拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前にも触れたのだが、在神戸英国大使館が陸軍中野学校の学生と伊藤佐又という将校(中野学校教官)によって襲撃されたという事件、今田の親友である高嶋辰彦と桜井徳太郎がバックにいるという話はいろんな本やネットにもちらちらとは載っていたのだが、
はっきりと
関係がある!
とか
この事件の概要はこうだ!
と書いた物が無くって、本当に高嶋と桜井が関係あるのか、そして私の推測通り、高嶋と桜井の左遷はこれに関係あるのかはっきりしなかった。
しかし、今田関連で入手した本『昭和憲兵史』に非常に詳しい記述があったので、それを元にして私の推測も交えつつ紹介してみることにする。
なお管見で見た限り、この事件に触れた本は多くても、高嶋と桜井までからめて触れた論文とか本は皆無なので、このブログが初めて取り上げることになる(と思う多分)。
…こういうニッチネタは早者勝ちなのである。( ̄^ ̄) この台詞義弘の肖像ネタでも書いたようなf(^_^;)
はっきりと
関係がある!
とか
この事件の概要はこうだ!
と書いた物が無くって、本当に高嶋と桜井が関係あるのか、そして私の推測通り、高嶋と桜井の左遷はこれに関係あるのかはっきりしなかった。
しかし、今田関連で入手した本『昭和憲兵史』に非常に詳しい記述があったので、それを元にして私の推測も交えつつ紹介してみることにする。
なお管見で見た限り、この事件に触れた本は多くても、高嶋と桜井までからめて触れた論文とか本は皆無なので、このブログが初めて取り上げることになる(と思う多分)。
…こういうニッチネタは早者勝ちなのである。( ̄^ ̄) この台詞義弘の肖像ネタでも書いたようなf(^_^;)
まず、この襲撃事件の背景になった排英運動とやらがどうして盛り上がったのか?と言う事から。
昭和14年5月頃から8月頃、国内は勿論、国外でも日本人が多かった北京や天津ではイギリスに対して国民の敵意が激化し、イギリス大使館へのデモはもちろん、物を投げつけるなど緊迫した状態となりました。(最近どこかの国でも似たようなことが げふんげふん)
その理由は
「日支事変(現「日中戦争」)が中々終わらないのは、蒋介石に米英が援助しているからだ!」
でした。その中で特にアメリカよりイギリスに対して怒りが集中したのは、
・昭和14年1月10日、南支海軍部隊とこれに共同する陸軍部隊が海南島を占拠したが、日本軍の南進に驚いた米英仏は厳重に抗議を行った(蒋介石への援助と中国に持っていた権益が妨害されるから)
・昭和14年4月9日、新任の天津海関監督・程錫庚が殺害され、犯人は英国租界へ逃亡。この時天津駐屯軍は犯人の引き渡しをイギリスに要望したが、イギリスはあっさり拒否。天津駐屯軍は報復措置として6月14日にイギリス租界を封鎖した。
この辺が原因でした。
排英運動激化の背景には、実は長年日本を二分していた「親英米派」といわれる欧米文化に親和的な考え方と「アジア主義」の対立がありました。アジア主義者に言わせると、
由来、日本の右翼主義者の主張は、排英米の思想に重点が置かれていた。アジア人のアジアを主張し、アジアの開放は先ず英米的勢力を東亜の天地より追放することにあるという見解に立っていた。だから、彼らの対外政策の基調は、アジアからの英米勢力の駆逐にあった。しかし、かれらの排英米思想は、対外策としてアジアから英米を追放するだけではなかった。国内より英米思想、英米勢力の排除を期する物でもあった。革新陣営からは、既成陣営はすべて英米体制の支配下にあると信じられていたからである。そのため、反英運動の矛先はイギリスそのものだけに収まらず、親英的な人が多い宮中グループや三井・三菱などの古くからある財閥、そして海軍に向けられました。特に、英米への敵視政策に反対し、ドイツ・イタリアとの枢軸同盟を結ぶことに反対した山本五十六(当時海軍次官)はいつ暗殺されてもおかしくない状態にまで陥ります。
