拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介させて頂くのは、石原莞爾の敵ヾ(^^;)大谷敬二郎という人物による『昭和憲兵史』と言う本です。
※大谷がどれくらい石原莞爾を敵視していたかについては拙ブログのこの辺とか
またこの記事に紹介した本は、この『昭和憲兵史』を参考資料としている
『日本憲兵正史
』と言う本によると、大谷は満州事変時には奉天で憲兵を務めていました。この時にどうも石原莞爾や花谷正にかなり不快な目に遭わされたようで、その時から石原を個人的に敵視していたように思えます。
タイトルでも分かるように、この人は憲兵出身で、戦後は東京裁判により刑に服しますが、その後釈放されていわゆる「軍内幕暴露系」の作家になったという人です。ただ、悪名高い憲兵の「名誉回復」を図っておられたようで、その点記述には注意が必要かと思います。
ざっと読んだ限り、結構今田の関連記述は多かった。
ではまいる。
※大谷がどれくらい石原莞爾を敵視していたかについては拙ブログのこの辺とか
またこの記事に紹介した本は、この『昭和憲兵史』を参考資料としている
『日本憲兵正史
タイトルでも分かるように、この人は憲兵出身で、戦後は東京裁判により刑に服しますが、その後釈放されていわゆる「軍内幕暴露系」の作家になったという人です。ただ、悪名高い憲兵の「名誉回復」を図っておられたようで、その点記述には注意が必要かと思います。
ざっと読んだ限り、結構今田の関連記述は多かった。
ではまいる。
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前回はこちら。
今回は『秘録 板垣征四郎』から板垣本人の文章である「巣鴨日記」を紹介します。 ここに全く予測してなかったのですが、今田のことに関する記述が2箇所ありました。 ではまいる。
・山田氏:板垣の主任弁護人
・片倉:ご存じ片倉衷 証人としてばかりではなく実質的に板垣の弁護のために東奔西走したことは本人も『秘録板垣征四郎』などで語っているばかりでなく、「石原莞爾日記」にも登場する。
・寺田:よく分からなかった 誰か御教示お願いします<(_ _)>
・堀場:堀場一雄 陸軍士官学校36期の「三羽烏」(後2人は服部卓四郎と辻政信)、「三羽烏」の中では一番の真人間、たぶん。今田と戦争指導課で同僚だったことがある。
・建川:建川美次 満州事変時には参謀本部第一本部長で「止め男」だった…が、その頃から満州事変に干与していたという噂は絶えなかったようだ 東京裁判時には既に故人。
・石原中将:ご存じ石原莞爾 治療のために山形から東京に転院したら、待ってましたとばかりGHQに絞られたのは本人の日記ばかりでなく知人の回想にも頻出
・満大日記:関東軍の業務日誌、現在は防衛省防衛研究所所蔵
・原田熊雄日記:現題『西園寺公と政局
』 原田熊雄は男爵で、西園寺公望の筆頭秘書
・花谷正:ご存じ満州事変の花谷。ビッグマウス。
上記二点の板垣の記述は箇条書きになっているので流れが捕らえにくい部分があるのですが、推測してみるとだいたい以下のようなことかと考えます
以下、今田に直接関係ないこと 要点を箇条書きでいきます。
今回は『秘録 板垣征四郎』から板垣本人の文章である「巣鴨日記」を紹介します。 ここに全く予測してなかったのですが、今田のことに関する記述が2箇所ありました。 ではまいる。
(昭和21年)6月11日 山田氏来訪、補佐として佐々川知治氏選定決定の件並びに諸情報パンフレット「リットン報告に対する帝国意見書」を受領す。片倉証人承知のこと、寺田ノモンハン事件承知のこと、要すれば証人として立つこと、堀場支那事件纏めたること、満州事変に付き建川の行動、今田の関係なきこと、石原中将その他多数取調を受け居ること、田中隆吉も証人に立つこと(以下略)p.374<補足>
・山田氏:板垣の主任弁護人
・片倉:ご存じ片倉衷 証人としてばかりではなく実質的に板垣の弁護のために東奔西走したことは本人も『秘録板垣征四郎』などで語っているばかりでなく、「石原莞爾日記」にも登場する。
・寺田:よく分からなかった 誰か御教示お願いします<(_ _)>
・堀場:堀場一雄 陸軍士官学校36期の「三羽烏」(後2人は服部卓四郎と辻政信)、「三羽烏」の中では一番の真人間、たぶん。今田と戦争指導課で同僚だったことがある。
