拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
そして、遂に巻頭で述べたあの日がやってまいります(←松平定知風)。
県犬養三千代は今までの功績が認められ、和銅元年(708年)、元明天皇より直々に杯を賜り、しかも「橘」の苗字すら与えられるのです。
これは前例のない、空前の栄誉といえました。
しかし、県犬養三千代…改め県犬養橘三千代は、こんな物では満足していなかったのです。
-ちなみにこの年、三千代の前の夫・美務王は従四位下という中級貴族の位で一生を終えています。
前回申し上げたとおり、文武天皇の皇子は藤原宮子出生の首皇子だけではありませんでした。他に、石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)の産んだ、広成皇子+広世皇子という2人の皇子がいたと推測されています(角田文衛氏説、広成皇子=広世皇子の同一人物という説もあり)。
しかし、藤原不比等は何とか自分の孫への皇位継承を確かな物にしようとしていたのは自明の理でした。そのためには、孫・首皇子のライバルとして広成・広世両皇子がじゃまになってきます。
和銅6年(714年)文武天皇の嬪(ひん・「夫人」より下の位の天皇妃を指す)石川刀子娘と紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)は、突如「文武天皇嬪」の称号を剥奪されるのです。これはぶっちゃけていうと「文武天皇の未亡人を名乗っちゃだめよ」という意味合いがありました。つまり刀子娘と竈門娘は宮中から追放されてしまったのです。
どうしてこんな処罰が突如、しかも二人同時に下されたのか疑問でありますが、こういう後宮の裏工作には県犬養橘三千代が携わっていたことには間違いないと考えられています。
ともかく、この事件で広成・広世両皇子も宮中を追われ、中級貴族として一生を終えたようです。『万葉集』等に出てくる「石川広成」がこの皇子の後の姿と言われているのです。
話を戻して、藤原不比等・県犬養橘三千代両人の期待のかかる首皇子は、和銅7年(715年)に15歳になり元服します。文武天皇も15歳で即位しておりますから、首皇子が即位すると誰もが思っていたでしょう。
ところが、首皇子は同年に「皇太子」に任ぜられただけで、実際に天皇になったのは首皇子の伯母で元明天皇の娘であった氷高内親王=元正天皇でした。
私は、
・元正即位の前後に「吉備内親王の息女(長屋王の子)を皇孫の例に入れる」という勅令があったこと
・知太政官事の穂積親王の死後、次の知太政官事が任命されなかったこと
などから、首皇子が元明天皇退位直後に天皇になることに対して、何らかの政治圧力がかかったように考えています。
ともかく、藤原不比等と県犬養橘三千代の落胆ぶりは目に余る物があったと思われます。
しかーし!こんな所でこの2人くじけなかった。ともかく、首皇子は皇太子にはなったのですから、死ににでもしない限りは次の天皇にはなれる予定であることには変わりないのです(極端?!)。
不比等と三千代は、首皇子に自分たちの娘・安宿媛を入内させます。霊亀元年(716年)のことです。
それと前後して、三千代はもう一つ身内の結婚をまとめたと思われます。
何と、一族の県犬養唐(もろこし)の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)をも首皇子に入内させたのです。
県犬養氏は第1回で述べたように中級の貴族ですので、本来なら将来の天皇候補に后なんてとんでもない!という家柄なのです。それが、広刀自は入内しているのですから、これはもう宮廷で力を持つ県犬養橘三千代の推薦に違いありません。
もし、我が娘・藤原安宿媛が子供を産まなくても、県犬養広刀自が子供を産めば、三千代の実家は安泰で万々歳…ということになります。
こんな母の酷い仕打ちをどう思ったのか?藤原安宿媛の心情を知る史料は残っておりません。
※これについて、この書き込みをした後に、瀧波貞子氏らによって「安宿媛は皇太子を産むための妃、広刀自は伊勢斎宮を産むための妃」という役割分担説が唱えられ、学会で一定の支持も得ているようですが、結果から見た論と私は考えており賛同していません。
そして、養老元年(717年)。県犬養橘三千代はついに従四位上から一気に2階昇進して従三位となり、正式に「貴族」の仲間入りを果たします。
ついでにこの年、藤原安宿媛は首皇子との間に子供を産みますが、それは皇子ではなく、皇女でした。後の阿倍内親王=孝謙・称徳天皇です。
首皇子の即位こそ遅れましたが、県犬養橘三千代の人生は順調そのものでありました。
しかし、養老4年(720年)。夫・藤原不比等が首皇子の即位を見ぬまま63歳(62歳とも言われる)で亡くなります。
更に三千代にショックを与えたのは、長く仕えてきた元明天皇(当時は退位していたので「元明太上天皇」と言った)が翌年養老5年(721年)に亡くなったことです(61歳)。彼女は元明天皇の菩提を弔うために出家します(食封などの給料も辞退したが、これは許されず、給料はその後も支給された)。
…が!彼女は政治の世界から引退したわけではありませんでした_(。_゜)/。
不比等の次男で自分の婿に当たる藤原房前を「内臣」に任命させることに成功した三千代は、夫・藤原不比等が出来なかった首皇子の即位に向けて動き出します。考えようによっては、尼さんになったのも、婿の藤原房前を「内臣」にするための取引材料だったかも知れないのです!
