…すんげ長いタイトルの展覧会だ(^^;)
取りあえずの感想
・「王朝文化の華」とありますが、その“王朝”たる平安時代に関係ある物は文献資料のみ…地味だヾ(^^;)
・前半が主に平安時代以前の日記などの史料、後半が近衛信尹、家凞の関係史料で構成されています。
・表装が無茶苦茶立派。実は表装用の生地や紙などもコレクションしていたようだ>近衛家 パンフには残念ながら表装が分かる写真が余り載ってない(T∀T)
・最後に突如近代絵画が出てくるのだが…去年の「細川家の至宝」展を彷彿とさせます ちなみに近衛家と細川家は親戚
・島津家関連の史料は「家凞の金琺瑯の茶碗」「広大院の持ち物だったらしい雛道具」ぐらいかなあ 前久と義久の往復書簡とか出てるかなという期待は見事に外れたのでした(T∀T) というか前久の史料自体がほとんど出てなかった…
・余りにも文献資料が多い(しかも達筆な人が多い)ので、思わず出た言葉「これ書道のお手本にしたい」ヾ(^^;)
パンフに興味深いことが書いてありましたが、感想は以下にて
不勉強な物で、今まで知らなかった…ちなみに陽明の名は近衞大路が大内裏の外郭十二門の一、陽明門より東に発する大路でこれを陽明大路ともいい、従って近衞殿あるいは近衛家をも陽明殿、陽明家と称したことによるものである。
(P6)
あれ?前久(16代)の日記は???さてはサボったか?ヾ(^^;)国宝八件、重要文化財六十件などの指定文化財を含むこれらをその内容から見るに、まず挙げねばならないのが歴代がその当職中に記した日記である。これを関白記と称するが(中略)『御堂関白記』をはじめてとして幕末の近衞忠凞(1808-98)に至る全三十二代の内、二十人の歴代が各時代に渡ってそれぞれの長短の差こそあれ関白記を遺している。今これを列挙するならば(中略)十四代尚通(1472-1544)の『後法成寺関白記』(重要文化財)は自筆本二十一冊。十七代信尹(1565-1614)の『三藐院記』は自筆本二巻十三冊。(後略)
(P7)
…冗談はさておき、考えられる理由を挙げると、前久は
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工(前略)同じ五摂家でも二条家はこの時の火事(※ばんない注 延宝元年(1673年)の火事のこと)記録などを焼滅させており、他家の場合でもまとまった資料は今日まで伝わっておらず、わずかに九条家には多少伝存していたのが最近それも各所に分散されてしまったと聞く。
(P10)
九条さんは平安神宮の宮司など勤められてたと思うが、かなりの高齢だったと思うので税金対策で売却されたのだろうか、と推測。
えー、そんな安直な理由で読み方変えたの??(゜_。)?(。_゜)? というわけで、事の真相をご存じの方情報お待ちしてます<(_ _)>近衛家は歴代関白記にくわえ、他家の記録も集め、先例という名の「知」を子孫に伝えており、まさに「日記の家」と呼ぶにふさわしい。「にっきのいえ」だとレジャーランドの楽しげなアトラクションみたいなので、「にきのいえ」と読む。
(P16)
亀寿が島津家歴代の家宝を死守したのは、まあこれが理由なんでしょうね。改めて言うことでもないかも知れませんが、そういう認識が南北朝の頃にはあったということで参考に書いときます。記録の保管は、迫りくる危機との闘いであった。(中略)しかし、より広い視野にたつと、家の分立は本当の意味での危機ととらえられ、一例として「後深心院関白記」にみえる洞院家の文庫をめぐる騒動を取り上げよう。(史料紹介略)この背景には洞院公賢(1291-1360)の死後、家督と定めた実守が南朝に身を投じ、北朝に出仕した実夏との間で争論となったことがある。(※ばんない注 洞院実守は公賢の弟、実夏の叔父)(中略 この後実夏が家督と認められ、実守は渋々文庫の印と鍵を渡したが、その後文庫の中にあった家記や文書が実守によって抜かれていたことが発覚する)当時、いとこ同士で南北朝に分かれて家督を争った道嗣(※ばんない注 「後深心院関白記」の著者)にとり、対岸の火事ではすまされない大問題であった。記録・文書は家督と表裏一体と見なす認識がよく表れているとともに、家の分立により散逸することを示す格好の事例と言える。
(P20)