p.340
…さて。実はこの時に反英運動を煽った一人に今田の親友・高嶋辰彦がいました。⊂(。Д。⊂⌒`つ
その煽り方は
天津では陸大教官高島中佐が満州旅行中、行李に手榴弾を入れて天津に飛び、現地軍を扇動と言うすさまじい物だったらしい…
p.338
その結果は
憲兵に退去を迫られる一幕もあった。あはは…やっぱり_| ̄|○ しかし高嶋さんってこんなキャラだったっけヾ(^^;)
p.338
但し、陸軍内でぶっ飛んでたのは高嶋だけじゃないことを言い訳に添えておきます。これから1年後のことではありますが参謀本部第二部長・土橋勇逸(この後高嶋の直属上司になります)はなんといきなり在香港イギリス大使館付き武官を呼びつけて、蒋介石への援助中止を命令するという高圧的な態度に出、イギリス外相の抗議を受けた重光葵がクレーム対応に追われたこともあったようです。
そんな不穏な空気が続いていた昭和15年1月。大阪憲兵隊はある将校とその一団を捕縛し、東京憲兵隊に護送しました。「ある将校」の名は伊藤左又、階級は少佐です。他に少尉4名でした。問題はこの5人が、新設の通称"秋草学校"後の陸軍中野学校の教官と生徒だったことでした。伊藤左又はそもそも2.26事件の将校達が心酔した「昭和維新」運動に興味があり、出世するに従って、先述のアジア主義者の言うような「米英をアジア、勿論日本から追い出すことが維新への一歩」と考えるようになります。
そして、元々諜報に才能があった伊藤は、秋草俊大佐が新設した学校の教官に迎えられるのですが-そこで早速生徒達を「反英主義」で洗脳してしまいます。
昭和14年12月、伊藤は北支山西省の大隊長へ異動辞令を受けます。(行動を起こすなら日本にいられる今だ!)…伊藤は教え子達に声を掛けました。
「排英ののろしを上げる為、在神戸英国総領事館を攻撃する。そして領事を軟禁し、圧迫を加えて、イギリス帝国のアジア侵略政策の非を認める文章を書かせる。これを天下に公表すれば、全国民の間に反英運動が高まるだろう。そして国内からの親英思想・親英分子の駆逐を促進するのだ!!!」
暮れも押し迫った12月28日、伊藤は教え子達に
「1月4日午前10時に、湊川神社に集合だ」
と声を掛けます。その時、さも学校の演習をおこなうような話をしたそうで、教え子達もすっかり騙されたみたいです。
1月2日、伊藤は姫路に向かい、同志の広瀬栄市大尉を訪ねます。今度は彼と同道して第10師団師団長・佐々木到一中将を訪ね、この作戦への同意を求めますが、さすがに佐々木もこの無謀な作戦にビックリし、猛反対し説得をします。-佐々木の協力を得られなかった伊藤は、今度は大阪に飛び、かつて在籍していた師団司令部の軍事資料部出張所に行き、協力を求めますが、やはり無視されました。
すると伊藤は次にとんでもない行動に出ます。なんと翌1/3、兵庫県警本部にやってきて「翌日陸軍が英国領事館を占拠するが警察も協力しろ」と強迫します。やりたいことをやり尽くした伊藤でしたが、余りにみんなの協力が得られず、徐々に自信を失っていました。その頃には大阪師団司令部や兵庫県警から大阪憲兵隊に伊藤左又の不審な行動は連絡されていました。
翌1/4、結局伊藤は神戸憲兵隊に自首しました-いや、本人は「憲兵隊に助力を要請しに来たのだ」とまだ強がりを言っていたようです。生徒達も憲兵隊に一網打尽にされてしまいました。
-この結果、伊藤は免官、上司の秋草は左遷されてしまいます。が、上記で分かるように懲りない性格の伊藤、この年の10月には近衛文麿首相の内閣書記官長・富田健治を排英運動がらみで強迫していたそうです(p.420)
…
実は今までが前置きで_(。_゜)/
この伊藤には何人かのバックがついていました。それが高嶋辰彦であり、われらの宴会部長!桜井徳太郎なのです(○。○)
