拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
調べ物をしているときに、偶然元国際日本文化センター教授で現静岡県知事の川勝平太氏が「藤原鎌足は百済の王子・余豊璋だ!」と言う話を『文藝春秋』2009年6月号のコラムで書いていたとか(○。○)いう恐ろしい話を知ってしまった…更にあの梅原猛氏の御墨付きまでもらっていたらしい…。
…川勝氏までそんなデンパに染まってしまうなんておいたわしや政治の世界って怖いわヾ(--;)
気を取り直して
前回の話はこちらです
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※なお、20年以上前のデータのため、一部崩れたりする個所がありますが、訂正するのも面倒なのでこのまま再掲します。御了承下さい。
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気を取り直して
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今回upするのは、今から20年近く前(…)に某所にupしたものです。
最近ちょっと調べ物していたら、検索中に偶然にこの人のことが出て来てこのネタを思い出しました。
…と言う事で、島津氏のネタが書けないので昔の話で胡麻化してみる(ヲイ)
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※なお、20年以上前のデータのため、一部崩れたりする個所がありますが、訂正するのも面倒なのでこのまま再掲します。御了承下さい。
最近ちょっと調べ物していたら、検索中に偶然にこの人のことが出て来てこのネタを思い出しました。
…と言う事で、島津氏のネタが書けないので昔の話で胡麻化してみる(ヲイ)
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※なお、20年以上前のデータのため、一部崩れたりする個所がありますが、訂正するのも面倒なのでこのまま再掲します。御了承下さい。
ちょっと用事がありまして、10年ぶりぐらいに枚岡神社と言うところに行ってきました。
梅の名所なんですが…
何と去年病気のために全部切ってしまったとのこと(○。○)
…調べずに行ったので、とんだ肩すかし・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
←これは拝殿前にあった恐らく唯一助かった梅の木…
ただ阪神電車が奈良まで直通するようになったので、神戸方面から非常に行きやすくなりました。枚岡神社最寄り駅の枚岡駅は各停しか止まらないので、40分間普通に乗りっぱなし(終点の阪神尼崎駅まで乗り換え接続がなかった!)のはかなりつらかったですが…。
さて、今はここの近所の石切神社(電車で2駅隣)のほうが大阪府民にもかなり有名なんですが、実は『延喜式』河内国一宮だったのはこっちの枚岡神社。非常に歴史が古くて格式のある神社なのですよ。それもそのはず、ここはあの奈良の春日大社の本家を名乗っているのだ。元々は枚岡神社にいた神様を春日大社に移したのだという。
ところが、現状を見てみるとちょっと不思議。
春日大社と枚岡神社では神様の祭り方の順番がやや異なるのだ。
枚岡神社本殿(拝殿付近から遠景) ちなみに西向き
春日大社:武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売命(ひめのみこと)
枚岡神社:天児屋根命、比売命、武甕槌命、経津主命
春日大社も枚岡神社も藤原氏+中臣氏の氏神を名乗っているのだが、実は藤原氏(中臣氏)の氏神なのは天児屋根命と比売命(『日本書紀』などによる)。武甕槌命と経津主命は藤原氏(中臣氏)のご先祖とは全く関係のない神様なのである。関東にお住まいの方なら茨城県の鹿島神宮と香取神宮はご存じの方+実際に行った人も多いと思うのだが、武甕槌命は鹿島神宮の神様、経津主命は香取神宮の神様。
何でこんな事になってるの?