・建川:建川美次 満州事変時には参謀本部第一本部長で「止め男」だった…が、その頃から満州事変に干与していたという噂は絶えなかったようだ 東京裁判時には既に故人。
・石原中将:ご存じ石原莞爾 治療のために山形から東京に転院したら、待ってましたとばかりGHQに絞られたのは本人の日記ばかりでなく知人の回想にも頻出
(昭和22年)9月5日 (前略) 今後の態度決定要素。満大日記(8日すみ)。原田熊雄日記(8日すみ)。今田新太郎の件。花谷正の件(8日すみ)。(後略) p.434<補足>
・満大日記:関東軍の業務日誌、現在は防衛省防衛研究所所蔵
・原田熊雄日記:現題『西園寺公と政局
・花谷正:ご存じ満州事変の花谷。ビッグマウス。
上記二点の板垣の記述は箇条書きになっているので流れが捕らえにくい部分があるのですが、推測してみるとだいたい以下のようなことかと考えます
昭和21年6月11日 主任弁護士との打ち合わせで、以下のことを話し合った(1)補佐弁護人の決定(2)リットン報告関係の資料の受領(3)片倉衷が証人を了承してくれたこと(4)寺田という人物がノモンハン事件の件について了解してくれたこと(資料提出?)、場合によっては証人になってくれること(5)堀場一雄が支那事変についてまとめてくれたこと(6)満州事変時の建川美次の行動についての話(7)今田新太郎は(満州事変に)関係がないこと(8)石原莞爾他多数の人間が(満州事変の件で)取り調べを受けていること(9)田中隆吉も証人になること今田新太郎はこの時まだシンガポールで抑留の身の上でしたが、その時点で既に満州事変に関係がないと言われていたことが分かります。文の流れから見て「今田満州事変無関係説」を言ったのは板垣征四郎本人でしょう。今田をかばったと言うだけではなく、満州事変の実行犯だった今田が招致されようものなら、今田の性格から見て完全に真相を伏せることは恐らく無理でしょうし、その点からも今田無関係説を強く主張した物と思います。 ところが、板垣のこれほどの主張があったにもかかわらず、まだ今田に対する「疑い」は晴れていませんでした。昭和21年6月21日条にも出て来た田中隆吉が満州事変の今田干与説を強硬に主張していたからと思われます(拙ブログこちら参照)。そして1年以上経った翌年の9月5日、再び今田が話題に登場します。
昭和22年9月5日 今後の裁判の態度を決定する情報 (1)満大日記(9/8済)(2)原田日記(9/8済)、今田新太郎の件、花谷正の件(9/8済)この時には今田は復員し(昭和21年12月)、東京に戻っていました。さてこの時、板垣が今後の裁判戦略対策として、いろんな資料や証言者になりそうな人物とのすりあわせを行っていたことが伺えるのですが、9/5に項目をリストアップし、9/8までにはほとんど確認を終えているのに、今田にだけは確認を終えていなかったようです。そして、板垣の巣鴨日記にはその後二度と今田の名前が出なかったため、この後今田と連絡は取れたのかどうなったのか、全く分からないまま終了しています。
以下、今田に直接関係ないこと 要点を箇条書きでいきます。
今回紹介させて頂くのは、陸軍大臣にもなり、戦後、東京裁判で東条英機等と共に死刑となったA級戦犯の一人・板垣征四郎の回顧録『秘録 板垣征四郎』の紹介です。
さてこの本の装丁ですが、信州産の手漉き和紙に何かの葉っぱ(本物)がスキ込んであるという凝った物になってます…って、『秘録永田鉄山』と一緒かいな_| ̄|○ この装丁、信州出身の永田スペシャルだと思ってたのに…。
なお、芙蓉書房からは『秘録永田鉄山』『秘録板垣征四郎』そして以前紹介した『秘録石原莞爾』と秘録シリーズ(^^;)が3つ出版されましたが、何故か他の軍人については秘録シリーズは作成されなかったようです_(。_゜)/ そして、永田と板垣については関係者を中心とした刊行会によって作られましたが、石原については陸軍幼年学校と士官学校の同期であった横山臣平の回想という形になっています。
…脱線したので元に戻る。
この人は今まで拙ブログでも何回も登場しましたが、満州事変の首謀者の一人として今田とは非常に関連のある人物でもあります。が、今までいろんな本とか読んだ限りでは、石原莞爾と違ってそれほど親しいとは見えないわけです。また、今田の親友・中江丑吉の元には多田駿や岡本寧次ら様々な軍人が出入りしていたことが知られていますが、板垣は一時支那派遣軍総司令官も務めていたにもかかわらず、中江の所を訪問した形跡がありません(※ただし若い頃の板垣は、中江を囲む勉強会に参加していた(中江丑吉年表など))。
