拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
一時期、某掲示板で
「島津は近親婚が多いからキモイ!」
という書き込みを必死になってしていた人がいた。試しに
「じゃ、日本古代の豪族や皇族についてはどう思うのよ?」
と書いてみたら
「古代日本も近親婚が多いんですか?」
…という回答が真剣に返ってきて⊂(。Д。⊂⌒`つ 「ああ、これが噂のゆとりか」…と妙な感心をしたのを覚えていますヾ(--;)
さて、考えてみれば確かに島津家は近親婚が多い傾向がある。
とりわけ義久の代以降は、というか義久自身が近親婚である。これとかこれ
しかし、言い訳しておくが、義久の他の兄弟はここまで酷くはないようだ…
義久のパパ・貴久は先妻が肝付兼興の娘、後妻が入来院重聡の娘だから、戦国大名の政略結婚っぽい。
他の戦国大名を見てみると、確かにこんな半径3mでヾ(--;)嫁を探してくる人の方が珍しいのだ
が、叔父・姪で結婚した例を2件見付けた。それが2つとも南の方に属する戦国大名なのである。
・伊東祐兵(妻は兄・伊東義益の娘)
・長宗我部盛親(妻は兄・長宗我部信親の娘)
2つには共通する事情がある。
兄が元々の正統な世継ぎだったが早世したため、弟がその娘と結婚して代わりに世継ぎになるという物である。但し長宗我部の場合は家臣団から猛烈な反対(人倫にもとるとか)があったらしいですが。
島津義久の例は上記2例とは異なるが(まず第一「叔母甥婚」だし)、拙ブログでもネタにしたこの辺の話が本当であれば、実は危うい家督継承を確実にしていくための結婚であったことは間違いないだろう。
最初の話に戻ると、日本でも古代は近親婚が盛んだったが、時代が下がって行くにつれてだんだん結婚できない範囲が広がってくる
~奈良時代:異母兄弟まで→平安時代:叔父姪、叔母甥まで→鎌倉時代~:いとこまで
家督継承に関わる場合のみという特殊事情はある物の、近親婚が残っていた南日本は、やっぱり古風な習慣が残りやすいのかも知れないなあ。
「島津は近親婚が多いからキモイ!」
という書き込みを必死になってしていた人がいた。試しに
「じゃ、日本古代の豪族や皇族についてはどう思うのよ?」
と書いてみたら
「古代日本も近親婚が多いんですか?」
…という回答が真剣に返ってきて⊂(。Д。⊂⌒`つ 「ああ、これが噂のゆとりか」…と妙な感心をしたのを覚えていますヾ(--;)
さて、考えてみれば確かに島津家は近親婚が多い傾向がある。
とりわけ義久の代以降は、というか義久自身が近親婚である。これとかこれ
しかし、言い訳しておくが、義久の他の兄弟はここまで酷くはないようだ…
義久のパパ・貴久は先妻が肝付兼興の娘、後妻が入来院重聡の娘だから、戦国大名の政略結婚っぽい。
他の戦国大名を見てみると、確かにこんな半径3mでヾ(--;)嫁を探してくる人の方が珍しいのだ
が、叔父・姪で結婚した例を2件見付けた。それが2つとも南の方に属する戦国大名なのである。
・伊東祐兵(妻は兄・伊東義益の娘)
・長宗我部盛親(妻は兄・長宗我部信親の娘)
2つには共通する事情がある。
兄が元々の正統な世継ぎだったが早世したため、弟がその娘と結婚して代わりに世継ぎになるという物である。但し長宗我部の場合は家臣団から猛烈な反対(人倫にもとるとか)があったらしいですが。
島津義久の例は上記2例とは異なるが(まず第一「叔母甥婚」だし)、拙ブログでもネタにしたこの辺の話が本当であれば、実は危うい家督継承を確実にしていくための結婚であったことは間違いないだろう。
最初の話に戻ると、日本でも古代は近親婚が盛んだったが、時代が下がって行くにつれてだんだん結婚できない範囲が広がってくる
~奈良時代:異母兄弟まで→平安時代:叔父姪、叔母甥まで→鎌倉時代~:いとこまで
家督継承に関わる場合のみという特殊事情はある物の、近親婚が残っていた南日本は、やっぱり古風な習慣が残りやすいのかも知れないなあ。
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特殊例
自分が知ってるのも、記事の二例です。
伊東に関しても、祐兵からのアクションではなく、無き義祐が生前に決めたようです。
ただ、義祐生前だと亡き嫡男の遺児が厳としており、家督だけなら遺児が一度継いでます。
祐兵が嫡男遺児を暗殺したという疑惑の所以ですね。
いずれにしても、家督に絡む特殊例だと感じます。
伊東に関しても、祐兵からのアクションではなく、無き義祐が生前に決めたようです。
ただ、義祐生前だと亡き嫡男の遺児が厳としており、家督だけなら遺児が一度継いでます。
