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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の話はこちらです
ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。

※なお、20年以上前のデータのため、一部崩れたりする個所がありますが、訂正するのも面倒なのでこのまま再掲します。御了承下さい。

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藤原宇合と石上国盛の長子・広嗣が事もあろうに「反乱」を起こしたのは天平
12年、太宰府に左遷されて1年目のことでした。
国盛の衝撃はいかばかりであったでしょう。後の『続日本紀』の記述で分かる
ことですが、この時に宇合と国盛の次男・宿奈麻呂はじめ、宇合と他の妻との
間に生まれた式家の子供など関係者全員が即日流罪となっています。その他こ
れに連座した人の合計は総勢282名(○o○)!恐らく国盛も広嗣の実母ゆえ
連座した可能性は高いと思われます。

その後、天平13年には流罪は解かれたようですが、光明皇后初め聖武天皇の
期待をも裏切った広嗣の遺族・式家に対する疑念はなかなか解けなかったよう
です。広嗣の弟・宿奈麻呂でも東国の地方官にありつけるのがやっと、他の弟
たちはもっとひどい状態だったようで、5男の田麻呂にいたっては飛鳥の山奥
にこもって宮廷に出仕しなかった(出仕できなかった?というのが実態に近い
?)と言います。

この状態を見て国盛はある決意をしたと私は考えています。
「私も牟漏女王様のように宮廷に出仕し、息子達を助けねば!」
牟漏女王は97年に取り上げましたが、北家房前の正
妻であり、この当時従三位の高位に上がり、恐らく尚侍(ないしのかみ)か尚
蔵(ないしのくら)辺りの重職に就いていたと推定されます。光明皇后の異父
姉であり義理の姉でもある彼女の権力は絶大で、北家三男(牟漏女王の息子)
の八束は聖武天皇の勅旨を直接取り扱う特殊な権力を握るほどまでに至ってい
たのです。
これを見た国盛がこう考えるのもむべ成るかな。

しかし、宮仕えを始めた国盛の努力はなかなか報われませんでした。
息子達の地位は相変わらず低迷し、牟漏女王はしかたないとしても、義妹の
原吉日(橘諸兄の妻)
の下座にまで置かれる屈辱を味わうのです。左大臣・石
上麻呂の娘がこの待遇。しかし彼女は長い間無位のまま我慢して宮仕えを続け
たようです。
要は、それほどまでに広嗣の乱で受けた聖武・光明の不信が大きかったと言う
ことでしょう。

しかし、彼女の努力がついに報われる日が来ました。
天平勝宝元年(749年)、大仏開眼の日に彼女はついに無位から従5位下に
昇格したのです。
が、残念ながら『続日本紀』に彼女の名前が出てきたのはこの一カ所だけです。
(ちなみに文の記載は「石上朝臣国守」とある)
                       ^
この後まだまだ宮仕えをしていれば、彼女ももう少し報われたでしょう。事実
彼女と共に無位から従5位に上がった藤原百能(ももよし・京家藤原麻呂の娘
で南家豊成の妻)はその後も休むことなく宮仕えを続けて、最後は従三位の高
位でなくなっています。
しかし、国盛の名前はここにしか出てこない。ここから推測するに、おそらく
ここで精根尽き果てたのでしょうか、この後病死した物と私は考えています。
推定年齢50代後半か(;.;)。
ちなみに国盛の兄弟である乙麻呂は天平13年に許され(広嗣の兄弟が許され
た年と同年、これも乙麻呂の不倫の罪がぬれぎぬ臭い理由の1つですが)、国
盛が昇進した翌年の天平勝宝2年に正3位中納言兼中務卿で没しています。


石上(物部)麻呂は意外なところから幸運の糸をつかみますが、そのために晩
年まで暗い影が常につきまとい、最後は実権のない地位に祭り上げられて一生
を終えました。
その娘の石上国盛は、本来なら大臣の娘、そして高官の妻として安穏とした人
生を送れるはずでしたが、思わぬ事件が続発し晩年は苦労を重ねることとなり
ました。彼女の遺児・宿奈麻呂はその後「良継」と改名、最後は内大臣にまで
登りますが、結局男の子がなくてこの系統は断絶します。そういった後の歴史
まで考え合わすと、つくづく不運にみいられた親子だと思わずにいられません。