果たして今田と板垣の関係はどの程度の物だったのか?以前から気になっていて、板垣征四郎の関連本と言えばどうもこれくらいしかないようで(^^;)入手してみました。
ざっと一読した程度ですが、今田にかかわる記述はかなり多かったです。特に興味深かったのは巻末に参考資料として付された「巣鴨日記」。タイトルから分かるように、東京裁判中に収監されていた巣鴨プリズンで判決のその日まで書き綴られた日誌です。と言う事で、紹介箇所がかなり多い為、回想録などの紹介を今回(前編)、巣鴨日記の紹介を次回(後編)で行う予定です。
まずご存じの方も多いですが、板垣征四郎の人となりをざっと
・1885年(明治18年)1月21日、岩手県生まれ 生家は南部藩で漢学者を代々勤めた名門だったが、南部藩が奥羽越列藩同盟に参加した為に敗者となり、以後は不遇をかこっていた。(p.88)
・7人兄弟の三男。(p.88)「征四郎」だから四男だと思ったのだが違うのね(^^;) ※最も後掲の写真の注記から見て、上にもう一人兄がいた可能性もあるが…
・兄弟は長兄・賛三→工学博士、南方で司政長官も務める、キリスト教の運動にも深く関わる 次兄・政参→医学博士、九州大学教授、久留米大学創設者の一人 弟・盛→海軍少将 姉・ふさ→盛岡農学校校長・藤根春吉の妻(p.88) なかなかのエリート一家
三男政参、次男賛三、そして征四郎の学生時代
賛三夫妻と征四郎夫妻
・征四郎を産んだ直後に母は死亡、更に公務員であった父は転勤が多く、そのため祖父母によって養育された。祖父は征四郎に漢学の素読を仕込むなど漢学一家に相応しい教育を行った(p.88)
・1897年(明治30年)、盛岡中学入学 三年上に米内光政、一年上に金田一京助、田子一民(衆議院議長)、郷古潔(三菱重工業社長)、及川古四郎(海軍大臣)、野村胡堂(「銭形平次」の原作者)、一年下に石川啄木がいるというそうそうたるメンバーの中で成長する。(p.89)このうち何故か米内とは晩年まで仲良かったそうなのだが、他のメンバーとはそんなに交流はなかったらしい。後述するように陸軍幼年学校に転校してしまったからだろうな。
同窓会にて。向かって右が米内光政、左端が板垣
・1899年(明治32年)9月、仙台陸軍幼年学校に合格。この時に板垣の生徒監だったのが後に壮烈な戦死をして”軍神”といわれた大越兼吉で、後に板垣はこの大越の娘と結婚することになった(p.89)。
・1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校卒業(陸士16期)。同期にはあの永田鉄山とか小畑敏四郎がいたが、成績が芳しくなかったらしい_(。_゜)/板垣は永田とか小畑に比べて目立たない存在だったようだ といっても20番台ならそんなに酷くもないのではとも思うが…(p.89)
真ん中が永田鉄山、汽車に乗っているのが板垣
・成績はいまいちだったが、どうもそれを気にしている形跡はなかったらしい。陸軍大学校にも同期生の中ではかなり遅く合格(1913年(大正2年))したが、妻には「陸大に入ったのは出世の為ではなくて、支那問題で口がきける立場になる為だよ~」と言ってたとか(p.90)
・日露戦争では重傷を負うも一歩も後退しない活躍で、「連隊の華」(by今村均)といわれてたとか
・その後は希望かない主に中国関係に従事。
1906年(明治39年)1月~ 天津駐屯歩兵連隊勤務
1917年(大正6年)8月~ 参謀本部付(雲南省昆明派遣)
1919年(大正8年)7月~ 漢口派遣隊参謀
1922年(大正11年)~ 参謀本部兵要地誌班長兼陸軍大学兵学教官
1924年(大正13年)6月~ 北京大使館付武官補佐官
1928年(昭和3年)~ 津歩兵第33連隊長(奉天勤務)
1929年(昭和4年)5月~ 関東軍高級参謀
以後の話は有名+後述するので略
大正8年の漢口勤務時代に石原莞爾も漢口勤務となり、この時に板垣と石原が盟友になったというのはかなり有名な話で、昭和4年に板垣を関東軍高級参謀に押したのは石原ではないかという説もあるくらい。
漢口時代の板垣(中)と石原莞爾(左)
大正11年からの陸軍大学教官時代には今田を教えていた可能性がある(稲田正純の証言より(p.222))。また、大正13年に北京大使館勤めをしていたときの部下に鈴木貞一がおり、この頃中江丑吉を囲む勉強会に参加していたことがある。
・若いときは美少年と言われたそうで、あの今村均も「花のような容姿」とか言ってるが…判断はみなさんにお任せしたい。→