実はこのネタ、大昔から気になっている人が多かったのか、よく論文のテーマとして取り上げられていました。
今ちらっとciniiで検索したら、ざっと見ただけでも
・春日大社の伝承について : 『古社記』所引、「宝亀十一年(七八〇)八月三日中臣殖栗連時風記之」を中心に 大友 裕二 神道史研究 = The shinto history review 65(1), 91-99, 2017-04
・ 春日大社の成立 : 都城郊外に分祀された外戚の神 脊古 真哉 同朋大学佛教文化研究所紀要 = Bulletin of Doho University Institute of Buddhist Culture (35), 176-145, 2015
・ 春日大社の創祀と藤原氏 大友 裕二 神道史研究 61(2), 246-261, 2013-10
・平城京における日神信仰--都祁氷室神社と春日大社の創祀をめぐって 岡村 孝子 日本宗教文化史研究 14(1), 52-65, 2010-05
…などなど。ちなみに全部未読!_(。_゜)/
検索キーを変えてみたらもっと出てくるかも知れないなあ。
以前からちょっと気にはなっていたのですが、この機会に改めて考えてみました。
なお、くどいようですが、この件に関してはかなりの量の論文が出ているのですが、全部未読です。かぶりご容赦(ヲイ)
※気になる方は「つづきはこちら」をクリック
梅の名所なんですが…
何と去年病気のために全部切ってしまったとのこと(○。○)
…調べずに行ったので、とんだ肩すかし・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
←これは拝殿前にあった恐らく唯一助かった梅の木…
ただ阪神電車が奈良まで直通するようになったので、神戸方面から非常に行きやすくなりました。枚岡神社最寄り駅の枚岡駅は各停しか止まらないので、40分間普通に乗りっぱなし(終点の阪神尼崎駅まで乗り換え接続がなかった!)のはかなりつらかったですが…。
さて、今はここの近所の石切神社(電車で2駅隣)のほうが大阪府民にもかなり有名なんですが、実は『延喜式』河内国一宮だったのはこっちの枚岡神社。非常に歴史が古くて格式のある神社なのですよ。それもそのはず、ここはあの奈良の春日大社の本家を名乗っているのだ。元々は枚岡神社にいた神様を春日大社に移したのだという。
ところが、現状を見てみるとちょっと不思議。
春日大社と枚岡神社では神様の祭り方の順番がやや異なるのだ。
枚岡神社本殿(拝殿付近から遠景) ちなみに西向き
春日大社:武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売命(ひめのみこと)
枚岡神社:天児屋根命、比売命、武甕槌命、経津主命
春日大社も枚岡神社も藤原氏+中臣氏の氏神を名乗っているのだが、実は藤原氏(中臣氏)の氏神なのは天児屋根命と比売命(『日本書紀』などによる)。武甕槌命と経津主命は藤原氏(中臣氏)のご先祖とは全く関係のない神様なのである。関東にお住まいの方なら茨城県の鹿島神宮と香取神宮はご存じの方+実際に行った人も多いと思うのだが、武甕槌命は鹿島神宮の神様、経津主命は香取神宮の神様。
何でこんな事になってるの?
実はこのネタ、大昔から気になっている人が多かったのか、よく論文のテーマとして取り上げられていました。
今ちらっとciniiで検索したら、ざっと見ただけでも
・春日大社の伝承について : 『古社記』所引、「宝亀十一年(七八〇)八月三日中臣殖栗連時風記之」を中心に 大友 裕二 神道史研究 = The shinto history review 65(1), 91-99, 2017-04
・ 春日大社の成立 : 都城郊外に分祀された外戚の神 脊古 真哉 同朋大学佛教文化研究所紀要 = Bulletin of Doho University Institute of Buddhist Culture (35), 176-145, 2015
・ 春日大社の創祀と藤原氏 大友 裕二 神道史研究 61(2), 246-261, 2013-10
・平城京における日神信仰--都祁氷室神社と春日大社の創祀をめぐって 岡村 孝子 日本宗教文化史研究 14(1), 52-65, 2010-05
