際は天英院が動き、その熱心さが目に付く。山本氏は
と、竹姫降嫁はあくまで吉宗の意思であるように考えておられるようだが…。将軍の地位は重い物である。将軍の意向に反することは、誰であっても許されない(中略)しかし、島津家内部の相談だけにゆだねていたのでは、色良い返事が来るかどうか心許ない。そこで、吉宗は、大奥の天英院に頼み、奥向きから島津家に強い要請を行ったのである。
何が何でも島津家、というか、島津家しか竹姫の降嫁先として言いくるめられそうな大名家がなかったという方が事実なのでは無かろうか?
先述のように、島津家は天英院の実家・近衛家とは深い関係にある。天英院から強く言われると、上下関係を重視するこの時代、島津家は断ることが出来ない。
また、この当時、吉宗には側室は何人かいた物の、正室は亡くなっており、そこで(この時代では行き遅れだが、やもめの吉宗とはじゅーぶん釣り合いのとれる年齢の)竹姫が吉宗と恋に落ちるのはとてもあり得る話である。事実、こういう話もあるのである。更に吉宗は正室がいないので彼女と結婚するのに問題がない。…ところが、この頃将軍正室不在の大奥を実質的に支配していたのは先々代将軍夫人の天英院であった。竹姫が吉宗正室となると、突如天英院の地位を脅かすライバルが登場することになる。しかもそれは夫と確執のあった人物の養女である。…天英院としては心安からぬ物があったであろう。
天英院は吉宗が竹姫と結婚したい旨を話すと
「竹姫は大叔母に当たるため倫理に反する」
といい、猛反対したという。確かに、吉宗は系図上6代将軍の養子と言うことになっている。が、事実は竹姫は他家からの養女であり血縁関係はないし、年齢も吉宗の方が上で、この天英院の反対は無理がある。
…しかし、吉宗が将軍になるに当たってはこの天英院の後押しがあり、この反対は押し切れなかった。その後、天英院の意向により竹姫は嫁に出されることになった。しかし、吉宗と竹姫の関係は大名家では公然の秘密となっているため、どこも縁談を受けてくれそうにない。その頃、天英院のにらみが利く島津家の当主が享保12年にタイミング良く(失礼)やもめになった。そこに天英院が目を付けたのではないか?
…と言う所が真相ではないかと私は考えている。
竹姫は降嫁後も破格の厚遇を受けていることが山本氏の著書で紹介されている。
1)通常三位以上の大名の妻となった将軍姫君しか名乗れない「御守殿様」という称号を名乗ることを許された。竹姫夫・島津継豊の位は従四位上どまりであった。
2)享保20年(1735年)2月23日、竹姫は猶子とした益之助(夫・継豊が側室との間に儲けた長男)と実子菊姫を連れて江戸城を訪問した。「そち達こちらに参れ」といった吉宗に対して、当時数え3歳だった菊姫は「そちこそこちらへ参れ」という思いっきりゴーマンな態度(最も幼児だから仕方ないのだが)をとったが、吉宗はちっとも怒らなかったばかりか、本当に菊姫の元にいって話しかけたりしたという。その様子はまるで自分の子供か孫に対する態度そのものであった。
将軍をしてもこの丁重な扱いぶりからも、竹姫の立場を伺い知ることが出来る。
竹姫の島津家降嫁は大もめにもめたすえまとまった物だったが、継豊と竹姫の間にはちゃんと夫婦関係があったようで、先述したように一女・菊姫が享保18年(1733年)に誕生している。この時、竹姫は29歳であった。
この時代の武家女性は30歳になると夫との同衾を辞退するのが慣例であった。菊姫以後、継豊との間に子供が産まれなかったのはこれが理由であろう。
延享3年(1748年)、夫・継豊は隠居し、以後鹿児島で生活する。竹姫は鹿児島には同行せず、宝暦10年(1760年)9/20(旧暦)夫は鹿児島で死に、二度と再会することはなかった。
『大名の暮らしと食』では、江戸の薩摩藩邸にて、江戸とはちょっと違う薩摩風の生活を満喫している竹姫の姿が紹介されている。日々の生活は楽しんでいたようだが、晩年の夫との別居など、心中はいかな物だったのであろうか。それともこの時代の武家の女性はこういうもの、と割り切っていたのだろうか。
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