拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
書いてあるのが事実に近いか、それとも150%美化なのかヾ(^^;)
…それはともかく、戦国時代の武将は意外に肖像画を残している。理由は遺族が法要をするときに故人の姿を偲ぶための肖像画や木像が必要だったからなのだが。
たまに「聞いたことないよ〜」という泡沫武将(失礼)ですら肖像画が残っていたりすることを知って驚愕することがある。
ところが、
教科書に名前が出てくるような武将で
しかもその後その一族が滅亡したり改易されたわけでもないのに
全く肖像画や木像の類が残って無くて皆無!
…ということがある。
その気の毒な数少ない?武将の一人が島津義久だろう。
なにしろ一瞬とはいえ九州全土を制覇しようとしたのにも関わらず
その祖父(島津忠良)、父(島津貴久)、弟(島津義弘)、(たぶん不肖のヾ(--;))義理の息子(島津忠恒(家久))が肖像画や木像が残っているのにも関わらず
義久だけが一枚(一体)もその姿を知る術が残ってないのである。
これに関しては
「義久の遺言で肖像画とかの類を残させなかった」
とか
「義久と忠恒(家久)の対立の煽りで、義久関係の史料は余り残らなかった?」
等々の説をいろんな本など(タイトルとか忘れた(爆))で拝見した記憶がある。
ところが
『島津世家』(『鹿児島県史料集』37巻)の「慈眼公」(「慈眼」は忠恒(家久)の戒名の一部)条に、義久の供養のために義久の木像を高野山の蓮金院に納めたという話が出てきている。
「なーんだ、義久の木像残ってるじゃん。」
…と思って、高野山に行ってみると…
蓮金院は既に廃絶してありませんでした_(。_゜)/
ということで、希望はついえた?…と思っていたのだが、
先日取り寄せたある論文に興味深い話が載っていた。
…それはともかく、戦国時代の武将は意外に肖像画を残している。理由は遺族が法要をするときに故人の姿を偲ぶための肖像画や木像が必要だったからなのだが。
たまに「聞いたことないよ〜」という泡沫武将(失礼)ですら肖像画が残っていたりすることを知って驚愕することがある。
ところが、
教科書に名前が出てくるような武将で
しかもその後その一族が滅亡したり改易されたわけでもないのに
全く肖像画や木像の類が残って無くて皆無!
…ということがある。
その気の毒な数少ない?武将の一人が島津義久だろう。
なにしろ一瞬とはいえ九州全土を制覇しようとしたのにも関わらず
その祖父(島津忠良)、父(島津貴久)、弟(島津義弘)、(たぶん不肖のヾ(--;))義理の息子(島津忠恒(家久))が肖像画や木像が残っているのにも関わらず
義久だけが一枚(一体)もその姿を知る術が残ってないのである。
これに関しては
「義久の遺言で肖像画とかの類を残させなかった」
とか
「義久と忠恒(家久)の対立の煽りで、義久関係の史料は余り残らなかった?」
等々の説をいろんな本など(タイトルとか忘れた(爆))で拝見した記憶がある。
ところが
『島津世家』(『鹿児島県史料集』37巻)の「慈眼公」(「慈眼」は忠恒(家久)の戒名の一部)条に、義久の供養のために義久の木像を高野山の蓮金院に納めたという話が出てきている。
「なーんだ、義久の木像残ってるじゃん。」
…と思って、高野山に行ってみると…
蓮金院は既に廃絶してありませんでした_(。_゜)/
ということで、希望はついえた?…と思っていたのだが、
先日取り寄せたある論文に興味深い話が載っていた。
『尚古集成館紀要』三号「諸神社明細」
廃仏毀釈でつぶされた福昌寺の代わりに供養所として新規に建てられた「鶴嶺神社」の沿革について書かれた物だが、明治初年の廃仏毀釈、そして西南戦争の中で島津家伝来の多くの宝物が失われた経緯が伺える、貴重な論文である。
上記論文によると
島津家歴代当主の遺品や肖像画は廃仏毀釈を期に、供養所として新規建立された諸神社に移されたらしい。ほとんどが鶴嶺神社に移管されたが、初代当主・忠久や戦国時代の当主は別個に神社を建立されたのは興味深い。一覧は以下の通り。