右上:幼年学校時代 右下:士官学校時代
・板垣の性格について、多くの人の回想に共通するのは「一見ぼーっとしているが部下に対する包容力があり、決断力がある」 鈴木貞一曰く「板垣は一言で言うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。智者から見ると愚物だと思われるであろう。(中略)彼には智者を付けると素晴らしい働きをする。その智者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽悴する徳を備えていたと言うべきである。反面彼は、その智者たる部下のため誤られることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自ら取るためその行動が矛盾して受け取られることがある。」(p.264)
・家族:妻・喜久子(先述したが幼年学校の教官・大越兼吉の娘)、長男・裕(早世)、次男・正(シベリア抑留で辛酸をなめる、帰国後参議院議員)、三男・征夫、長女・喜世子、次女・美津子
・軍人達との関係:皇道派のボス・荒木貞夫は板垣が士官候補生時代に訓育を担当していた関係で巣鴨プリズンでも本を貸し借りするなど終始仲は良かった 石原莞爾は仙台幼年学校の後輩だが「天才」と言って尊敬していた(その割に莞爾の足を引っ張ったりもしていますが…) 東条英機との関係は微妙、巣鴨プリズンで弁護士達への謝礼代わりにA級戦犯一同で揮毫をしたのだが、その時板垣が東条の揮毫を見て一言「東条さんも立派な肚が出来て、公判の時の陳述も極めて立派であった」 あと意外なところで辻政信のことをとっても買っていたらしい_| ̄|○この辺は後述するかも
漢学者一家の出身という点は今田や石原莞爾と同じですね(ただ石原家は幕末に当主が早世したりなどで漢学素養は殆ど受け継げなかったようですが)。また意外だったのは、非常にキリスト教に関係のある家庭で、兄2人はキリスト教信者、親族には牧師になった人物もいた(p.361)こと。
では今田の関連記述から先にまいる 「つづきはこちら」をクリックお願いします
さてこの本の装丁ですが、信州産の手漉き和紙に何かの葉っぱ(本物)がスキ込んであるという凝った物になってます…って、『秘録永田鉄山』と一緒かいな_| ̄|○ この装丁、信州出身の永田スペシャルだと思ってたのに…。
なお、芙蓉書房からは『秘録永田鉄山』『秘録板垣征四郎』そして以前紹介した『秘録石原莞爾』と秘録シリーズ(^^;)が3つ出版されましたが、何故か他の軍人については秘録シリーズは作成されなかったようです_(。_゜)/ そして、永田と板垣については関係者を中心とした刊行会によって作られましたが、石原については陸軍幼年学校と士官学校の同期であった横山臣平の回想という形になっています。
…脱線したので元に戻る。
この人は今まで拙ブログでも何回も登場しましたが、満州事変の首謀者の一人として今田とは非常に関連のある人物でもあります。が、今までいろんな本とか読んだ限りでは、石原莞爾と違ってそれほど親しいとは見えないわけです。また、今田の親友・中江丑吉の元には多田駿や岡本寧次ら様々な軍人が出入りしていたことが知られていますが、板垣は一時支那派遣軍総司令官も務めていたにもかかわらず、中江の所を訪問した形跡がありません(※ただし若い頃の板垣は、中江を囲む勉強会に参加していた(中江丑吉年表など))。
果たして今田と板垣の関係はどの程度の物だったのか?以前から気になっていて、板垣征四郎の関連本と言えばどうもこれくらいしかないようで(^^;)入手してみました。
ざっと一読した程度ですが、今田にかかわる記述はかなり多かったです。特に興味深かったのは巻末に参考資料として付された「巣鴨日記」。タイトルから分かるように、東京裁判中に収監されていた巣鴨プリズンで判決のその日まで書き綴られた日誌です。と言う事で、紹介箇所がかなり多い為、回想録などの紹介を今回(前編)、巣鴨日記の紹介を次回(後編)で行う予定です。
まずご存じの方も多いですが、板垣征四郎の人となりをざっと
・1885年(明治18年)1月21日、岩手県生まれ 生家は南部藩で漢学者を代々勤めた名門だったが、南部藩が奥羽越列藩同盟に参加した為に敗者となり、以後は不遇をかこっていた。(p.88)
・7人兄弟の三男。(p.88)「征四郎」だから四男だと思ったのだが違うのね(^^;) ※最も後掲の写真の注記から見て、上にもう一人兄がいた可能性もあるが…
