実は
「通善周慶大姉」 こと樺山忠助の母とはこういう人「樺山兵部大輔忠助譜中」
天正十七年己丑之秋、 龍伯法印令赴京師給、忠助亦供奉之列、其後有京師之日、七十九歳老母数行之書、珍戴再三、而後開緘謹誦焉、其詞、初にハ、君にハ忠節をつくして怠事なく、朋友にハ信を専にして忘るゝ事なかれ、中比にハ、こゝろハ暗にあらねともいひ、終には、さらぬ別のありといへは、と書留給、其詞艶にしてみたりかハしくミえつるも、いとこゝろもとなくて、請身之暇、仲冬之際下著、則老母之悦無可比類者、十有余日無恙、而後罹病痾有平臥之牀者尚矣、以薬飼加療養而不験、請貴僧・高僧祈爾于上下神祇、而無其甲斐、雪月十有六日未之時、生念不乱向西方金剛合掌、而唱南無阿弥陀仏、宛如睡眠而赴黄泉矣、
「正文当家有之」
通善周慶大姉ハ、「以下左ニアリ」
(「薩藩旧記雑録」後編2-712)
通善周慶大姉ハ、その心かしこくして、源氏物語なとをもおほへ、筆をとり、まなひの窓をひらかむと心をよせしに、いつの比をひそや、蒲生と云所の弓やはけしきに、嫡子椛山の忠副、やたけこゝろのはかなきハ、またはたちのうちにて打死をとく、それよりあまになり、法花八軸を読誦し、朝夕をこたらす念仏さんまいにして有しか、天正十八年雪月十六日、やそちに及ひかくれられしよしを、予久しく在京せし、下向の道にて伝きゝしより、心まとひの折ふしなれは、歌のもとすゑもたゝしからす、身のあさけりとハかへりミ侍れとも、たゝこゝろさしをあらハすはかりになん、
龍伯
ゆくとしのそらにたゝよふあは雪の
春をもまたてなと消ぬらん
(「薩藩旧記雑録」後編2-713)
拙別館HPにて「島津御隅」として紹介している人物です。義久から見ると伯母に当たります。義久には伯母が4人いました(…ちなみにその一人は自分の妻だったりする)が、挽歌を送ったことを確認できるのは御隅だけです。おそらくこの当時の島津家中に於ける樺山家の地位が高いこと(御隅の夫・善久は、島津忠良に息子同様に扱われていた)なども考慮されているのかも知れません。「御系図抄」
日新公二女
女子
樺山安芸守善久室
生于薩州伊作城、母薩摩守成久女、
天正十八年庚寅十二月十六日卒、法名通善周慶大姉、
(「薩藩旧記雑録」後編2-711)
拙HPでは特に書かなかったのですが、夫はまだ存命なのに、息子が死んだために出家したという点が興味深いです。武家の女性は「夫が死ぬと出家する」というのが通説みたいになってるんで。
息子に先立たれたのは悲しいことでしたし、島津家が豊臣秀吉に敗北するという所も見てしまったわけですが、その後の朝鮮出兵での苦難などは見なくて、もう一人の息子には無事看取られたし、なにしろ80歳まで生きたので、比較的戦国時代の島津氏にしては幸運な女性だったのではないかと思います。
関連ネタ
挽歌を送られたその1 妙諦さん
挽歌を送られたその2 島津義弘の妻・宰相殿
義久は自分の嫁が死んだときとか、娘が死んだときには挽歌書かなかったんだろうか?
もしかして書く余裕すらないほど落胆したとか?それとも単に書いていたのに残らなかったとか。うーむ。
なかでも、歴代当主の肖像画が圧巻でした。とくに樺山玄佐と御隅さんが夫婦二人並んだ肖像画がもっとも印象的でした。
御隅さんがなぜ出家姿で描かれているのか疑問だったのですが、息子の忠副の死のためだったのですね。知りませんでした。
この肖像画はかなり出来がよく、保存状態もいいので、近いうちに紹介する予定です。