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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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先日実家で『Precious』と言う雑誌を読んできたのだが、そこに小沢征良さんという人がおばあさんの思い出を書いていたのだな。小沢征良さんと言えば俳優・小沢征悦の姉で父はあの小澤征爾
つまり、祖父は満州建国に関わった満州青年同盟の代表の1人だった小沢開作。
超間接的にいまこのブログでやってるネタと関係がある人なのだ(^^;)
さて、小沢征良のおばあさんというのは、つまりは小沢開作夫人と言うことで、一体どんな女性だったのかというと
「孫にはビーフストロガノフとかのロシア料理を作って、ロシアの昔話を語って聞かせ、そして普段着ている服はシャネルのスーツだった」
…そうである。恐れ入りました。



では本題。
「永田鉄山」といういかめしい名前に覚えがある人は、日本近代史にかなり詳しい人だと思う。
実は戦前は陸軍の大物としてかなり有名だった人らしい。
ところが、2.26事件の直前に皇道派と「統制派」の対立の中で「統制派」の大ボスと見られた永田は、何と勤務中に他の陸軍将校に暗殺されてしまうというトンデモナイ最期を迎えてしまう。
戦後は忘れ去られた存在になっていたように感じられる。「統制派」の首領と言われていたことや、あの東条英機が慕っていたことがマイナスイメージになったように思われる。

何でこの人を調べようとしたかというと、
・今田も「統制派」扱いされてたからw
・もしかしたら陸軍大学の教官として今田を教えていたかも?という可能性が出て来たから
です。

ところが、実際調べはじめて見るとたかだか80年前に死んだ人の割にはかなり資料の少ない人なのですな。しかし近年『永田鉄山: 平和維持は軍人の最大責務なり (ミネルヴァ日本評伝選)』(森靖夫著)という超一般向け入手しやすい本としてこの人の伝記が出たことで、情報を簡単に入手できるようになりました。(しかしよくこんなどマイナーな人物をラインアップした物だ>ミネルヴァ) それによると、資料が少ない理由は「戦争による空襲で日記や書簡などの殆どを灰にしてしまった」これらしい。
この本と、後輩・友人達による回想本『秘録永田鉄山 (1972年)』の2冊から永田鉄山と今田の関係を探ってみたいと思います。