・兄弟は長兄・賛三→工学博士、南方で司政長官も務める、キリスト教の運動にも深く関わる 次兄・政参→医学博士、九州大学教授、久留米大学創設者の一人 弟・盛→海軍少将 姉・ふさ→盛岡農学校校長・藤根春吉の妻(p.88) なかなかのエリート一家
・征四郎を産んだ直後に母は死亡、更に公務員であった父は転勤が多く、そのため祖父母によって養育された。祖父は征四郎に漢学の素読を仕込むなど漢学一家に相応しい教育を行った(p.88)
・1897年(明治30年)、盛岡中学入学 三年上に米内光政、一年上に金田一京助、田子一民(衆議院議長)、郷古潔(三菱重工業社長)、及川古四郎(海軍大臣)、野村胡堂(「銭形平次」の原作者)、一年下に石川啄木がいるというそうそうたるメンバーの中で成長する。(p.89)このうち何故か米内とは晩年まで仲良かったそうなのだが、他のメンバーとはそんなに交流はなかったらしい。後述するように陸軍幼年学校に転校してしまったからだろうな。
・1899年(明治32年)9月、仙台陸軍幼年学校に合格。この時に板垣の生徒監だったのが後に壮烈な戦死をして”軍神”といわれた大越兼吉で、後に板垣はこの大越の娘と結婚することになった(p.89)。
・1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校卒業(陸士16期)。同期にはあの永田鉄山とか小畑敏四郎がいたが、成績が芳しくなかったらしい_(。_゜)/板垣は永田とか小畑に比べて目立たない存在だったようだ といっても20番台ならそんなに酷くもないのではとも思うが…(p.89)
・成績はいまいちだったが、どうもそれを気にしている形跡はなかったらしい。陸軍大学校にも同期生の中ではかなり遅く合格(1913年(大正2年))したが、妻には「陸大に入ったのは出世の為ではなくて、支那問題で口がきける立場になる為だよ~」と言ってたとか(p.90)
・日露戦争では重傷を負うも一歩も後退しない活躍で、「連隊の華」(by今村均)といわれてたとか
・その後は希望かない主に中国関係に従事。
1906年(明治39年)1月~ 天津駐屯歩兵連隊勤務
1917年(大正6年)8月~ 参謀本部付(雲南省昆明派遣)
1919年(大正8年)7月~ 漢口派遣隊参謀
1922年(大正11年)~ 参謀本部兵要地誌班長兼陸軍大学兵学教官
1924年(大正13年)6月~ 北京大使館付武官補佐官
1928年(昭和3年)~ 津歩兵第33連隊長(奉天勤務)
1929年(昭和4年)5月~ 関東軍高級参謀
以後の話は有名+後述するので略
大正8年の漢口勤務時代に石原莞爾も漢口勤務となり、この時に板垣と石原が盟友になったというのはかなり有名な話で、昭和4年に板垣を関東軍高級参謀に押したのは石原ではないかという説もあるくらい。
大正11年からの陸軍大学教官時代には今田を教えていた可能性がある(稲田正純の証言より(p.222))。また、大正13年に北京大使館勤めをしていたときの部下に鈴木貞一がおり、この頃中江丑吉を囲む勉強会に参加していたことがある。
・若いときは美少年と言われたそうで、あの今村均も「花のような容姿」とか言ってるが…判断はみなさんにお任せしたい。→
・板垣の性格について、多くの人の回想に共通するのは「一見ぼーっとしているが部下に対する包容力があり、決断力がある」 鈴木貞一曰く「板垣は一言で言うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。智者から見ると愚物だと思われるであろう。(中略)彼には智者を付けると素晴らしい働きをする。その智者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽悴する徳を備えていたと言うべきである。反面彼は、その智者たる部下のため誤られることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自ら取るためその行動が矛盾して受け取られることがある。」(p.264)
・家族:妻・喜久子(先述したが幼年学校の教官・大越兼吉の娘)、長男・裕(早世)、次男・正(シベリア抑留で辛酸をなめる、帰国後参議院議員)、三男・征夫、長女・喜世子、次女・美津子
