拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
文禄元年6月頃に作られた物です。
豊臣秀吉の命で名護屋城詰めをしていたときに詠まれた物です。この時義久にも朝鮮出兵の命が下りましたが、老年であることを理由にそれは回避されました、が、その代わりに名護屋城詰めを命じられたのでした。実質的には人質に取られたのではと考えられます。
このあと、梅北一揆、そして弟・島津歳久へ自害を命じるなど、この年は義久の生涯でも苦難の一年になります。そんなことを余り感じさせないのんびりした内容の一首です。
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
名護屋にて詠之、子細あり、
千種さく野辺の中にもむらさきの
いろむつましき花の一もと
(「薩藩旧記雑録 後編」3-901)
豊臣秀吉の命で名護屋城詰めをしていたときに詠まれた物です。この時義久にも朝鮮出兵の命が下りましたが、老年であることを理由にそれは回避されました、が、その代わりに名護屋城詰めを命じられたのでした。実質的には人質に取られたのではと考えられます。
このあと、梅北一揆、そして弟・島津歳久へ自害を命じるなど、この年は義久の生涯でも苦難の一年になります。そんなことを余り感じさせないのんびりした内容の一首です。
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