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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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…自分で調べてUPまでしておいて、気が付いたのが今頃というのもなんだが…
寛永元(1624)9月8日 鹿児島城に参上、家久七女・千亀(5歳)を島津家久の直命により孫・島津久章婚約者として養女にする
↓ その約1ヶ月後
寛永元甲子10月13日 孫・島津久敏江戸で客死(享年23歳) 跡目は家久(忠恒)の息子・島津忠紀(母は島津忠清女)が相続

寛永14(1637)4月9日 島津家久が島津久章の結婚祝いに島津久元・御下夫婦、島津忠紀夫婦※と共に久章邸を訪問
↓ やはりその約1ヶ月後
寛永14年5月11日 島津久信死去(享年53歳) 「毒買」とされ、暗殺された物と思われる

<以上参照拙HP 島津新城
 
これって偶然とは思えないのだが…
島津家久(忠恒)が垂水島津家or新城島津家に直接会って関わると、その1ヶ月後に必ずそこの当主や前当主が死んでるわけだ。

寛永元年の場合、家久(忠恒)は新城に直接会って孫・久章の嫁に自分の娘をはっきり言って押しつけた訳なのだが、この時、新城の化粧料を久章夫婦に譲ると言うことを約束させたのは重要だろう。つまり新城の領地を相続するということは、久章は垂水島津家の相続権を放棄して別家を建てることを約束させられたような物と考えられるからである。そして、その1ヶ月後に垂水島津家の当主だった久敏は江戸で早世、その跡には久章はじめ久信(信久)の実子がいたにも関わらず、家久(忠恒)の子供が養子として送り込まれ乗っ取られたのである。これが怪しくなくてなんであろうか。

寛永14年の場合、家久(忠恒)は前年に結婚した久章と千亀(家久(忠恒)の娘)の結婚祝いという名目で久章邸を訪問している。この時、家老の島津久元夫妻と垂水島津家当主の島津忠紀夫妻を同行しているのは意味深なように思われる。久元の妻は家久(忠恒)の実妹・御下で、島津忠紀は、本来なら垂水島津家を嗣いでもおかしくなかった久章らを押しのけて垂水島津家の当主に収まった家久から送り込まれた養子その本人なのである。こういうメンバーを連れてきた家久(忠恒)本人は「久章をこれから家族同様に扱ってやるぞ」といったぐらいの気持ちでの訪問だったのかも知れないが、久章から見たら非常に嫌がらせとしか思えない訪問であったことは容易に想像できよう。
そして、その1ヶ月後に今度は久章の実父であった久信(信久)が暗殺されたのである。
この暗殺についてはこの数年前から容態悪化著しかった家久(忠恒)が翌年2月に死んだことと考え合わせ、家久(忠恒)と不仲だった久信(信久)を後顧の憂いを除くために暗殺したという疑いは捨てきれないであろう。

参考 さつま人国志 垂水家・島津信久波乱の生涯

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無題
 元和九年の久敏廃嫡(亀寿の養子)での信久の家老お手討ち、翌年8月光久養子(伊地知季安説)等一連の動きの中で、寛永元年の出来事が起こったと思われます。
末川 2011/10/08(Sat)21:23:58 編集
一連の事件
こんばんは。早速のコメント、誠にありがとうございました。
別の記事にもコメント下さってます(http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Date/20110930/)が、内容から見ておそらく当記事に対する物かと思われますので、こちらでまとめて返答します。

今まで、この一連の時系列については、全く何も気が付かなかった(…お恥ずかしい)ので、現在の所なんかの関連があるだろうと言うこと以外には、本当に全く見当も付いてないという状態です。そういえば、島津信久(久信)は家老お手討ち事件も起こしてましたね。末川さんのご指摘も参考にして、今後なお検討していこうと考えています。