・軍人達との関係:皇道派のボス・荒木貞夫は板垣が士官候補生時代に訓育を担当していた関係で巣鴨プリズンでも本を貸し借りするなど終始仲は良かった 石原莞爾は仙台幼年学校の後輩だが「天才」と言って尊敬していた(その割に莞爾の足を引っ張ったりもしていますが…) 東条英機との関係は微妙、巣鴨プリズンで弁護士達への謝礼代わりにA級戦犯一同で揮毫をしたのだが、その時板垣が東条の揮毫を見て一言「東条さんも立派な肚が出来て、公判の時の陳述も極めて立派であった」 あと意外なところで辻政信のことをとっても買っていたらしい_| ̄|○この辺は後述するかも
漢学者一家の出身という点は今田や石原莞爾と同じですね(ただ石原家は幕末に当主が早世したりなどで漢学素養は殆ど受け継げなかったようですが)。また意外だったのは、非常にキリスト教に関係のある家庭で、兄2人はキリスト教信者、親族には牧師になった人物もいた(p.361)こと。
では今田の関連記述から先にまいる 「つづきはこちら」をクリックお願いします
この4月からはじまったNHK朝の連ドラ『花子とアン』の視聴率があの『ごちそうさま』や『あまちゃん』も凌駕する勢いらしい。
さて、この柳原白蓮に大昔すこ~しだけ興味があってちょっとだけ調べたことがある。一見恵まれた環境に育った…様に見えて、実は複雑な環境に成長したため、その結果2回目の結婚途中での不倫駆け落ちや戦後に社会運動に足を突っ込むことになっていったように思われる。
が、『花子とアン』の放送をきっかけに久しぶりにwikipedia「柳原白蓮」を見てみると、晩年のある重要な出来事がない!さっくり削除されている(○。○)
その出来事とは
「正田美智子(現美智子皇后陛下)と皇太子殿下(今の天皇陛下)との間に縁談が持ち上がったとき、松平信子(鍋島直大侯爵の娘で外交官・松平恒雄(会津松平家出身)の妻、秩父宮妃勢津子の母)と共闘してこの縁談をぶっつぶそうとした!」
…ことである。⊂(。Д。⊂⌒`つ
このとき、胡散臭い右翼団体による街宣とかまで使って嫌がらせをしたらしい…右翼を使うのを提案したのが松平信子だったのか柳原白蓮だったのか、はたまた別人だったかまでは調べてないので不明だが、柳原白蓮の最後の夫・宮崎龍介の父だった宮崎滔天は頭山満(今田新太郎の父の同志であった)らとならぶ戦前の大アジア運動の大物の1人であった。大アジア運動にかかわった人は戦後「右翼」と呼ばれた人が多く、なので白蓮つながりで右翼まで巻き込んだ「美智子妃反対運動」が盛り上がった可能性は否定できない。
この出来事はwikipedia「柳原白蓮」からは消されてしまったが、「松平信子」項にはしっかり明記されており、しかも証言もあることがはっきりしている。その証言者というのが、よりによって白蓮の甥で昭和天皇の侍従だった入江相政(『入江相政日記』にでてくるそうだ)。事実と見て間違いないだろう。
ところで戦後の白蓮だが、長男を戦死させたこともあって反戦女性団体のリーダーともなり、ある種左翼のリーダーとも見られていた。そんな彼女のこの行動が周囲にいた人を呆れさせたのは事実で、戦前から白蓮と親しかった白州正子はその1人である。
「華族制に痛めつけられたかわいそうな女性」というのが多分一般的な柳原白蓮の評価だと思うのだが、まあ、実際はそうでも無くって「私は華族様よ!!!」…という誇りの方が強かった女性だったんでしょうな>白蓮 まあイメージ崩れるけどヾ(^^;)いいじゃないだってにんげんだもの(byみつを)
だが
「イメージ崩れる」のがひじょ~に都合の悪い方がいらっしゃるようで、その方がwikipediaの当該の既述をせっせと削除されているようです。
削除した版
削除したIPの検索結果は
※この版でも当該の既述を削除しているが、やはりIP(122.131.89.225)は福岡県の光フレッツ。
<今回の教訓>
歴史の真実を正視する心構えは大事だぞ
自分の思ったイメージだけを世間に広めようとするのは単なるファンタジーだぞ
<花子とアン>視聴率24.6%で番組最高を更新 3週連続で「ごちそうさん」超えさて、この"花子"が『赤毛のアン』を最初に日本語訳した村岡花子(1893年~1963年)と言う実在の人物であるのはもう常識だと思うのだが、この花子の友人として出てくる華族令嬢”葉山蓮子”も実在の人物がモデルらしい。その元ネタとは村岡花子より多分有名な(失礼)歌人・柳原白蓮である。
まんたんウェブ 4月21日(月)10時12分配信