当時、陸軍部内で俊秀をうたわれていた高嶋辰彦大佐は、排英強硬論者であった。在京右翼とも交わり皇戦研究会という組織を指導し、さかんに国家革新を叫び、国家革新は陸軍を基盤とし軍を先駆とせよとの信念を吐露(後略)こんな高嶋がおなじ排英論者であった伊藤と仲良くなるのは自然の摂理みたいな物でした。更に
p.348
これも革新派の猪武者と言われ、部内でも反英の闘士であった桜井徳太郎とも結ばれ、共に同志として動いていた。この結びつきはどう考えたらいいんでしょうか。大谷は反英思想でくっついたと見ているようですが、今まで散々書いてきたように高嶋と桜井は大親友ですからねえ…高嶋つながり(或いは逆に桜井つながり)の可能性もありかも。
p.348
更に伊藤にはこんなバックも。
更に神兵隊事件の盟主だった天野辰雄とも交友関係にあった。天野の率いる純正右翼の一派は、強硬な枢軸派で親英派排撃の急先鋒であった。これは驚きました。神兵隊事件には今田が巻き込まれたことがあるからです。ただ今田と天野に認識があったかどうかは不明。
p.348
この天野辰雄を介して、伊藤は政界にも工作を試みます。天野の紹介で伊藤は高嶋と共に近衛文麿枢密院議長を訪問、高嶋は「英米思想の国内からの駆逐と国内親英派の打倒が昭和維新に通じる」旨を熱弁し、伊藤は自分たちの排英運動に近衛が協力するよう威圧をかけます。この時近衛は
「この気違いじみた将校の話をまともに聞いてない、取りあえず相づちを打っていただけである」
と回想したそうですが、とうの伊藤は例の性格ですので(^^;)そうはとらえていません
「我々が攘夷ののろしをあげたら協力してくれると約束した」
ついでに先述の広瀬大尉は北白川宮永久王少佐と仲が良く、伊藤はここから宮様の協力まで得ようとしていました。
さて、伊藤をつかまえてここまでばれた以上、当然そのバックの処分も検討されました。が、高嶋、桜井がこの事件に絡んでいたかどうかと言うのは当初分かりませんでした。
その頃古事記研究会という右翼人の会合が続けられていたが。高島、桜井、天野辰雄、白鳥敏夫など10名内外の軍人、民間人を交えての会であった、伊藤もいつもこれに出席していた。丁度前年12月末のある日、古事記会からの帰途、伊藤は、桜井、高島と中央線の電車で帰宅する前の短い時間、こんな話をしている。<注>
「いつかはやらねばならぬと決意しているのだが、後に人が続くか案じている」
と伊藤がしんみりと誰とも無く呟いた。すると桜井が、こういった。
「絶対に見殺しにすることは無かろう、後は心配するな」
p.349
・「古事記研究会」:「スメラ会」の間違いじゃないかとも思うのですが考察略ヾ(^^;)。
そこで憲兵隊は高嶋、桜井まで聴取します。高嶋は「全く気が付かなかった」と回答しましたが、桜井は「何かやるなとは思ったが今回の決行のことは聞いてない」と答えました。
しかし、桜井はこの事件の前にも「もし伊藤が立てば、われわれは、必ず全陸軍を引きずって、軍を排英一本に固めて伊藤に全面的な協力をする」(p.348)
と広言していました。
高嶋は昭和15年12月2日に台湾の歩兵第一連隊長に(参考こちらpdf)、桜井に至っては事件発覚とほぼ同時昭和15年1月に異動になっています。
やはり前の予想通り、高嶋、桜井はこの事件に連坐して左遷され、中央から追われたと思うのが自然ではないでしょうか。
蛇足ですが、高嶋は戦争指導課(戦争指導班)で今田と共に働いていたときには「日中戦争反対派」として活躍し、それが周囲の圧力で破綻したときには日記に「(課の)一同無念にむせび泣く」とまで書いたのですが、その後上記の様に強硬派となったことから「高嶋の反対派というのは業務上のポーズ」という説まであります。が、私は以前からそれを疑問に思っていて、「一見真逆のように見える高嶋の態度だが、実は本人的には矛盾してないのではないか」と考えていました。
