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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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『八重の桜』のOPだけど、ありゃ綾瀬はるかのプロモーションビデオだよな。
あと、思ったよりモニカ西郷丼馴染んでたような気がする。老眼進んだのかな。
以上ボヤキ終了(^^;)



本題。
平野肩衡を写真付きで紹介して下さっているHP こちら

タイトルだけ見て何か分かる人は島津フェチ、島津マニア、島津通ヾ(^^;)
これは豊臣秀吉から島津義弘が拝領し、関ヶ原の合戦後に義弘の妻(宰相殿)が大坂から持ち出して、義弘に激賞されたという物である。あらかた家宝を手放してしまっている島津家だが、これだけは現在も尚古集成館所蔵。ちなみにこの時に一緒に脱出した忠恒の妻(亀寿)は島津家の家系図を持っていた。

宰相殿が茶道具を持っていたというのを、当初私は
「秀吉からもらった宝物+小物で持ち出しやすいから持ってでたんだろうなあ」
と思っていた

のだが

最近考えが変わってきたのである。

拍手[2回]


義弘が早くから島津家の家督を相続していたが、すぐに兄・義久に撤回されてしまったらしい…というのは、桐野作人さんがブログで指摘している(と思ったがいま記事が見あたらないなあ…)。

ところが、天正15年に島津家が豊臣秀吉に降伏した辺りから様相が変わってくる。
義弘に対して度重なる官位上昇及び役職の配分が行われ、最終的には従四位下参議になっている。
更に「羽柴」姓「豊臣」氏まで下賜されている。
一方の義久は三位(従三位か正三位か不明)、「羽柴」姓下賜はあった物の、三位授与ははっきりした記録も今のところ管見で見つからないような状態で、更に文禄元年には薩摩から格下の大隅に強制的に移動させられ豊臣政権に隠居させられるなど、明らかに不遇の状態に置かれてしまうのである…この辺は有名な話か(^^;)
豊臣政権が自分に都合の良い行動を取る義弘を引き立てたのは明白であろう。

…で、本題の「平野肩衡」に話題を戻す。
平野肩衡は豊臣秀吉が義弘に与えた物だった…そう、「羽柴」姓や「豊臣」氏、従四位下参議の官職や薩摩の領地のように。つまり、平野肩衡は秀吉が義弘の家督相続を保証したその象徴のような物ではなかったのではないか。
だから、宰相殿は夫の地位を保証するこの肩衡を死守したのでは無かろうか。
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平野肩衝
こんにちは。

平野肩衝、寛永年間に火に掛かったのですね。知りませんでした。
秀吉から拝領という点が重要だと思っていたのですが、ほかにも意味が込められていたのでしょうか?
桐野 2013/01/15(Tue)08:55:15 編集
無題
現当主の修久さんは義弘に
「軍功」によって下賜、と
書いてますね。

某「島津家の謀略」という本では
楢柴肩衝(!)が秀吉から以久に下賜され、
後に佐土原を家康から賜ったお礼に献上、
で明暦三年の江戸城大火によって消失と
なってますが、これ文献や史料あるので
しょうか・・?

後楢柴は、秋月から一旦島津にも保管の意味で
来たとか云々。
平八 2013/01/15(Tue)14:08:35 編集
義久の三位
ばんないさん

平野肩衝、義弘の家督相続を保証したものではないかとのお説、面白いですね。

それで、義久の三位叙位ですが、時期はよくわかりませんが、遅くとも慶長3年(1598)7月2日、義久が徳川家康・前田利家宛ての起請文で、三位法印と署名していますね(島津家文書三、1459号)。秀吉の死の直前です。
一説によると、義久が初めて上京し、秀吉に拝謁したとき、三位を与えられたとのことですが、ちょっと早いです。旧戦国大名の官位は通常、位階は四位か五位、官職は侍従か近衛少将の公家成です。三位は公卿成(公家成より上位)です。他の戦国大名の官位と比べて上位すぎるので不自然ですね。
私は義弘が四位参議に叙任されたとき、兄が弟より官位が下では長幼の序が保てないので、三位にしたのかと思っていましたが、実際はそれより早く三位になっていますね。官位文書が現存していないようですから、契機がよくわかりません。

桐野 2013/01/15(Tue)16:37:35 編集
義久の三位
桐野様、コメントありがとうございます

島津義久の「三位法印」ですが、前にも書いたような気がして、改めて拙ブログがさ入れしてみたら、こんな事を書いていました。
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/413/
『徳川実記』は後世の編纂史料ですので、ちょっと信頼性は下がるのかも知れません。