女優の吉高由里子さんが主演を務めるNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「花子とアン」の18日の平均視聴率が24.6%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録し、番組の最高視聴率を更新したことが21日、分かった。また第3週「初恋パルピテーション!」(14~19日放送)の期間平均視聴率は22.0%(関東地区、ビデオリサーチ調べから算出)を記録したことも同日、分かった。高視聴率を記録した「ごちそうさん」を3週連続で超えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140421-00000001-mantan-ent
さて、この柳原白蓮に大昔すこ~しだけ興味があってちょっとだけ調べたことがある。一見恵まれた環境に育った…様に見えて、実は複雑な環境に成長したため、その結果2回目の結婚途中での不倫駆け落ちや戦後に社会運動に足を突っ込むことになっていったように思われる。
が、『花子とアン』の放送をきっかけに久しぶりにwikipedia「柳原白蓮」を見てみると、晩年のある重要な出来事がない!さっくり削除されている(○。○)
その出来事とは
「正田美智子(現美智子皇后陛下)と皇太子殿下(今の天皇陛下)との間に縁談が持ち上がったとき、松平信子(鍋島直大侯爵の娘で外交官・松平恒雄(会津松平家出身)の妻、秩父宮妃勢津子の母)と共闘してこの縁談をぶっつぶそうとした!」
…ことである。⊂(。Д。⊂⌒`つ
このとき、胡散臭い右翼団体による街宣とかまで使って嫌がらせをしたらしい…右翼を使うのを提案したのが松平信子だったのか柳原白蓮だったのか、はたまた別人だったかまでは調べてないので不明だが、柳原白蓮の最後の夫・宮崎龍介の父だった宮崎滔天は頭山満(今田新太郎の父の同志であった)らとならぶ戦前の大アジア運動の大物の1人であった。大アジア運動にかかわった人は戦後「右翼」と呼ばれた人が多く、なので白蓮つながりで右翼まで巻き込んだ「美智子妃反対運動」が盛り上がった可能性は否定できない。
この出来事はwikipedia「柳原白蓮」からは消されてしまったが、「松平信子」項にはしっかり明記されており、しかも証言もあることがはっきりしている。その証言者というのが、よりによって白蓮の甥で昭和天皇の侍従だった入江相政(『入江相政日記』にでてくるそうだ)。事実と見て間違いないだろう。
ところで戦後の白蓮だが、長男を戦死させたこともあって反戦女性団体のリーダーともなり、ある種左翼のリーダーとも見られていた。そんな彼女のこの行動が周囲にいた人を呆れさせたのは事実で、戦前から白蓮と親しかった白州正子はその1人である。
「華族制に痛めつけられたかわいそうな女性」というのが多分一般的な柳原白蓮の評価だと思うのだが、まあ、実際はそうでも無くって「私は華族様よ!!!」…という誇りの方が強かった女性だったんでしょうな>白蓮 まあイメージ崩れるけどヾ(^^;)いいじゃないだってにんげんだもの(byみつを)
だが
「イメージ崩れる」のがひじょ~に都合の悪い方がいらっしゃるようで、その方がwikipediaの当該の既述をせっせと削除されているようです。
削除した版
削除したIPの検索結果は
IPアドレス 218.227.105.7福岡県は柳原白蓮の2回目の婚家先で、記念館もあるようですが、まさか、ねえ(^^;)
ホスト名 FLH1Agb007.fko.mesh.ad.jp
IPアドレス割当国 日本 ( jp )
市外局番 該当なし
接続回線 光
都道府県 福岡県
http://www.iphiroba.jp/ip.php
※この版でも当該の既述を削除しているが、やはりIP(122.131.89.225)は福岡県の光フレッツ。
<今回の教訓>
歴史の真実を正視する心構えは大事だぞ
自分の思ったイメージだけを世間に広めようとするのは単なるファンタジーだぞ
拙ブログ関連エントリはこちら
表題のシリーズには興味があるのだが、なかなか読めず、今回借りた『永田鉄山』が初めて。
…今田さんやってなかったら、わざわざこの人から入手しなかったと思う(^^;)たぶん他の人のを入手していたと
さて
巻末に今後のラインアップがのっていたのだがなかなか興味深い。
・卑弥呼をあの古田武彦氏が担当しているらしい。ちなみにまだ未刊。更にちなみに、タイトルは「俾弥呼」。ついでに「ひみこ」と呼ばず「ひみか」と言うそうだ。それにしても古田氏まだ生きてたのかヾ(--;)
