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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介する史料は、ネットではおそらく初めて紹介される物かも知れません。
珍しいのも当たり前で、昭和30年代に発行された『大根占町誌』という地方自治体史に掲載された物で、おそらくこれ以外の本で所収しているものはないと思います。

この「取り志ら遍帳(取り調べ帳)」を作成した享和3年(1803年)は、島津重豪の命により、藩内のいろいろなことを調査した本を多数作成した時期に当たり、この取り調べ帳もその調査の一環だったと思われます。
この中に興味深い一節があります。
一.河上大明神
(中略)
御祭米等有之候儀 亀寿様より光久公御武運為御長御取立被造候由申伝候
(後略)
「河上大明神」とは、現在鹿児島県肝属郡錦江町(旧大根占町)にあるこの神社を指すと思われますが、現在古い建物などは全く残ってないようです。
ただし、かつて再建したときに使われた棟札が何枚か残っているようで、その写しが『大根占町誌』にのっていました。但し、文章を見ると棟札自体が当時の物ではない可能性もあり、注意が必要かと思います。

棟札1
奉再興河上大明神宮殿一宇元和第九暦癸亥八月二十六日入神護持佳心三州太守島津薩摩守源家久朝臣 大施主三州太守源義久卿御息女亀寿公罷成当代官飯牟礼権右衛門尉藤原光家(以下略)
 
棟札2
奉造立河上大明神鳥居一宇 寛永四暦丁卯九月四日護持佳心三州太守島津薩摩守源家久朝臣 大施主三州太守源義久卿御息女亀寿公当代官町田権右衛門
棟札3
奉造立河上大明神鳥居一宇寛永四年丁卯八月彼岸日
右造立者奉為護持信心大施主前三州太守源義久公息女亀寿公辛未御男子源忠元公御息災延命御子孫連緊明神擁護昼夜不変風雨復時五穀成熟国家安全万民扶楽必中御願皆令満足而之仍意趣如右当地頭町田権右衛門尉忠秀
棟札4
奉再興河上大明神御安殿一宇
慶安弐己丑八月吉日護持信心大檀那三州太守光久公地頭和田讃岐政貞
棟札1、棟札3を見ると、本来「藤原義久公」となってなければいけない部分が「源義久公」となっており、島津光久以降の頃に作られた物であることは明らかです。
※島津氏は島津家久(忠恒)以前は「藤原氏」を公称していた。

しかし、これらの棟札が何もないところから作られた偽作かというと、そういいきれない部分があります。

まず棟札1に出てくる「飯牟礼権右衛門尉藤原光家」ですが、江戸時代後期に書かれた戦国~江戸初期島津家臣人名事典「本藩人物誌」に出てくる「飯年礼紀伊介光家」と同一人物と思われます。「本藩人物誌」によればこの人物は
竜伯様へ御奉公国分江罷在候御他界前吉田六郎右衛門入道(清長)ヲ以被仰聞候ハ紀伊介伊地知勝左衛門儀ハ国分様江御遣セラレ候左候テ紀伊介末田主馬允皿良善助事ハ御行水之時参候間誰人ヲモヨセ付間敷由被仰付候間如御意其御涯之御奉公三人ニテ相勤候
(以下略)
とあり、亀寿付きの忠臣の一人であったことが伺えます。

次に棟札2,3に出てくる「町田権右衛門」「町田権右衛門尉忠秀」ですが、島津忠将の家老で廻山の戦いで戦死した町田忠成の息子と思われます。しかし、戦国時代末期~江戸時代初期の人物でありながら何故か彼は「本藩人物誌」に記載されていません。町田本家当主・久幸が寛永元年(1624年)に跡継ぎ無く死去した後に島津家久(忠恒)から末期養子を迎えようとした町田本家(おそらく首謀者は久幸の実母の高崎氏)と対立し、町田家の血縁から跡継ぎを出すよう主張したため、その後日陰の立場になったと思われます(参考『鹿児島県史料 家分け5「町田家正統系図」』概説)。ちなみに忠秀は島津義久付き、義久の没後は亀寿付きとなり、子孫はそのまま国分郷士となっています。先述の家督争いで忠秀が敗北したのも、バックとなっていた義久が既に没し、亀寿が家久(忠恒)の正室から追放されていたのが一因となっていることは想像に難くありません。
ともかく、町田忠秀も飯牟礼(飯年礼)光家と同じ亀寿付きの家臣であったのは確かです。

棟札1,2を見ると最初に出てくる名前が「源家久」こと島津家久(忠恒)なので家久の命により光久のことを願って寄進されたように見間違えてしまいそうですが、実際の建立に関わった人物の名前を見ても亀寿の命によって光久の今後を願い寄進されたことは確実でしょう。

しかも棟札4を見ると、亀寿の後をついで光久も寄進を行っています。今回は省略しましたが、その後も歴代の藩主により河上大明神に寄進が行われていることが棟札の記録から判明します。河上大明神は亀寿と光久、そしてその子孫の繁栄を祈願する神社となっていったのです。


実はここで解決できない疑問があります。
亀寿はなんで住居(国分城)の近くにある神社ではなく、この河上大明神に光久の将来を祈願したのか、という謎。
当初私はこの河上大明神のある場所が亀寿の私領の一つなのではないかと予想したのですが、管見ではそれを証明するような史料が見あたらないのです。「旧記雑録後編」3-660や5-516で現在のいちき串木野市とか霧島市、肝付町に私領があったのは判明してしたのですが錦江町に私領があったことを示す史料がない。うーむ…。

ところで、この神社の一番古い棟札はこれのようです。
天正十二丙戌十二月吉日本願主建部重堅同氏除炎延寿建部重虎並藤原氏女願主
「建部重堅」「建部重虎」というのは、この辺りの領主であった禰寝重堅(重長)、禰寝重虎(のち重張)と思われ、重虎と共に願主となった「藤原氏女」は、重張の妻であった島津家久の長女ではないかと考えられます。
もともとは河上大明神は禰寝氏にゆかりのある神社だったのですね。何故島津氏とは縁の薄いこの神社に亀寿は養子・光久の将来を祈願したのか?うーむ…。

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