平野肩衡、寛永7年に焼けたみたいですね、自分で引用しておいて指摘されて気が付きました(汗)。寛永7年時点の当主と言えば、島津家久(忠恒)でしたか、そういえば確か家宝の刀を勝手に持って行って、後で義弘にしかられていた手紙があったような(爆)。家久に持ち出された家宝は災難に遭う宿命でもあるみたいです。
ばんない 2013/01/15(Tue)22:42:51 編集
楢芝肩衡
平八様コメントありがとうございます。

平野肩衡軍功褒賞説ですか…考えられるのは朝鮮出兵の功績以外にあり得ないのですが。この辺りは余り史料を読み込んでないので、それを肯定する物があるかどうかもさっぱり分かりません(^^;)

楢芝肩衡の伝領については、今回引用させてもらったHPでは
足利義政→村田珠光→鳥居引拙→天王寺屋宗伯→神屋宗白→島井宗室→秋月種実→豊臣秀吉→徳川家康 明暦の大火で破損後補修されたが、その後消息不明…
とありました。
また、『島津義弘の賭け』で山本博文氏が佐土原拝領に伴って島津以久が茶器を何か献上したようなことを書いていた記憶があります。
ばんない 2013/01/16(Wed)00:51:40 編集
那良芝
お久しぶりです。昨年は失礼しました。

以久が家康に献上した楢芝肩衝の件ですが、
鹿児島県史料旧記雑録拾遺諸氏系譜三の「以久」の個所」(p.215)に「那良芝」として載っています。後で「島津肩衝」と名付けられたそうです。
末川 2013/01/18(Fri)19:27:38 編集
ならしば
末川様、コメントありがとうございます

楢芝肩衡の件につき、情報ありがとうございました。本来ならこちらでも併せて確認すべきなのですが、年末から本棚が崩壊してしまいまして、該当箇所のコピーが出てこない状態でして(汗)申し訳ございません。

ただ、ちゃんとした本で調べて無くてネット検索なのでなんなのですが、今回の情報以外には天下三名器の楢芝肩衡を島津以久が持っていたという裏付けが取れないのです。
他、いくつか疑問点を挙げると
(1)天下三名器を秀吉が以久にそう簡単に渡すか
(2)それ以前に、秀吉が以久に楢芝肩衡をあげるというきっかけが思い当たらない
それとも、以久の「那良芝」は天下三名器の同名の物とは別物だったんでしょうか?
ばんない 2013/01/19(Sat)00:21:04 編集
那良芝2
先の鹿児島県史料には、那良芝を家康に献上したことは書いてあるのですが、秀吉から拝領したことは書いてありません。

那良芝が必ずしも楢芝と言えないということも、ご指摘の通りです。秀吉が以久に那良芝を与えた資料がみつかればよいのですが。

ただ、義弘と以久に言えることは、文禄の役でどちらとも嫡男を亡くし、二人とも義久の婿でもあります。また義弘も息子だけではなく、婿も亡くしています。

朝鮮出兵への不満から、島津家では梅北の乱が起こって、これに関連して、義久は弟歳久を亡くし、娘の嫁ぎ先の薩州家は断絶しています。

文禄の役で、恩賞として所領(またはそれに匹敵する茶器)でも貰わない限り、島津家には第二の梅北の乱が起こっても、おかしくないような状況にあったのではないかと思います。

そこで秀吉は嫡男を亡くした義弘に平野肩衝を、同じく以久には那良芝肩衝を与えたのではないかと思います。

宰相殿は息子久保の遺品として平野肩衝を大切にしたのではないかと思います。

久保は忠恒と違い島津家ではだれもが認める義久の後継者です。墓も義弘の墓よりも義久の墓に近いところにあります。
末川 2013/01/19(Sat)09:49:48 編集
香典
末川様コメントありがとうございます。

ご意見をおおざっぱにまとめると「楢芝肩衡香典説」ということになりますでしょうか。
この説の場合、本家に当たる義弘がもらった平野肩衡の方が、分家に当たる以久がもらった(と推定される)那良芝(楢芝)肩衡より格下と思えるのが気になるところではあります。
ばんない 2013/01/21(Mon)18:47:14 編集
香典返し
以久の家は、昭和の世に本家を差し置いて、内親王を嫁に迎えています。現代でもサプライズが起こっています。それにしても以久に楢芝は不釣り合いですよね。