祐兵が嫡男遺児を暗殺したという疑惑の所以ですね。
いずれにしても、家督に絡む特殊例だと感じます。
叔母甥カップル
そういえば、相良義陽も正室は叔母です。
といっても、義理の叔母ですけど。
父が上村氏からの養子で、生母の内城も家格がイマイチだったらしいんです。
当主としては血統が劣るのを正室で補完しようとしたみたい。
残念ながら、子供は娘ばかりで、側室が頼房を産みました。
当主としての格付けも、叔母甥婚にありそうですね。
といっても、義理の叔母ですけど。
父が上村氏からの養子で、生母の内城も家格がイマイチだったらしいんです。
当主としては血統が劣るのを正室で補完しようとしたみたい。
残念ながら、子供は娘ばかりで、側室が頼房を産みました。
当主としての格付けも、叔母甥婚にありそうですね。
相良義陽
時乃栞さん コメントありがとうございます。
相良義陽も奥さんは叔母さん(義理)でしたか。というか「南藤蔓綿録」のコピー持っていたはずなのに、全く思い出すこともなかった(汗)。しかしこの辺の相良氏の御家騒動もすさまじいですね。
にしても、義陽は「養子の子供」ということで血統的に立場が弱かったのを結婚で補完しようとしたというのは分かりやすいのですが、義久の場合は養子とかではないので血統的に不利という事はないので…やはりその出来が…いやなんでもありません(^^;)
相良義陽も奥さんは叔母さん(義理)でしたか。というか「南藤蔓綿録」のコピー持っていたはずなのに、全く思い出すこともなかった(汗)。しかしこの辺の相良氏の御家騒動もすさまじいですね。
にしても、義陽は「養子の子供」ということで血統的に立場が弱かったのを結婚で補完しようとしたというのは分かりやすいのですが、義久の場合は養子とかではないので血統的に不利という事はないので…やはりその出来が…いやなんでもありません(^^;)
無題
古い記事に失礼します。
近親婚なら伊達、蘆名、佐竹が戦国時代では顕著な例かとおもいます。
特筆すべきは、伊達晴宗の三女彦姫です。
最初の夫蘆名盛興は従兄弟。
次の夫蘆名盛隆は甥。
それぞれの間に生まれた娘を、従兄弟の蘆名義広と佐竹義宣に嫁がせています。
また、蘆名盛興も蘆名盛隆もそれぞれがいとこ同士の子です。
三世代にわたって四親等以内で婚姻を重ねています。
九州と東北に近親婚が多いのは古代の呪術的な風習が同心円状に残ったかのかもしれません。
近親婚なら伊達、蘆名、佐竹が戦国時代では顕著な例かとおもいます。
特筆すべきは、伊達晴宗の三女彦姫です。
最初の夫蘆名盛興は従兄弟。
次の夫蘆名盛隆は甥。
それぞれの間に生まれた娘を、従兄弟の蘆名義広と佐竹義宣に嫁がせています。
また、蘆名盛興も蘆名盛隆もそれぞれがいとこ同士の子です。
三世代にわたって四親等以内で婚姻を重ねています。
九州と東北に近親婚が多いのは古代の呪術的な風習が同心円状に残ったかのかもしれません。
でんでんむしの法則
“書き人知らず”様、コメントありがとうございます。また反応が大変遅くなってしまって失礼致しました。
東北の戦国大名に近親婚が増えてしまったのは、伊達晴宗が子だくさんであちこちの大名と政略結婚した結果みんな親戚になってしまった影響も大きいのではないかと思います。
しかし事例に挙げられた伊達彦姫と蘆名家の例はかなり“濃い”パターンですね。
>九州と東北に近親婚が多いのは古代の呪術的な風習が同心円状に残ったかのかも
民俗学の大家・柳田國男の著書に『蝸牛考』と言うのがありますが、方言は近畿地方を中心とする同心円状に広がっていって、遠隔の北の方と南の方に同じような表現が残っていたりする、というような内容だったかと思います。結婚でもそういう現象があるというのは興味深い指摘でした。
またコメントして下さることがあれば、次回からは適当にハンドルネームを名乗って下さると嬉しいです。
東北の戦国大名に近親婚が増えてしまったのは、伊達晴宗が子だくさんであちこちの大名と政略結婚した結果みんな親戚になってしまった影響も大きいのではないかと思います。
しかし事例に挙げられた伊達彦姫と蘆名家の例はかなり“濃い”パターンですね。
>九州と東北に近親婚が多いのは古代の呪術的な風習が同心円状に残ったかのかも
民俗学の大家・柳田國男の著書に『蝸牛考』と言うのがありますが、方言は近畿地方を中心とする同心円状に広がっていって、遠隔の北の方と南の方に同じような表現が残っていたりする、というような内容だったかと思います。結婚でもそういう現象があるというのは興味深い指摘でした。
またコメントして下さることがあれば、次回からは適当にハンドルネームを名乗って下さると嬉しいです。