個人的には島津久敏は不憫だなと思いますし、こういう人に惹かれます(苦笑)
ばんない 2011/10/10(Mon)00:04:16 編集
無題
 末弟家久の孫でもある久敏への期待は、大きかったと思います。久敏の墓の隣には寛永元年6月に亡くなった町田久幸の墓があります。
末川 2011/10/11(Tue)07:23:04 編集
久敏の墓
こんばんは。コメント引き続きありがとうございます

>久敏の墓の隣には寛永元年6月に亡くなった町田久幸の墓があります。
東京(文京区)の吉祥寺のことでしょうか。
町田久幸も同年没ですが、流石に町田久幸までは関係ないと思いたいんですが…。
ばんない 2011/10/12(Wed)01:04:45 編集
吉祥寺
 学生時代に吉祥寺を訪れたことがあるのですが、久敏の墓参りは3年前が初めてです。探し出すのに苦労しました。その時隣に町田久幸の墓があることを知りました。後で寺の方に二人のご供養をお願いしました。
 御存知かと思いますが、久幸の父は亀寿付の家老をしていましたから、亀寿から江戸での久敏の世話を頼まれていたかも知れません。
末川 2011/10/13(Thu)09:07:10 編集
吉祥寺+質問
自分で言うのも何ですが、かなり古い記事を掘り起こします(^^;)

>吉祥寺
かなり大きなお寺のようですが、公式HPはどうやらないみたいですね。というか、吉祥寺と言えばどうしても地名の方が有名みたいで、お寺の吉祥寺を探すのは大変でした。
こちらの個人HPで写真付きで吉祥寺の島津家関連墓を詳細に紹介されてました。
http://1st.geocities.jp/tekedadesu/kitizyouzibanngai.html
これでは確かに末川さんが墓を探すのが大変だったのが分かります。

さて、末川さんがまだこちら御覧であれば、いくつか質問が出てきまして、お答え下さるとうれしいです。年末忙しい中申し訳ありません。
>元和九年の久敏廃嫡
これは末川さんの持説と言うことでしょうか
>8月光久養子(伊地知季安説)
現在私が確認した限りでは、島津光久が島津亀寿の養子になった事を示す史料は旧記雑録後編4-1780,1781の2つだけだと思うですが、この2通の日付を伊地知季安が工作したと言うことでしょうか?
ばんない 2011/12/05(Mon)22:41:51 編集
無題
 ご無沙汰しております。今裁判所(新城家初代夫婦が住まいを構えたところ)が被告(鹿児島県)の証拠資料に改竄(希望する垂水高校を削除)ありと判断したことで、県の不正を夫婦で問い糾しています。
 垂水高校の隣に400年前「相模守」は「林之城」を築城しております。先月垂水では築城の記念式典があり、夫婦で招待されました。
 3月拙宅では義久公400年忌の時に「新城」「相模守」も一緒に供養しました。
 養子の件ですが「家久公御養子御願一件」にあります。この時代、史料には藩当局に都合がよいように改竄があったのではないかと思います。裁判を通じて「相模守」が冤罪を晴らしてくれといっているような気もします。詳しいことはまた後で報告します。
末川 2011/12/14(Wed)21:03:34 編集
無題
 ご無沙汰しております。養子の件ですが『家久公御養子御願一件』の中にあります。家老お手討ちも最近は藩当局が積極的に係わっていて、「相模守」が悪者になっているような感じがします(あくまでも感じですが)。ですから久敏廃嫡をどう捉えていいか微妙なところです。
 この時代、結構史料の改竄があったと思います。現在私が提訴した裁判で県が提出した証拠資料に改竄(希望する垂水高校を削除)があったものですから、夫婦で県の不正を問い糾しています。裁判所は改竄ありと判断しています。「相模守」も県の不正を許すなといっているような感じがします。
 今年3月拙宅で行った「義久公400年忌」の時に「新城」、「相模守」も一緒に供養しました。
 垂水高校の隣に400年前「相模守」は林之城を築城しました。先月築城の記念式典が垂水市であり夫婦で招待されました。
末川 2011/12/14(Wed)21:48:13 編集
無題
 操作ミスで、同じようなものを二つ載せてしまい済みません。どちらにしても、負け組は悪者にされて、歴史は為政者に都合良く作り替えられている感じがします。
末川 2011/12/14(Wed)22:01:37 編集
無題
二重投稿ですが、気になさらないで下さい。ご希望があればどちらか削除させて頂きます。