そこで「もしも、楢芝を貰ったのは、以久ではなく義久であったら」と考えたら、下のことが思い浮かびました。
①秀吉は島津本家を分断するために、義久に楢芝 肩衝を、義弘に平野肩衝を与えた。
②家康も秀吉に見倣った。
③義久・以久は孫信久を国持大名に取り立てと欲 しいと願い、楢芝を以久を通じて家康に献上し た。
④義久は兼帯している相州家の家督を孫信久に、 奥州家の家督を婿忠恒に与えた。
⑤これを受けて将軍家康は、慶長九年、孫に相模 守を、婿に陸奥守を与えた。
⑥義久は信久を佐土原に移住させれば、嫡男久敏(慶長七年六月生)は末弟家久の孫でもあるの  で、永吉家の不満も収まると考えた。
⑦義久は相州家は将軍家に仕えたことがないで、 ハクをつけるために越前家文書を孫に与えた。
⑦信久の相州家再興を認めたくないため、本家は 義久の楢芝や越前家文書の所持を証明する文書 を焼却した。
⑧相州家の痕跡を消すため、本家は新城家から来 国光や越前家文書を取り上げた。極めつきは越 前家出身の忠義による島津称号の剥奪。

新城島津家文書には八月六日日付の信久宛の中性院専誉の書状があり、「仍日向御移可有之由、誠大慶令存候」が記述されています。専挙は慶長九年五月に亡くなります。

垂水島津御家傳記に(慶長七年)十月廿四日日付の垂水家家老宛の山口直友の書状があり、この書状では代官以久の代理として信久がすでに佐土原に入っています。以久の佐土原拝領は慶長八年。

とすると、先の専誉の書状は慶長七年に書かれたと思います。この年の八月十日には義弘が義久に対しお詫びの起請文を差し出しています。七月あたりに信久は家康から朱印状を貰って佐土原に行く手筈になっていたかと思います。

信久が佐土原に行き、国持大名に取り立てられれば、以久が献上したのは、本物の楢芝と考えることもできます。しかし信久は行かなかった。やはり親元を離れたくないマザコンだったのでしょうか。それとも家久の方が相州家の佐土原移住を嫌ったのでしょうか。

不釣り合いな以久の楢芝、ばんない様が指摘して下さらなければ、拙宅や垂水家の文書を再度みることもなかったです。やはり那良芝は香典でなかったようで、撤回します。拙宅に伝わる木像二体は、親子であると言われています。ひょっとすると「忠良」「忠将」かも知れません。今後も私の勝手な考えをご指摘下されば有り難いです。

現在黎明館では「島津家由緒と薩摩藩記録所」の企画展があり、拙宅の文書が新城島津(末川)家
文書として数点展示してあります。他に永吉島津家文書もあり見応えがあります。企画された林学芸課長にご案内をお願いされれば、ばんない様は鹿児島では有名人になっていらっしゃいますで、特別に解説して頂けるかと思います。よかったら鹿児島へ。







末川 2013/01/23(Wed)00:12:02 編集
無題
末川様、重ね重ねのコメントありがとうございました。
また、島津信久(久信)の佐土原移転?に関する興味深い史料の紹介ありがとうございました。知らなかった話が多かったです。信久の周辺は謎が多くて、やはり気になる人物の一人です。

あ、それと私を皆様がえらく過大評価して下さっているようで、他の方からもメールなどで教えてはもらってはいたのですが、うーむ困った事態に(苦笑)
とりあえずは人は見た目が10割とも言うし、美容整形からかな(汗)
ばんない 2013/01/23(Wed)23:57:17 編集
無題
どういたしまして。色々なヒントを与えて下さり有り難うございます。

史料を使って様々なことをイメージすることは素人の特権と思い、勝手なことを申し上げました。
誠に済みません。

陸奥守の家久は、相州家の信久を許せなかったようで、「相模守信久」が文書に登場するのが、家久が薩摩守に任ぜられた元和三年あたりからのようです。新城家文書でも、それまでは信久は又史郎殿となっています。

