拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「日新菩薩記」とはまた仰々しいタイトルですが、島津氏中興の祖と言われる”日新斎”こと島津忠良を追悼・顕彰する目的で、島津忠良の菩提寺の僧が書いた本のことです。原本は火災で焼失してしまったのですが、内容が内容なだけに多数の写しがあり、現在も読むことが出来ます。一番入手しやすいのは戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)に所収されている物でしょうか、といってもこの本も既に絶版なので、図書館で借りられるのがよいかと思います。
何回かさらっと通して読んだことはあったのですが、今回じっくり読んでみると、単なる「伝記」とも言えない内容です。
前半:島津忠良の思想や生き方について
後半:島津忠良の生涯
前半を読んでいると、なんだか悲しくなってきました。
何回かさらっと通して読んだことはあったのですが、今回じっくり読んでみると、単なる「伝記」とも言えない内容です。
前半:島津忠良の思想や生き方について
後半:島津忠良の生涯
前半を読んでいると、なんだか悲しくなってきました。
島津忠良の思想とかに問題があるとか言うのではないのです。
しかし、文に書かれた推奨している内容というのをそのままレールでたどったような人生を送ろうとした(送らされた?)人物こそ、忠良の孫・島津義久そのものじゃないか、というのが伺えるような内容だったからです。
例えば島津忠良は物事を決めるのには占いがよいということを推奨しているのですが、
又、義久の周辺をたどると、父・貴久よりも祖父・忠良の影響が非常に強いことも上掲書などで指摘されています。義久の元服時初名がまず「忠良」ですし、判明している妻2人とも忠良の縁者(忠良の娘、忠良の孫娘)ですし、何よりも忠良から義久に送られた書状(「日新菩薩記」「旧記雑録後編」所収)で、当の忠良本人が義久を溺愛していることを白状しています(爆)。
しかし、島津氏宗家の当主たるべく日々過剰すぎる愛情を注がれた義久にとっては、そのプレッシャーたるやあまりにも重すぎる物があったと思われます。「島津氏は鎌倉以来の名家」ということもさんざん聞かされてきたでしょうし、肝付氏等を初めとする周囲の強力な国人・戦国大名を相手にしていかなければいけないと言う重圧、なにより、義久の下に3人もかなり優秀な弟がいたというのもプレッシャーだったでしょう。
そのような重圧は、島津家の当主たらんとする義久をますます祖父・忠良の敷いたレールの上に走らせたと思われますが、次第に自分が何者か、自分は自分の考えで生きているのかという葛藤は強くなっていったと思われます。
義久が余り最近の流行に手を出してないことは、拙ブログのこの記事でも触れたことがありますが、今改めて考えてみると、単に「中央政権から遠ざかろうとしている」と言うだけではなく、祖父・忠良の規範から足も手も出せないがんじがらめの義久の精神状態がかいま見られるようです。
また、「旧記雑録後編」を見てみると、義久は大量の和歌・連歌を残してますが、おそらく唯一のスに戻れる趣味が作歌だったのではないかと思います…が、和歌も日新斎じーちゃんご推奨の教養の一つだわな(爆)。
今は心理学とか精神医学の研究が進んで、こういう人を一言で言い表すぴったりの表現がありまして、義久はズバリ アダルトチルドレン でしょうね。「アダルトチルドレン」についてはこちらのHPが非常に分かりやすくて詳しいです。
-まあ、そういう人間的に弱すぎる義久が好きなんですけどねヾ(^^;)
しかし、文に書かれた推奨している内容というのをそのままレールでたどったような人生を送ろうとした(送らされた?)人物こそ、忠良の孫・島津義久そのものじゃないか、というのが伺えるような内容だったからです。
例えば島津忠良は物事を決めるのには占いがよいということを推奨しているのですが、
天下に不思議な怪事面影の生ずる時は、三嶽の御宝前に御鬮を籠め、一天大小の神祇、一対一心の観法、彼の御鬮を拝見し、顕るる冥慮に任せて行れければ、善根は弥(いよいよ)繁茂し、さい(うかんむりに「火」)障は即ち消滅して、家国興隆たりしは、菩薩(=島津日新斎)正さに三嶽の御再誕 にて御座ましつる故に、指向ふ一句一言も、神体天口から出る尊命、其の事毎に相当たりしは、三十年已前と想るや。今の時に当りても、仰せ置かれし御言葉を 草木国土人天に当てて見ること、般々明鏡に影の移るが如し。
(「日新菩薩記」不孝禁制および常行の事)
(「日新菩薩記」不孝禁制および常行の事)
島津義久の占いへの依存度の異様な強さというのは、以前からいろんな人に指摘されています(薩摩島津氏 (1972年) (戦国史叢書〈10〉) 三木靖、呪術と占星の戦国史 (新潮選書) 小和田哲男など。ネットでは桐野作人ブログ膏肓記のこの記事1、2などが詳しい。著者敬称略)。
又、義久の周辺をたどると、父・貴久よりも祖父・忠良の影響が非常に強いことも上掲書などで指摘されています。義久の元服時初名がまず「忠良」ですし、判明している妻2人とも忠良の縁者(忠良の娘、忠良の孫娘)ですし、何よりも忠良から義久に送られた書状(「日新菩薩記」「旧記雑録後編」所収)で、当の忠良本人が義久を溺愛していることを白状しています(爆)。
しかし、島津氏宗家の当主たるべく日々過剰すぎる愛情を注がれた義久にとっては、そのプレッシャーたるやあまりにも重すぎる物があったと思われます。「島津氏は鎌倉以来の名家」ということもさんざん聞かされてきたでしょうし、肝付氏等を初めとする周囲の強力な国人・戦国大名を相手にしていかなければいけないと言う重圧、なにより、義久の下に3人もかなり優秀な弟がいたというのもプレッシャーだったでしょう。
そのような重圧は、島津家の当主たらんとする義久をますます祖父・忠良の敷いたレールの上に走らせたと思われますが、次第に自分が何者か、自分は自分の考えで生きているのかという葛藤は強くなっていったと思われます。
義久が余り最近の流行に手を出してないことは、拙ブログのこの記事でも触れたことがありますが、今改めて考えてみると、単に「中央政権から遠ざかろうとしている」と言うだけではなく、祖父・忠良の規範から足も手も出せないがんじがらめの義久の精神状態がかいま見られるようです。
また、「旧記雑録後編」を見てみると、義久は大量の和歌・連歌を残してますが、おそらく唯一のスに戻れる趣味が作歌だったのではないかと思います…が、和歌も日新斎じーちゃんご推奨の教養の一つだわな(爆)。
今は心理学とか精神医学の研究が進んで、こういう人を一言で言い表すぴったりの表現がありまして、義久はズバリ アダルトチルドレン でしょうね。「アダルトチルドレン」についてはこちらのHPが非常に分かりやすくて詳しいです。
-まあ、そういう人間的に弱すぎる義久が好きなんですけどねヾ(^^;)
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