<参考文献>
『壬申の乱』遠山美都男(中公新書)
『律令制政治と皇位継承』木本好信(高科書店)
『律令国家の展開』角田文衛(吉川弘文館「角田文衛著作集」)
『別冊歴史読本 古代人物総覧』新人物往来社

<系図>
物部尾輿―――守屋              藤原宇合
     |―贄子                |――aへ
     |―大市御狩―目―宇麻乃―石上麻呂―――国盛
                       |
                       |―乙麻呂―宅嗣
                             (やかつぐ)

   |―広嗣
 a―|      |―諸姉(藤原百川<良継の異母弟>の妻、
   |―宿奈麻呂―|    藤原旅子<淳和天皇母>の母)
     (良継) |―乙牟漏(桓武天皇皇后、平城天皇、嵯峨天皇母)
          |―名前不明女子(藤原永手<良継の従兄弟・北家>
          |        の妻)
          |―男児(夭折)→この系統断絶

<略年表>
587年:崇仏戦争で、物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされ、所領のほとんどを没
     収される
640年:物部麻呂誕生
645年頃:物部宇麻乃が孝徳天皇の頃、衛部となる
672年:壬申の乱で物部麻呂が仕えていた大友皇子が敗退し、その首を持っ
     て大海人皇子に投降する
676年:麻呂、遣新羅大使となる。この時大乙上(正八位相当)
681年:麻呂、小錦下(従五位下相当)となる
684年:「八色の姓」の制定により「連」姓から「朝臣」姓へ
     この頃「物部」姓から「石上」姓へ変更
686年:天武天皇の葬礼に対して「法官」のことを誄(しのびごと)する。
     この時直広参(正五位下相当)
697年:藤原宇合(この当時は「馬飼」)誕生
     同時期に石上国盛も誕生か
696年:50人の資人を持統天皇より賜る。この時直広壱(正四位下相当)
700年:麻呂、筑紫総領(後の太宰帥)になる。この時直大壱(正四位上相
     当)
701年:麻呂、大宝律令の施行に伴い正三位に昇進、大納言となる。
704年:麻呂、大納言から右大臣に昇進
708年:麻呂、右大臣から左大臣に昇進
710年:麻呂、旧都藤原京の留守居官となる
712年:この頃、藤原宇合と石上国盛結婚か
713年:この頃、宇合と国盛の間に長男藤原広嗣誕生か
715年:この年に次男宿奈麻呂(後の藤原良継)誕生
716年:藤原宇合(この時は「馬飼」)が遣唐副使に任命される。
     特例で正六位下から従五位下に2階級特進する。
717年:従二位左大臣を持って石上麻呂死去(78歳)
719年:藤原宇合帰国。常陸国守兼安房・上総・下総按察使に任命される
724年:宇合、蝦夷の反乱鎮圧のために持節大将軍に任命され、東国に遠征。
     この時正四位上・式部卿(恐らく兄・武智麻呂が721年に退任し
     たあとを追って就任したか?)
725年:宇合、蝦夷の反乱鎮圧により従三位・勲二等の特進を果たす
726年:宇合、知造難波宮事(難波宮造営長官)に任命される
729年:長屋王の変の際、6衛府の軍を率いて長屋王邸を囲む
731年:宇合、参議となる
737年:天然痘の流行により、正三位式部卿をもって藤原宇合死去(44歳)
738年:藤原広嗣式部少輔+大和守に任命されるが、年末に「親族暫訴」の
     罪により太宰少弐に左遷される
     国守の兄弟・石上乙麻呂が密通の罪(恐らくでっち上げ)により流
     罪に
735年:藤原広嗣の乱、広嗣敗死
736年:広嗣の兄弟はじめ関係者が流罪などに処せられる
737年:特例により広嗣の乱の関係者の流罪が解かれる
749年:大仏開眼の特例により、石上国盛(史料では「国守」)が無位から
     従五位下に昇進する
750年:石上乙麻呂死去
     この頃、石上国盛も死去か
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