拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
塩山紀生氏がこんな亡くなり方されたというのがショック
先日ようやく『装甲騎兵ボトムズ』再放送で最終回見終わったところなのに。
さて表題の話。
天皇陛下の“退職”がいよいよ本決まりのようですが
これまたかなり揉めて決まった称号「上皇」。
ご存じの方も多いかと思いますが、「上皇」が登場するのは実に200年ぶり(光格天皇が1817年に譲位して以来)とのこと。
古代にまで遡ると、そもそも天皇には譲位の習慣はなかったらしい。
『日本書紀』によれば、最初に譲位したと言うより無理矢理させられたのが皇極天皇。史上2人目の女帝でもあります。この人が譲位した原因というのが、蘇我蝦夷・入鹿親子がクーデターで殺害されたあの乙巳の変なのですが、『日本書紀』によればその後「上皇」とかそれに類するような称号を名乗った記録がない。
なおこの皇極天皇、後に斉明天皇として重祚(もう一回天皇になる)した第1号でもあるという、見ように寄れば非常に注目点の多い人物なんですが、この辺を重点的に研究した本とか論文とか管見では知らない(^^;)
その後、譲位を行ったのが持統天皇。史上3人目の女帝であり、そして記念すべき「上皇」第1号です。当時は「太上天皇」というのが正式名称でした。
この人についてはかなり研究も進んでいまして、この譲位+太上天皇号もかなり政略的+戦略的な目的を持って行われたのでは?というのが有力な説となっています。持統天皇は天武天皇の皇后でしたが、産んだ子供は男子一人(草壁皇子)。しかも自分に先だって死んでしまいます。草壁皇子には女子2人男子1人の子供がいました。ほかにも天武天皇の皇子が大勢健在の中、何とかして自分の孫を天皇にしようとした持統天皇は天武天皇の死後2年も経ってから「中継ぎ」として自ら天皇となり、更に自分の目の黒い内にこの男子の孫を天皇(文武天皇)にして、自分は後見人として「太上天皇」という立場を新設して政治の実権を握り続けたと推測されています。
その後誕生した太上天皇は、すべて女性(元明天皇、元正天皇)。男性初の太上天皇が、奈良の大仏で有名すぎる聖武天皇です。聖武天皇が何で太上天皇になろうとしたかという経緯は拙ブログのこの辺で書いております。
ちなみにもうひとつ興味深い話ですが、聖武天皇の娘・孝謙天皇は今のところ日本史上唯一の女性皇太子から天皇になった女性ですが、一度譲位して淳仁天皇に跡を譲った物の、史料(『続日本紀』)を見る限りでは「太上天皇」と言われた形跡がないのです。何かこの辺は色々事情がありそうなんですが、この辺を研究した論文とかも見たこと無いな(^^;)
この孝謙(称徳)天皇が亡くなった後は、光仁、桓武と以後は男性の天皇が江戸時代初頭まで続くわけですが、光仁と桓武は終生天皇位にあり、上皇になっていません。しかし、この桓武の跡を嗣いだ平城天皇は病気から突然譲位して上皇になってしまいます。その後は天皇の譲位は普通のこととなります。
特に摂関政治で藤原氏の勢力が巨大な物になると、若年、壮年の天皇が早々に退位させられることが頻発。
平安末期になり院政の時代になると、逆に天皇は適当なところで辞めて上皇になってやりたいほうだいやる状況が普通にヾ(^^;) ただ鎌倉時代以降は朝廷の権力が徐々に弱くなって上皇になってもやりたい放題やれなくなってくるわけですが…とくに持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)の系統が対立していた鎌倉後期には上皇が5人も同時に存在するという異常な状況になったことも。
そして、先述したように江戸時代後期の光格天皇が最後の上皇になります。
その後、江戸時代に天皇になった二人(仁孝天皇、孝明天皇)は譲位する前に亡くなったので上皇にはなってません。
明治時代には生前の譲位を禁止する法律が成立、法律上でも上皇は禁止
…になったのですが、平成になって高齢化社会が進み、今回の問題となったわけです。
今回は急なことだったので特別立法で何とか凌いだけど、この問題後々も起こるのは自明なんで、いずれは法律変えないといけないんでしょうね。
