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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
調べ物をしているときに、偶然元国際日本文化センター教授で現静岡県知事の川勝平太氏が「藤原鎌足は百済の王子・余豊璋だ!」と言う話を『文藝春秋』2009年6月号のコラムで書いていたとか(○。○)いう恐ろしい話を知ってしまった…更にあの梅原猛氏の御墨付きまでもらっていたらしい…。
…川勝氏までそんなデンパに染まってしまうなんておいたわしや政治の世界って怖いわヾ(--;)



気を取り直して
前回の話はこちらです
ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。

※なお、20年以上前のデータのため、一部崩れたりする個所がありますが、訂正するのも面倒なのでこのまま再掲します。御了承下さい。


何故か天武朝に入ってからの物部麻呂は大出世します。
676年(天武5年)には遣新羅大使に任命され、681年(天武10年)に
は大乙上から小錦下にまで一気に出世したのです。
そして684年(天武13年)には「朝臣」の姓を賜り、この頃に「物部」か
ら「石上」に苗字を代えたようです。ちなみに、連姓氏族が「朝臣」の姓を賜
るのは破格の待遇で、このほかに元来「連」姓でこの時「朝臣」姓をもらった
のは天武天皇に后を二人送っている中臣(=藤原)氏だけです。
壬申の乱で大活躍した大伴氏に至っては、「朝臣」より格下の「宿禰」の姓し
か賜れませんでした。

このような石上麻呂の特例の待遇について、遠山美都男氏は
「ライバル・大友皇子の最期を見とった石上麻呂を、天武天皇は実は恐れてい
 たのではないか、そのために不相応なほどの官位を与えたのではないか」
としています。
また、「大友皇子の首を持参したことが大功と認められての出世ではないか」
という説もあります。
遠山説なら石上麻呂は「最後まで大友皇子に付き従った大忠臣」
後の説なら石上麻呂は「土壇場で大友皇子を裏切った逆臣」
となります。どっちなのか何とも判断しがたいのですが、こういった経歴は、
飛鳥・奈良時代の貴族の中ではかなり特殊で、石上麻呂はかなり微妙な立場に
立たされていたのではないか?ということは確実に言えます。
このような一風変わった経歴も他の貴族からそしりの対象になったかも知れま
せん。

石上麻呂の出世のスピードは持統天皇、文武天皇と時代が変わっても衰えるこ
とはなく、どんどん早くなっていき、704年には右大臣となります。
ところが、今まで見ていただいたら分かるように石上麻呂の実績といえば「大
友皇子の首を伊吹山まで持参した」という位です。そんな中で石上麻呂は「位
は高いけれど実権がない」という風に宙ぶらりんになっていったようです。

この頃、実際に権力を握っていたのは文武天皇の外戚で、持統天皇の信頼も厚
かった藤原不比等でした。偶然にも対蘇我氏で連合し、先に脱落した中臣氏の
後裔になります。
ついに708年には石上麻呂は最高位である左大臣にまで登りますが、同時に
藤原不比等も右大臣になります。しかし実質的に左大臣と右大臣の職責は同じ
であり、石上麻呂はその後藤原京の留守居官になるなど、実際は閑職に回され
る状態だったと考えられます。
このような状態に石上麻呂が満足していたとは思えませんが、何しろ今まで述
べてきたように、彼の経歴が経歴でしたので、彼を中心にして反藤原不比等勢
力が固まったとは、私にはとても考えられません。
そして藤原不比等は巧妙でした。不満を持っていると思われる彼を懐柔する作
戦に出たのです。
それは藤原不比等三男・宇合と石上麻呂の娘・国盛を結婚させるという物だっ
たのです!

(やっとヒロインを出したところで 続く^_^;)

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