…つづく
県犬養三千代は今までの功績が認められ、和銅元年(708年)、元明天皇より直々に杯を賜り、しかも「橘」の苗字すら与えられるのです。
これは前例のない、空前の栄誉といえました。
しかし、県犬養三千代…改め県犬養橘三千代は、こんな物では満足していなかったのです。
-ちなみにこの年、三千代の前の夫・美務王は従四位下という中級貴族の位で一生を終えています。
前回申し上げたとおり、文武天皇の皇子は藤原宮子出生の首皇子だけではありませんでした。他に、石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)の産んだ、広成皇子+広世皇子という2人の皇子がいたと推測されています(角田文衛氏説、広成皇子=広世皇子の同一人物という説もあり)。
しかし、藤原不比等は何とか自分の孫への皇位継承を確かな物にしようとしていたのは自明の理でした。そのためには、孫・首皇子のライバルとして広成・広世両皇子がじゃまになってきます。
和銅6年(714年)文武天皇の嬪(ひん・「夫人」より下の位の天皇妃を指す)石川刀子娘と紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)は、突如「文武天皇嬪」の称号を剥奪されるのです。これはぶっちゃけていうと「文武天皇の未亡人を名乗っちゃだめよ」という意味合いがありました。つまり刀子娘と竈門娘は宮中から追放されてしまったのです。
どうしてこんな処罰が突如、しかも二人同時に下されたのか疑問でありますが、こういう後宮の裏工作には県犬養橘三千代が携わっていたことには間違いないと考えられています。
ともかく、この事件で広成・広世両皇子も宮中を追われ、中級貴族として一生を終えたようです。『万葉集』等に出てくる「石川広成」がこの皇子の後の姿と言われているのです。
話を戻して、藤原不比等・県犬養橘三千代両人の期待のかかる首皇子は、和銅7年(715年)に15歳になり元服します。文武天皇も15歳で即位しておりますから、首皇子が即位すると誰もが思っていたでしょう。
ところが、首皇子は同年に「皇太子」に任ぜられただけで、実際に天皇になったのは首皇子の伯母で元明天皇の娘であった氷高内親王=元正天皇でした。
私は、
・元正即位の前後に「吉備内親王の息女(長屋王の子)を皇孫の例に入れる」という勅令があったこと
・知太政官事の穂積親王の死後、次の知太政官事が任命されなかったこと
などから、首皇子が元明天皇退位直後に天皇になることに対して、何らかの政治圧力がかかったように考えています。
ともかく、藤原不比等と県犬養橘三千代の落胆ぶりは目に余る物があったと思われます。
しかーし!こんな所でこの2人くじけなかった。ともかく、首皇子は皇太子にはなったのですから、死ににでもしない限りは次の天皇にはなれる予定であることには変わりないのです(極端?!)。
不比等と三千代は、首皇子に自分たちの娘・安宿媛を入内させます。霊亀元年(716年)のことです。
それと前後して、三千代はもう一つ身内の結婚をまとめたと思われます。
何と、一族の県犬養唐(もろこし)の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)をも首皇子に入内させたのです。
県犬養氏は第1回で述べたように中級の貴族ですので、本来なら将来の天皇候補に后なんてとんでもない!という家柄なのです。それが、広刀自は入内しているのですから、これはもう宮廷で力を持つ県犬養橘三千代の推薦に違いありません。
もし、我が娘・藤原安宿媛が子供を産まなくても、県犬養広刀自が子供を産めば、三千代の実家は安泰で万々歳…ということになります。
こんな母の酷い仕打ちをどう思ったのか?藤原安宿媛の心情を知る史料は残っておりません。
※これについて、この書き込みをした後に、瀧波貞子氏らによって「安宿媛は皇太子を産むための妃、広刀自は伊勢斎宮を産むための妃」という役割分担説が唱えられ、学会で一定の支持も得ているようですが、結果から見た論と私は考えており賛同していません。
そして、養老元年(717年)。県犬養橘三千代はついに従四位上から一気に2階昇進して従三位となり、正式に「貴族」の仲間入りを果たします。
ついでにこの年、藤原安宿媛は首皇子との間に子供を産みますが、それは皇子ではなく、皇女でした。後の阿倍内親王=孝謙・称徳天皇です。
首皇子の即位こそ遅れましたが、県犬養橘三千代の人生は順調そのものでありました。
しかし、養老4年(720年)。夫・藤原不比等が首皇子の即位を見ぬまま63歳(62歳とも言われる)で亡くなります。
更に三千代にショックを与えたのは、長く仕えてきた元明天皇(当時は退位していたので「元明太上天皇」と言った)が翌年養老5年(721年)に亡くなったことです(61歳)。彼女は元明天皇の菩提を弔うために出家します(食封などの給料も辞退したが、これは許されず、給料はその後も支給された)。
…が!彼女は政治の世界から引退したわけではありませんでした_(。_゜)/。
不比等の次男で自分の婿に当たる藤原房前を「内臣」に任命させることに成功した三千代は、夫・藤原不比等が出来なかった首皇子の即位に向けて動き出します。考えようによっては、尼さんになったのも、婿の藤原房前を「内臣」にするための取引材料だったかも知れないのです!
…つづく
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