しかし、中納言家久は死ぬ間際まで、陸奥守のトラウマから逃れられず、相州家の信久を許せなかった。そんな感じがします。歴史は敗者にとってあまりにも残酷です。

「家久は酷い」といいながらも、家内は家久娘の位牌を毎日拝んでいます。拝むのを見て、墓守で平民養子の私は、複雑な気持ちで毎日を過ごしています。

今後も拙宅関係者を貴ブログで紹介して戴ければ有り難いです。よろしくお願いします。



末川 2013/01/25(Fri)21:49:44 編集
名字
末川様、重ね重ねのコメントありがとうございました。

ところで、前々回のコメントで一つ気になる記述がありました。
>⑧相州家の痕跡を消すため、本家は新城家から来 国光や越前家文書を取り上げた。極めつきは越 前家出身の忠義による島津称号の剥奪。
この中に出てくる「越前家出身の忠義」とは、最後の薩摩藩主である公爵・島津忠義のことでしょうか。
で、以前から疑問に思っていたのですが、明治維新、廃藩置県という流れの中で島津一門とはいえ安泰ではおられず、没落したり、東京に一家を挙げて移住した人も多かったと聞いております。しかし、そのなかでも新城島津家は唯一「島津」名字をやめてしまった一族で、疑問に思っていました。これは本家当主であった忠義の命令による物だったのですか?差し支えなければ御教示下さるとうれしいです。
ばんない 2013/01/28(Mon)01:18:25 編集
無題
そうです。最後の藩主の忠義です。忠義公から家内の祖父はカステラを頂いたそうです。祖父は生前、家内に新城家は義久系統の家と言っていたそうです。「来年の大河は義弘」と有力筋から発表2ヶ月前に、情報が私のところに入ってきましたが、義久がまだ早いとやめさせたのでしょうか。

忠義は明治の初めに島津家分家の二男家は、島津の名字を庶子の名字にするように通達を出したそうです。

結果的にはそうなりましたが、末川への改称は忠義の新城家に対する嫌がらせではないようです。来国光は家譜に久章から光久に差し出したことが書いてありますので本当だと思います。

それで久元を初代とする豊州家二男家(庶子名字黒岡)の最後の領主久直は、黒岡を名乗っています。新城家の最後の領主久治の嫡男久良は、系図では「初島津為千代、中細瀧氏、後末川氏」となっています。この久良(母は城代家老久寶娘)は明治13年親戚の黒岡久直と船で一緒に上京しています。この系図は鹿児島県史料家わけ十一の末川家文書に収載されています。

江戸中期の家格制度の下で、垂水家分家は末川、新城家分家は細瀧を名乗るようになります。忠義は庶子の名字を新城家にも名乗るように指示したと思いますが、なぜ細瀧ではなく、最終的には末川になったのかよくわかりません。

再び島津を名乗らないかと本家から話があったそうですが、久治は断ったそうです。もともと末川は本家の庶子が名乗ったそうです。越前家再興の時の忠紀も最初は末川を名乗っています。

越前家へのこだわりが久治に末川を選択させたかも知れません。このため江戸中期に分かれの末川とよく間違われます。

最近は黎明館の方で、拙宅は新城島津(末川)家文書とし、本物の末川家文書と分けてあります。本物の末川家のご子孫の方は某有名企業の社長になられ、活躍ぶりはNHKで紹介されたのでご承知かと思います。

以上のことをご参考にして頂ければ有り難いです。よろしくお願いします。


末川 2013/01/28(Mon)19:38:19 編集
無題
末川様、御回答ありがとうございました。
当初、明治になってから島津忠義が嫌がらせに新城島津家に改姓を迫ったのかと取ったのですが、そうではなかったのですね。

しかし、明治初頭に忠義が島津一門(の分家)に一斉に改姓を命じた事実はあるのですね。これは知りませんでした。何でこの時期に改姓を命じたのでしょう?廃藩置県など政治体制の激動が背景にありそうですが。

ところで
>本物の末川家のご子孫の方は某有名企業の社長になられ、活躍ぶりはNHKで紹介されたのでご承知かと思います。
…恥ずかしながら、全く知りませんでした(滝汗)

(追記)
>「来年の大河は義弘」と有力筋から発表2ヶ月前に、情報が私のところに入ってきましたが、
がーん、日刊ゲンダイのガセネタだと思っていたのに
拙ブログ関連ネタ http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/596/
ばんない 2013/01/31(Thu)01:30:29 編集
すいません・・
こちらで楢芝の話が続いているのを
見逃してました。
切り出しておいて大変失礼しました。

また末川様、資料のご紹介等
有難うございました。

某本での、秀吉献上前に、秋月から
一旦は島津に渡ったと言われる
所以が気になりますね。
平八 2013/02/01(Fri)11:57:12 編集
無題
平八様

どういたしまして、ご参考にして頂ければ有り難いです。平八様のコメントを拝見するまでは以久が楢芝を献上したことを知りませんでした。

垂水史料集(六)の『垂水領主島津家家譜』『垂水島津御家傳記』には載っていませんでしたので、もしかしたら鹿児島県史料の『諸氏系譜』に載っているではと思い、調べてみたら載っていました。私こそいろいろ勉強させて頂き有り難うございました。
末川 2013/02/01(Fri)21:12:16 編集
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