…などなど。ちなみに全部未読!_(。_゜)/
検索キーを変えてみたらもっと出てくるかも知れないなあ。
以前からちょっと気にはなっていたのですが、この機会に改めて考えてみました。
なお、くどいようですが、この件に関してはかなりの量の論文が出ているのですが、全部未読です。かぶりご容赦(ヲイ)
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塩山紀生氏がこんな亡くなり方されたというのがショック
先日ようやく『装甲騎兵ボトムズ』再放送で最終回見終わったところなのに。
さて表題の話。
天皇陛下の“退職”がいよいよ本決まりのようですが
これまたかなり揉めて決まった称号「上皇」。
ご存じの方も多いかと思いますが、「上皇」が登場するのは実に200年ぶり(光格天皇が1817年に譲位して以来)とのこと。
古代にまで遡ると、そもそも天皇には譲位の習慣はなかったらしい。
『日本書紀』によれば、最初に譲位したと言うより無理矢理させられたのが皇極天皇。史上2人目の女帝でもあります。この人が譲位した原因というのが、蘇我蝦夷・入鹿親子がクーデターで殺害されたあの乙巳の変なのですが、『日本書紀』によればその後「上皇」とかそれに類するような称号を名乗った記録がない。
なおこの皇極天皇、後に斉明天皇として重祚(もう一回天皇になる)した第1号でもあるという、見ように寄れば非常に注目点の多い人物なんですが、この辺を重点的に研究した本とか論文とか管見では知らない(^^;)
その後、譲位を行ったのが持統天皇。史上3人目の女帝であり、そして記念すべき「上皇」第1号です。当時は「太上天皇」というのが正式名称でした。
この人についてはかなり研究も進んでいまして、この譲位+太上天皇号もかなり政略的+戦略的な目的を持って行われたのでは?というのが有力な説となっています。持統天皇は天武天皇の皇后でしたが、産んだ子供は男子一人(草壁皇子)。しかも自分に先だって死んでしまいます。草壁皇子には女子2人男子1人の子供がいました。ほかにも天武天皇の皇子が大勢健在の中、何とかして自分の孫を天皇にしようとした持統天皇は天武天皇の死後2年も経ってから「中継ぎ」として自ら天皇となり、更に自分の目の黒い内にこの男子の孫を天皇(文武天皇)にして、自分は後見人として「太上天皇」という立場を新設して政治の実権を握り続けたと推測されています。
その後誕生した太上天皇は、すべて女性(元明天皇、元正天皇)。男性初の太上天皇が、奈良の大仏で有名すぎる聖武天皇です。聖武天皇が何で太上天皇になろうとしたかという経緯は拙ブログのこの辺で書いております。
ちなみにもうひとつ興味深い話ですが、聖武天皇の娘・孝謙天皇は今のところ日本史上唯一の女性皇太子から天皇になった女性ですが、一度譲位して淳仁天皇に跡を譲った物の、史料(『続日本紀』)を見る限りでは「太上天皇」と言われた形跡がないのです。何かこの辺は色々事情がありそうなんですが、この辺を研究した論文とかも見たこと無いな(^^;)
この孝謙(称徳)天皇が亡くなった後は、光仁、桓武と以後は男性の天皇が江戸時代初頭まで続くわけですが、光仁と桓武は終生天皇位にあり、上皇になっていません。しかし、この桓武の跡を嗣いだ平城天皇は病気から突然譲位して上皇になってしまいます。その後は天皇の譲位は普通のこととなります。
特に摂関政治で藤原氏の勢力が巨大な物になると、若年、壮年の天皇が早々に退位させられることが頻発。
平安末期になり院政の時代になると、逆に天皇は適当なところで辞めて上皇になってやりたいほうだいやる状況が普通にヾ(^^;) ただ鎌倉時代以降は朝廷の権力が徐々に弱くなって上皇になってもやりたい放題やれなくなってくるわけですが…とくに持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)の系統が対立していた鎌倉後期には上皇が5人も同時に存在するという異常な状況になったことも。
そして、先述したように江戸時代後期の光格天皇が最後の上皇になります。
その後、江戸時代に天皇になった二人(仁孝天皇、孝明天皇)は譲位する前に亡くなったので上皇にはなってません。
明治時代には生前の譲位を禁止する法律が成立、法律上でも上皇は禁止
