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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
取りあえず、拙本家ですが、関ヶ原訪問記の骨の部分はやっと完了しました。
…まだ番外編残ってるけど(^^;)

さて、上石津町の「豊久の墓」といわれる物について一応「本物」説で考証したのですが

書いている内に、上石津町の皆様、及び豊久奉賛会の皆様、そして日本全国100万人はいるだろう豊久マニアヾ(^^;)の皆様にはお見せできない妄想が…

それは


「上石津町の豊久の墓なる物自体、三輪孫大夫の妄想が作り上げた代物なんじゃないか?」
という考え。
その理由は
  1. 島津義弘を案内したはずの小林正祐に関する情報が、肝心の薩摩側の当時の覚え書きに全く出てこない
  2. その小林家自体も、寛政元年に鹿児島藩から督促があって、初めて先祖が島津越えに関わったことを知り、三輪家に連絡を取ってきた
  3. 三輪孫大夫は小林家に覚え書きを送った後も、何度か小林家と直接連絡を取っている。この時のやりとりの内容は何故か孫大夫の「一件覚日記」には書かれず、不明。…もしかして口裏合わせではないのか?
  4. 豊久の菩提寺であるはずの瑠璃光寺の住職自体が、寛政5年に三輪孫大夫にこの件で書状をもらっている。ということは、それ以前は豊久のことを何も知らなかった、ということになるのではないか。境内に墓があり、大きな位牌もあるのに?
  5. 孫大夫の覚え書きに「夢のお告げにより私が寺を再建し供養をした」という話が頻出する
…ただ、上石津の一介の庄屋の末裔である三輪孫大夫が「私が豊久の墓を建てた人の子孫ですよ~」…と主張しても、豊久ファンが多数いる今ならともかく、江戸時代の、しかも旗本領の住民では全然メリットなさそうなので、この点を考えると、孫大夫の”かまし”ではない、と思うのですが…。

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