・斉明天皇、天武天皇、持統天皇はラインアップされているが、天智天皇(斉明の息子、天武の兄、持統の父)は入っていなかった
・同様に藤原鎌足はラインアップされてなかったが息子の藤原不比等はラインアップされていた(ちなみに担当予定は荒木敏夫氏)。私の記憶では最初の不比等の評伝は朝日選書の上田正昭氏による物だが、その後書きには「父に比べて無名」とされていた。それが今では朝日選書版、人物叢書版(ちなみに著者は高島正人氏),それにこのミネルヴァ版も出るとは。隔世の感。なお私は朝日選書も人物叢書も持ってたりするかくれ不比等マニアかも知れないヾ(^^;)
・私の高校時代の恩師が担当する物がある(○。○) ※ちなみにどれかはないしょw
・島津義久/義弘がラインアップされていた 義弘の伝記は山ほど出ているが評伝ではなく小説レベルだし、有名な『島津義弘の賭け』は義弘前半生がどうでもいいレベルだしヾ(^^;)、義久に関しては既に桐野作人氏『島津義久』があるが、これも体裁は小説。つまり今回のミネルヴァは義久/義弘の評伝としては史上初めての物かも知れない。ちなみに担当予定は福島金治氏。期待して待ちます。
・西郷隆盛がラインアップされてなかった… ※ちなみに大久保利通はあり。大山巌は無し。
・何と石原莞爾がラインアップされていた⊂(。Д。⊂⌒`つ ちなみに担当は『キメラ―満洲国の肖像
』の著者でもある山室信一氏なので莞爾マニアにはかなりきつい内容になることが予想されます。個人的には『石原莞爾―生涯とその時代
』が既にあるのでこれ必要あるのかなという気もヾ(--;)
・北垣国道、田辺朔郎という地味な人物がラインアップされているのは、ミネルヴァが京都の会社だからでしょう。
・現代編を見ると竹下登とか美空ひばりとか最近生きてた人も一杯いる。この人等ももう歴史の向こうの人なのね。同時代人としては(^^;)ショック。
総じて見ると古代、中世が意外に少なくて近現代の人物が非常に多い印象です。
よく比較される老舗シリーズ「人物叢書」(吉川弘文館)と比較すると面白いかも。
表題のシリーズには興味があるのだが、なかなか読めず、今回借りた『永田鉄山』が初めて。
…今田さんやってなかったら、わざわざこの人から入手しなかったと思う(^^;)たぶん他の人のを入手していたと
さて
巻末に今後のラインアップがのっていたのだがなかなか興味深い。
・卑弥呼をあの古田武彦氏が担当しているらしい。ちなみにまだ未刊。更にちなみに、タイトルは「俾弥呼」。ついでに「ひみこ」と呼ばず「ひみか」と言うそうだ。それにしても古田氏まだ生きてたのかヾ(--;)
・斉明天皇、天武天皇、持統天皇はラインアップされているが、天智天皇(斉明の息子、天武の兄、持統の父)は入っていなかった
・同様に藤原鎌足はラインアップされてなかったが息子の藤原不比等はラインアップされていた(ちなみに担当予定は荒木敏夫氏)。私の記憶では最初の不比等の評伝は朝日選書の上田正昭氏による物だが、その後書きには「父に比べて無名」とされていた。それが今では朝日選書版、人物叢書版(ちなみに著者は高島正人氏),それにこのミネルヴァ版も出るとは。隔世の感。なお私は朝日選書も人物叢書も持ってたりするかくれ不比等マニアかも知れないヾ(^^;)
・私の高校時代の恩師が担当する物がある(○。○) ※ちなみにどれかはないしょw
・島津義久/義弘がラインアップされていた 義弘の伝記は山ほど出ているが評伝ではなく小説レベルだし、有名な『島津義弘の賭け』は義弘前半生がどうでもいいレベルだしヾ(^^;)、義久に関しては既に桐野作人氏『島津義久』があるが、これも体裁は小説。つまり今回のミネルヴァは義久/義弘の評伝としては史上初めての物かも知れない。ちなみに担当予定は福島金治氏。期待して待ちます。
・西郷隆盛がラインアップされてなかった… ※ちなみに大久保利通はあり。大山巌は無し。
・何と石原莞爾がラインアップされていた⊂(。Д。⊂⌒`つ ちなみに担当は『キメラ―満洲国の肖像
・北垣国道、田辺朔郎という地味な人物がラインアップされているのは、ミネルヴァが京都の会社だからでしょう。
・現代編を見ると竹下登とか美空ひばりとか最近生きてた人も一杯いる。この人等ももう歴史の向こうの人なのね。同時代人としては(^^;)ショック。
総じて見ると古代、中世が意外に少なくて近現代の人物が非常に多い印象です。
よく比較される老舗シリーズ「人物叢書」(吉川弘文館)と比較すると面白いかも。