…になったのですが、平成になって高齢化社会が進み、今回の問題となったわけです。
今回は急なことだったので特別立法で何とか凌いだけど、この問題後々も起こるのは自明なんで、いずれは法律変えないといけないんでしょうね。
先日ようやく『装甲騎兵ボトムズ』再放送で最終回見終わったところなのに。
さて表題の話。
天皇陛下の“退職”がいよいよ本決まりのようですが
これまたかなり揉めて決まった称号「上皇」。
ご存じの方も多いかと思いますが、「上皇」が登場するのは実に200年ぶり(光格天皇が1817年に譲位して以来)とのこと。
古代にまで遡ると、そもそも天皇には譲位の習慣はなかったらしい。
『日本書紀』によれば、最初に譲位したと言うより無理矢理させられたのが皇極天皇。史上2人目の女帝でもあります。この人が譲位した原因というのが、蘇我蝦夷・入鹿親子がクーデターで殺害されたあの乙巳の変なのですが、『日本書紀』によればその後「上皇」とかそれに類するような称号を名乗った記録がない。
なおこの皇極天皇、後に斉明天皇として重祚(もう一回天皇になる)した第1号でもあるという、見ように寄れば非常に注目点の多い人物なんですが、この辺を重点的に研究した本とか論文とか管見では知らない(^^;)
その後、譲位を行ったのが持統天皇。史上3人目の女帝であり、そして記念すべき「上皇」第1号です。当時は「太上天皇」というのが正式名称でした。
この人についてはかなり研究も進んでいまして、この譲位+太上天皇号もかなり政略的+戦略的な目的を持って行われたのでは?というのが有力な説となっています。持統天皇は天武天皇の皇后でしたが、産んだ子供は男子一人(草壁皇子)。しかも自分に先だって死んでしまいます。草壁皇子には女子2人男子1人の子供がいました。ほかにも天武天皇の皇子が大勢健在の中、何とかして自分の孫を天皇にしようとした持統天皇は天武天皇の死後2年も経ってから「中継ぎ」として自ら天皇となり、更に自分の目の黒い内にこの男子の孫を天皇(文武天皇)にして、自分は後見人として「太上天皇」という立場を新設して政治の実権を握り続けたと推測されています。
その後誕生した太上天皇は、すべて女性(元明天皇、元正天皇)。男性初の太上天皇が、奈良の大仏で有名すぎる聖武天皇です。聖武天皇が何で太上天皇になろうとしたかという経緯は拙ブログのこの辺で書いております。
ちなみにもうひとつ興味深い話ですが、聖武天皇の娘・孝謙天皇は今のところ日本史上唯一の女性皇太子から天皇になった女性ですが、一度譲位して淳仁天皇に跡を譲った物の、史料(『続日本紀』)を見る限りでは「太上天皇」と言われた形跡がないのです。何かこの辺は色々事情がありそうなんですが、この辺を研究した論文とかも見たこと無いな(^^;)
この孝謙(称徳)天皇が亡くなった後は、光仁、桓武と以後は男性の天皇が江戸時代初頭まで続くわけですが、光仁と桓武は終生天皇位にあり、上皇になっていません。しかし、この桓武の跡を嗣いだ平城天皇は病気から突然譲位して上皇になってしまいます。その後は天皇の譲位は普通のこととなります。
特に摂関政治で藤原氏の勢力が巨大な物になると、若年、壮年の天皇が早々に退位させられることが頻発。
平安末期になり院政の時代になると、逆に天皇は適当なところで辞めて上皇になってやりたいほうだいやる状況が普通にヾ(^^;) ただ鎌倉時代以降は朝廷の権力が徐々に弱くなって上皇になってもやりたい放題やれなくなってくるわけですが…とくに持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)の系統が対立していた鎌倉後期には上皇が5人も同時に存在するという異常な状況になったことも。
そして、先述したように江戸時代後期の光格天皇が最後の上皇になります。
その後、江戸時代に天皇になった二人(仁孝天皇、孝明天皇)は譲位する前に亡くなったので上皇にはなってません。
明治時代には生前の譲位を禁止する法律が成立、法律上でも上皇は禁止
…になったのですが、平成になって高齢化社会が進み、今回の問題となったわけです。
今回は急なことだったので特別立法で何とか凌いだけど、この問題後々も起こるのは自明なんで、いずれは法律変えないといけないんでしょうね。