今回の大谷の本で、私の考えは裏付けられたように思います。高嶋はアジアの道義的提携を目指していました。もしかしたらこの考えには今田の影響もあった…と思いたいです何となく(^^;)。そんな彼には、蒋介石に援助する欧米というのは、日中の争いを激化させてアジアの疲弊を狙っているようにも見え、アジアの提携を妨害しているように見えた可能性が高いです。そんな彼にとって日中戦争への反対がその後反英運動完逐になっても不思議ではないのでないかと。
なお、桜井の左遷先の生活を伺わせるようなエピソードが『秘録 板垣征四郎』に書かれていました。
岡田芳政氏の証言(前略)<補足>
辻政信が南京に来たのは多分昭和16年の春の異動であったと思う。辻と同時に桜井徳太郎大佐(30期)も総司令部付として赴任してきた。この二人の異動の経緯については私共には分からないが、二人とも参謀としてではなく、総司令部付として赴任してきた。所謂員数外で任務無しである。
桜井大佐は第二課長今井(武夫)大佐と同期で、辻は私と同期(36期)である。
総司令部付と言うが、事務管理上どこかの課に付けなければならない。そこで板垣さんは今井大佐を呼び、「桜井と辻が今度来ることになった。ついては桜井は30期で貴官と同期、辻は36期で岡田と同期だから、第二課付と言うことにする。宜しく頼む。」
と言うお話であった。
さて二人は第二課付とはなったが、共に有能の士である。任務は皆それぞれに参謀が担当しているし、如何に部付とは言えいい加減な仕事を与えるわけにもいかない。しかし2人とも中支那での勤務は初めてであるから、しばらく様子を見てもらおうと言うことで、司令部付の建て物の中にある部屋を割り当てた。
ところが、人評してこの建て物を『猛獣小屋』と呼んだ。
とにかくこの2人は、誰も使いこなすことが出来ず、板垣なら2人を使えるだろうと言うことで寄越したのだという。この猛獣と呼んで相応しいような2人だから、これを預かった第二課は苦労が絶えない。勝手気ままに泳がせておく訳にもいかず、統制しても聞く耳を持つ相手ではない。
そんなわけでもないが、2人は自由の天地を得た如く、北から南へと飛び回っていて、ほとんど司令部にいたためしがない。
p.154~155
岡田芳政:後に香港興亜機関という工作機関の長となる。戦後、その時の体験談を元に『続・現代史資料』編纂に参加した。
昭和16年の春:これは岡田氏の記憶違いで、実際は昭和15年の1月である。
今井武夫:桜井と同期と言うことは今田とも同期ということで、満州事変の時に思わぬ片棒かつがされたのはこちらでも触れた。ここでも災難(^^;)にあった今井は、この後辻とは変な腐れ縁が出来てしまい、更なる災難にあったのは、子息・貞夫氏による伝記(幻の日中和平工作―軍人今井武夫の生涯)にくわしい。
板垣:当時支那派遣軍総司令官・板垣征四郎
あはは(・∀・)…いや、笑ってる場合じゃないな。実際、この他に今井武夫も回想を書いていますが、この2人を押しつけられた支那派遣軍第2課はそれはもう災難の連続で、特に辻はこの時に板垣征四郎司令官名で『支那派遣軍将兵に告ぐ』と言うビラを上司の今井の了解無く勝手に作って中国に派遣されている日本軍将兵にばらまきまくるのですが、この内容たるや辻の信仰していた石原莞爾の東亜連盟論そのものでした。これを知った東条英機(@アンチ石原莞爾)にかんかんに怒られるのですが、辻は「なら中国人にばらまくならいいんでしょ」と開き直り、更に活動を続けたらしいです(今井武夫談)
それにしても、辻はともかく、桜井も全く司令部にじっとしてなかった困ったちゃんだったようだが、一体どこに行ってたのやら。ところでこの頃今田は左遷されて第21軍、その後南支那派遣軍と在南中国の勤務になっていたのだが、桜井のことだから今田の元に泊まりがけで愚痴を言いに行った…くらいはふつーにありそうです。
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