ところが、龍尾、大平、長谷の神社は早くに廃絶したらしい。廃絶理由は論文には明記なく未詳である(但し、龍尾神社は「西南戦争での官軍の強奪により、存続不能になったため、残った遺品を鶴嶺神社に移し」という説明が上記論文中にある)。
これらの説明から推測するに、義久の肖像画などの遺品も同様に大平神社に移されたが、西南戦争による官軍の強奪被害に遭い、行方不明となった物と思われる。
ところが、上記論文でも紹介されているが、
誰を書いたのか分からない謎の肖像画が鶴嶺神社に移管されて、それだけが官軍の強奪被害を逃れて現在まで残っているのである。明治初年度の調査の時点で、それを誰を書いたものか?もう分からなくなっていたらしい。
この謎の肖像画、二年前の九州国立博物館の開館記念展に「島津某像」として出展された。それを見に行った方の話を某掲示板で伺うことが出来たのだが、どうも説明は「島津義久を書いた物ではないか?」とついていたらしい。だが、その考察の根拠は不明である。
おまけ
上記論文では、「徳重神社」は「さきへじんじゃ」、「竹田神社」は「たかたじんじゃ」という本当の読み方が紹介されています。…今更修正不能のような気も(^^;)
<2007年10月5日追記>
予告通り「島津なんとかさんの肖像画」ヾ(^^;)削除しました。気になる方は、九州国立博物館の図録を図書館で取り寄せて下さい。ちなみに、九州国立博物館ではもう図録の在庫無いらしいです_(。_゜)/
廃仏毀釈でつぶされた福昌寺の代わりに供養所として新規に建てられた「鶴嶺神社」の沿革について書かれた物だが、明治初年の廃仏毀釈、そして西南戦争の中で島津家伝来の多くの宝物が失われた経緯が伺える、貴重な論文である。
上記論文によると
島津家歴代当主の遺品や肖像画は廃仏毀釈を期に、供養所として新規建立された諸神社に移されたらしい。ほとんどが鶴嶺神社に移管されたが、初代当主・忠久や戦国時代の当主は別個に神社を建立されたのは興味深い。一覧は以下の通り。
- 龍尾神社(島津忠久)
- 竹田神社(島津忠良<島津貴久の実父、本家の当主在籍経験無し>)
- 松原神社(島津貴久)
- 大平神社(島津義久)
- 徳重神社(島津義弘)
- 長谷神社(島津家久(忠恒))
ところが、龍尾、大平、長谷の神社は早くに廃絶したらしい。廃絶理由は論文には明記なく未詳である(但し、龍尾神社は「西南戦争での官軍の強奪により、存続不能になったため、残った遺品を鶴嶺神社に移し」という説明が上記論文中にある)。
これらの説明から推測するに、義久の肖像画などの遺品も同様に大平神社に移されたが、西南戦争による官軍の強奪被害に遭い、行方不明となった物と思われる。
ところが、上記論文でも紹介されているが、
誰を書いたのか分からない謎の肖像画が鶴嶺神社に移管されて、それだけが官軍の強奪被害を逃れて現在まで残っているのである。明治初年度の調査の時点で、それを誰を書いたものか?もう分からなくなっていたらしい。
この謎の肖像画、二年前の九州国立博物館の開館記念展に「島津某像」として出展された。それを見に行った方の話を某掲示板で伺うことが出来たのだが、どうも説明は「島津義久を書いた物ではないか?」とついていたらしい。だが、その考察の根拠は不明である。
おまけ
上記論文では、「徳重神社」は「さきへじんじゃ」、「竹田神社」は「たかたじんじゃ」という本当の読み方が紹介されています。…今更修正不能のような気も(^^;)
<2007年10月5日追記>
予告通り「島津なんとかさんの肖像画」ヾ(^^;)削除しました。気になる方は、九州国立博物館の図録を図書館で取り寄せて下さい。ちなみに、九州国立博物館ではもう図録の在庫無いらしいです_(。_゜)/
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