先日ようやく『装甲騎兵ボトムズ』再放送で最終回見終わったところなのに。
さて表題の話。
天皇陛下の“退職”がいよいよ本決まりのようですが
これまたかなり揉めて決まった称号「上皇」。
ご存じの方も多いかと思いますが、「上皇」が登場するのは実に200年ぶり(光格天皇が1817年に譲位して以来)とのこと。
古代にまで遡ると、そもそも天皇には譲位の習慣はなかったらしい。
『日本書紀』によれば、最初に譲位したと言うより無理矢理させられたのが皇極天皇。史上2人目の女帝でもあります。この人が譲位した原因というのが、蘇我蝦夷・入鹿親子がクーデターで殺害されたあの乙巳の変なのですが、『日本書紀』によればその後「上皇」とかそれに類するような称号を名乗った記録がない。
なおこの皇極天皇、後に斉明天皇として重祚(もう一回天皇になる)した第1号でもあるという、見ように寄れば非常に注目点の多い人物なんですが、この辺を重点的に研究した本とか論文とか管見では知らない(^^;)
その後、譲位を行ったのが持統天皇。史上3人目の女帝であり、そして記念すべき「上皇」第1号です。当時は「太上天皇」というのが正式名称でした。
この人についてはかなり研究も進んでいまして、この譲位+太上天皇号もかなり政略的+戦略的な目的を持って行われたのでは?というのが有力な説となっています。持統天皇は天武天皇の皇后でしたが、産んだ子供は男子一人(草壁皇子)。しかも自分に先だって死んでしまいます。草壁皇子には女子2人男子1人の子供がいました。ほかにも天武天皇の皇子が大勢健在の中、何とかして自分の孫を天皇にしようとした持統天皇は天武天皇の死後2年も経ってから「中継ぎ」として自ら天皇となり、更に自分の目の黒い内にこの男子の孫を天皇(文武天皇)にして、自分は後見人として「太上天皇」という立場を新設して政治の実権を握り続けたと推測されています。
その後誕生した太上天皇は、すべて女性(元明天皇、元正天皇)。男性初の太上天皇が、奈良の大仏で有名すぎる聖武天皇です。聖武天皇が何で太上天皇になろうとしたかという経緯は拙ブログのこの辺で書いております。
ちなみにもうひとつ興味深い話ですが、聖武天皇の娘・孝謙天皇は今のところ日本史上唯一の女性皇太子から天皇になった女性ですが、一度譲位して淳仁天皇に跡を譲った物の、史料(『続日本紀』)を見る限りでは「太上天皇」と言われた形跡がないのです。何かこの辺は色々事情がありそうなんですが、この辺を研究した論文とかも見たこと無いな(^^;)
この孝謙(称徳)天皇が亡くなった後は、光仁、桓武と以後は男性の天皇が江戸時代初頭まで続くわけですが、光仁と桓武は終生天皇位にあり、上皇になっていません。しかし、この桓武の跡を嗣いだ平城天皇は病気から突然譲位して上皇になってしまいます。その後は天皇の譲位は普通のこととなります。
特に摂関政治で藤原氏の勢力が巨大な物になると、若年、壮年の天皇が早々に退位させられることが頻発。
平安末期になり院政の時代になると、逆に天皇は適当なところで辞めて上皇になってやりたいほうだいやる状況が普通にヾ(^^;) ただ鎌倉時代以降は朝廷の権力が徐々に弱くなって上皇になってもやりたい放題やれなくなってくるわけですが…とくに持明院統(後の北朝)と大覚寺統(後の南朝)の系統が対立していた鎌倉後期には上皇が5人も同時に存在するという異常な状況になったことも。
そして、先述したように江戸時代後期の光格天皇が最後の上皇になります。
その後、江戸時代に天皇になった二人(仁孝天皇、孝明天皇)は譲位する前に亡くなったので上皇にはなってません。
明治時代には生前の譲位を禁止する法律が成立、法律上でも上皇は禁止
…になったのですが、平成になって高齢化社会が進み、今回の問題となったわけです。
今回は急なことだったので特別立法で何とか凌いだけど、この問題後々も起こるのは自明なんで、いずれは法律変えないといけないんでしょうね。
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