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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず

wikipedia「島津義久」より抜粋

晩年(中略)
慶長15年頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」いたという。

補足によると、上記の記述の元になった「山田四郎左衛門聞書」なるものについて、山本博文氏は慶長15年に書かれたものと推定されているという。

しかし、「薩藩旧記雑録後編」3に所収された原文(3-1697)を見ると数点疑問がある。
・義久の在所が「とミのくま」(富隈)となっている。島津義久は慶長15年時点では国分城に住んでいた。
富隈と国分は隣通しとはいえ、明らかに違う地名を間違えるだろうか。
・島津義弘は「帖佐の方より(船を出してきた)」とある。慶長15年時点では加治木在住である。帖佐と加治木は隣同士であるが、上記同様の理由で年代的に見て変である。
・義久を「龍伯様」、義弘を「維新様」、忠恒(家久)を「中納言様」と書いている。先の2人は問題がないが、忠恒の中納言任官年は寛永3年(1626年)である。つまり、この史料の成立年は少なくとも寛永3年以降には下がることになる。

おそらく、「聞書」というタイトルからも分かるように、寛永3年以降にこの文書はおそらく島津忠恒(家久)に仕えていた碇山某に山田四郎左衛門が聞いた話を書き留めた物と思われる。山本氏はおそらく最後の

それからほとなく押川強兵衛、中村氏に命じて、鉄砲にて平田太郎左衛門(=平田増宗)を討殺(後略)

という一文から、この聞書の内容は平田増宗の殺された慶長15年の話と断定されたのであろうが、この文書には上記に述べたような問題があり、この文書に書いてある話をすべて慶長15年の出来事とするには疑問がある。地名の混乱などを見るに、何年かに渡る出来事をまとめて語った物ではないだろうか。

ちなみに、この文書を所収している「薩藩旧記雑録」3では、この文書を慶長7年(1602年)の伊集院忠真一家の暗殺事件関連資料の直後に組み込んであるが、この文書の出来事が慶長7年という比定はもっとおかしいことはいうまでもない。実は、伊集院忠真暗殺事件の時に平田増宗の嫡男(この人も「平田太郎左衛門」)も巻き添えになって撃ち殺されるという事態になっている。このため「薩藩旧記雑録」編者の伊地知季安は「山田四郎左衛門聞書」にでてくる平田を勘違いして、ここに編集してしまったのではないだろうか。


<参考 「山田四郎左衛門聞書」ばんない口語訳>

龍伯様(=島津義久) 惟新様(=島津義弘) 中納言様(=島津忠恒(家久))の間がお悪くなられ、お仕えする侍も3人それぞれにつくようになり、世間に悪い噂も広がるようになり、「どうした物か」と思っていた頃、ある日、 中納言様が(鹿児島城の)前の浜からお船に乗られてどこに行くともいわずに船をこぎ出され、加治木(※現在の鹿児島県姶良郡加治木町。慶長12年(1607年)に島津義弘が移った)のほうへ向かわれた。お供の人々は「これは何事か」と思っていたとき、帖佐(※現在の鹿児島県姶良郡姶良町)の方から(義弘の)お船らしい物が一艘こちらに向かってやってきた。お供の衆は「すわ一大事ただいま!」と、拳を握りしめていたところ、その船には 惟新様がお乗りになられていて、 中納言様の船と連れたって(どこかに)向かっていた。(それぞれの)お供の衆が互いににらみ合ったまま、程なく浜の市(※現在の鹿児島県霧島市隼人町、島津義久が開いた港があった)にお船が着いた。(その後)国府新川(※現在の鹿児島県霧島市隼人町か)に向かわれたところ、新川には 龍伯公が関所を設置されて、往来(の人々)を調べるように仰せつけられていた。 惟新公 中納言様は(関所の役人に)「ここを通してくれ」と仰せられたが、 「龍伯様よりの仰せ付けがあり、お通しすることはできません。」といい、関を開いてくれなかった。このとき双方が必死の形相でにらみ合い、刀の柄に手をかけていたところ、 惟新公 中納言様が「いやいや、おまえたちは事を大仰にしてはならぬ、 龍伯公には私たちが委細を申し上げておくから、この通り関所を開いてくれ。」とのご命令により、関が開かれお通りになられた。そうして、とみのくま(※現在の鹿児島県霧島市隼人町真孝)にお二人連れたってご到着になり、お供の者たちは「これから何事か起こるのか」と心配し、みんな顔面蒼白になっていた。まして何かしゃべろうという者は一人もいなかった(※原文では「もの申ひと、ましてや○」と1字欠字になっている。前後から推測)。しばらくすると御書院の方から「高砂や~尾上の松も歳ふりて~」とお三様方の声で謡が聞こえてきたので、ようやくお供の衆の顔にも血が戻り、「ああよかった」とお互いを見合ったのだった。 惟新公 中納言様 はその後お二人連れ添ってご帰宅された。それからほどなく押川強兵衛、中村氏に命令して、鉄砲にて平田太郎左衛門(=平田増宗)を討った。(3人の中を)悪くしたのは平田の策略だったからだ、と碇山氏が話してくれた。

※原文は仮名漢字交じり文+一部漢文


ちなみに平田増宗暗殺を命じられた中村氏は、あの”人斬り半次郎”こと桐野利秋のご先祖らしい。島津家久(忠恒)の権力確立の貢献者であるにもかかわらず、この後幕末まで日陰の立場に置かれたらしい・・・
詳しくはこちら(「さつま人国志」連載分はリンク終了済、桐野作人氏ブログ「膏肓記」該当分はこちらで。

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