>養子の件ですが『家久公御養子御願一件』の中にあります。
久しぶりに『家久公御養子御願一件』をよみかえしました。確かに伊地知季安は「『御恩徳記』を読み合わせると光久が亀寿の養子になったのは寛永元年ではないか」としていますね。
私が挙げた旧記雑録後編4-1780,1781 は、改めて確認したら何と年紀が入ってなかったです…。

>元和9年 久敏廃嫡事件
末川さんの説によると、亀寿は元和9年までは久敏を跡継ぎにする可能性を捨ててなかった、という風に理解しました、が…間違ってますか?

末尾ながら、裁判大変ですが頑張って下さい。
ばんない 2011/12/15(Thu)01:12:59 編集
無題
 私の「時代」妄想からですが、この時代の史料には結構改竄があるのではないかと思います。式典で講演された原口泉先生は「館」づくりの城の形からして「相模守」は暴君ではなかったのではないかと話されました。久敏も嫡男として父親と同じ気持ちで、さらさら本家を乗っ取ろうという気持ちはなかったと思います(家内の説、一応史学科を卒業しております)。
 式典で来賓として挨拶された森山先生(衆議院議員)は、義弘起請文(慶長七年八月)に触れられ「相模守」は朱印状を家康からもらったのではないかと言われました。
 先生の家は「新城」縁の僧侶の墓の墓守をされているそうです。この僧侶の子孫が江戸中期に末川家家譜を編纂しています。ひょっとしたら久敏廃嫡について先生が一番詳しいのではないかと思います。
末川 2011/12/15(Thu)19:51:21 編集
おみこし
こんばんは。コメントありがとうございました。

久信(信久)も久敏も、当人に乗っ取りの野望がなかったとしても、担がれる可能性が否定できないのが悲しいところですね。
まして対立している相手が、あの猜疑心の強い忠恒(家久)ではね…と考えさせられます。

久信(信久)がいわゆる徳川幕府直々の御朱印衆だったことは桐野作人氏のコラムでも触れられてました。末川さんは地元紙でもありますしご存じとは思いますが、リンクを書いておきます。
http://373news.com/_bunka/jikokushi/183.php
ばんない 2011/12/17(Sat)23:00:48 編集
無題
 担がれる可能性も否定できないです。「相模守」の妻は末弟家久の娘です。この関係から関ヶ原の戦いの後、豊久の家臣が垂水家に召し抱えられたそうです(垂水市史)。
 実際は久敏はじいさん(家久)に似て頭脳明晰だったのではないかと思います。それ故島津一族の期待も大きかったのではないかと考えたりもします。
 この家臣達が義弘・家久(忠恒)への不満から久敏を担ぐ可能性は十分あります。最近まで私もそう思っておりました。
 しかし文書の偽造・改竄(裁判所は改竄ありと判断)を目のあたりにしますと、昔はまだ酷かったのではないかと思い、最近は家内の説になびいてしまいます。
 一段落ついたら、上京して娘と一緒に吉祥寺にお参りに行こうと考えています。原口泉先生は脇の惣領家として「相模守」→「大和守」(久章)と繋がっているのではないかと記念講演で話されました。当然二人の間には久敏が入ると思います。二人は鹿児島ではサガンサア、ヤマトサアと呼ばれたりしますが、久敏にはそういう呼び方はありません。悲運な運命の久敏に関心を持って頂ければと思います。
 久敏の母方の祖母(家久の妻)の墓は知覧にあるそうです。この知覧にある高校(薩南工業)で今年3月退職しました。
末川 2011/12/18(Sun)22:22:14 編集
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