先ず、永田鉄山の人となり
・長野県出身。長野県出身の軍人って何か印象が薄い…とおもっていたが、「硫黄島からの手紙 」の栗林中将と今田の同期・今井武夫は長野県出身でした。
・永田家は代々御典医という家柄で、鉄山の父も医者。裕福な家庭に育つ…と言いたいのだが、鉄山が小学生の時父が急死。以後はそれこそ赤貧洗う状況だったようです…
・父の遺言が「軍人になって御国にご恩返ししろ」そのため、異母兄や知り合いを頼って何とか中学に入学し、そこから陸軍幼年学校に入学。血のにじむような努力をしてトップに躍り出る。尚、同期にあの梅津美治郎(最後の参謀総長で石原莞爾の天敵)がおり、どうも梅津が学生時代の永田のライバルだったようです。
・陸軍士官学校の同期は小畑敏四郎、岡村寧次、そしてあの板垣征四郎も(○。○)。後に小畑・岡村とは因縁の友人となります。
・陸軍大学校を優等で卒業し、恩賜の軍刀を貰う。がこのときの首席がまた梅津美治郎。なお、梅津と永田の関係は調べたがよく分からない(森靖夫による)のが現状のようだ。
・その後は教育総監部に所属。石原莞爾本をいろいろ読んでいた限りでは参謀本部、陸軍省、教育総監部の中で教育総監部は一番日陰の部署のように思っていたのだが、永田は逆にここで頭角を現したみたい。
・陸大を優等で卒業した人へのボーナスであるドイツ留学で更に磨きを掛ける永田。ちなみに帰国は武藤章と同じくアメリカをわざわざ経由したらしい。どうもこの辺の感性が石原莞爾とはかなり違うような。
・教育総監部在籍時の功績が認められて、今度はデンマーク駐在武官に派遣!…ところが第一次世界大戦勃発中という微妙な時期だった為、永田は派遣先からシカトされるなど非常に冷遇されたそうです(つд`)このとき運良くスウェーデン担当の畑俊六武官が急に帰国することになり(畑の回想によると、妹が急死した為に兄・英太郎の尽力により帰国できたとのこと。最も畑はこの仕事はそもそも不本意だったらしい)その後釜に納まる。でもスウェーデンでもあまりいい扱いではなかったようだが… 『秘録永田鉄山』p.319~320
・その後今度はスイス駐在武官に転じる。この時、ロシア革命勃発の煽りでドイツに避難していた小畑敏四郎や岡村寧次らの同期と再会、あの「バーデンバーテンの誓い」を結ぶこととなります。
・帰国後は順調に出世、特に陸軍省の役職を歴任する
・満州事変時には陸軍省所属。永田が事前に満州事変を知っていたかどうかについては未だに定説がないようだ(森靖夫氏は知らなかった説)。
・その後、陸軍内で一大異変があり、荒木貞夫・真崎甚三郎に代表される「皇道派」が中心を握ることに。ただ、真崎に仲人をして貰うなど皇道派とも仲は悪くなかった永田は参謀本部第2部長に就任する。…これがこの後の悲劇の発端になるとは誰が予想しただろうか
・この時に親友だった小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)と絶交するまでの対立関係となり、小畑共々参謀本部を追い出されてしまう。周辺の回想では「対ソ連政策を巡っての対立が原因」とする物が大半だが、森靖夫氏は「小畑の永田に対する嫉妬」とする。
・この頃から陸軍内での派閥争いが激しくなり、陸軍の統制を重視する永田は、若手将校を重用する(=軍の上下関係の統制を軽視)皇道派とは対立するようになる、と言うか本人は対立する気がなくてもそういう風に周りから見られてしまったというか
・荒木貞夫が急病の為陸軍大臣を辞職すると、永田は陸軍省軍務局長となり後任の林銑十郎の補佐となる。が、その頃には荒木/真崎の皇道派に嫌気が差した陸軍の他の人々や官僚・政治家などが林・永田を中心として皇道派の追い出しを図ろうとする。これが益々永田を苦境に追い込むことに。
・上記の騒動の結果、皇道派の若手将校は永田を仇として付け狙うことになる
・永田もストレスが見事に胃にあらわれ、晩年は暗殺直前まで医者がよいが欠かせなかった。なお永田の主治医は真鍋嘉一郎(東京帝大教授)(『永田鉄山』p.262)。真鍋は後に石原莞爾の主治医にもなった。
・昭和10年8月12日、勤務中の永田は乱入してきた将校に滅多切りにされるという最期を迎えたのであった…ちなみに暗殺犯・相沢三郎大佐は皇道派には珍しい中堅クラスの人物で、若手将校に感化された人物だったという
・家族構成は妻(先妻と後妻)、男の子3人に女の子2人。先妻は永田が中学入学時に学資など援助した人物の娘だったという。その先妻は病弱でしかも弱視だったらしい。その先妻死後に再婚するが、このときに座り仲人をしたのが先述の通り真崎甚三郎だった。
・先述したように名家の出身であったことからうかがえるが親戚も長野で功績を成した人が多く、信飛新聞社社主、小川鉄道大臣の実家、養命酒本家などそうそうたるメンバー。『秘録永田鉄山』p。394 なお父方の伯父に当たる守屋玄医は本業は医者であったにも拘わらず、明治維新の際には奈良県の十津川までいって勤王志士として大暴れしたという人物だったらしい。『秘録永田鉄山』p.299
・交友関係としては先述の小畑敏四郎、岡村寧次は非常に有名だが、実は岩波書店の創業者・岩波恒雄は尋常小学校以来の親友だったそうだ。これは意外な接点だった。『秘録永田鉄山』p.391他
・家庭観は非常にクラシック。欧米留学から帰ってきた親戚に対して「日本女性に参政権は必要ない、夫婦が相和してたらあんなもんはいらない、ヨーロッパでも最も進歩した国のスイスでも見て見ろ婦人参政権はないだろ、日本が強いのは日本の女性がいいのと家族制度がよいからだ」と延々と講義したそうだ(『秘録永田鉄山』p.387) この辺は石原莞爾とも似ているかも。 
・かたぶつのように思われがちな永田だが、酒と煙草は好物だったらしいw 『秘録永田鉄山』p.393
・趣味は「園芸」。といっても勿論イングリッシュガーデニングではないしヾ(--;)盆栽のようなちんまい物でもない。永田の園芸は大胆に庭の木によじ登り自ら選定をこなすこと。永田はリアル「天才バカボンのパパ」だった。ただ、男の家事によく言われる「やることは芸術的だが片付けが出来ない」典型だったようで、永田が庭仕事をした後、家族は夜まで後片付けに追われて最悪だったとか



では、『秘録・永田鉄山』から。昭和47年初版の本ですが、装丁がかなり凝っています。永田鉄山の郷里が長野県であることから、信州松崎和紙工業の特スキ和紙が使用されており、紅葉がスキ込まれているという。
軍人関係の本でこんな表装凝ってるのあまりないんじゃないんだろうか。

さて、これに思いがけない新資料が載っていました。何と今田の親友であった高嶋辰彦が回想を載せていたのです。
 「高嶋辰彦氏(日本史を動かした永田事件)」(第7章「永田鉄山小伝」(永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会編)より)p.422~425
やや長文なので、要点のみ抜粋すると
大正13,4年頃に永田鉄山(軍事課兼陸大教官)の講義を受けたことがある。講義は計10回ほどだったが、最後に永田は高嶋に陸軍省への勤務を強く勧めたらしい。その後、高嶋は陸大卒業後僅か一年にして陸軍省勤務になった。
・高嶋は昭和4~昭和7にドイツに留学、帰国後小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)に挨拶に行ったとき、小畑は高嶋に「ヨーロッパから見た日本の満州対策についての初見」を求めた。高嶋が「ソ満国境付近の軍備充実第一主義より満州国の中央政治の充実確立+民生の安定を第一にした方がよい」というと、たちまちにして小畑の機嫌が悪くなり、話の続きも打ち切られてしまった。怪訝なまま退室した後、今度は永田鉄山(当時参謀本部第2部長)に挨拶に行ってこの話をしたら、何と自分の見解はほぼ永田と一致していた上、この話題が小畑と永田の喧嘩の原因だったことも知った。
・後に「皇道派」とか「統制派」と言われる人が入り乱れる中でお勤めしたけど、そんなに対立の実感はなかったよ!対立と言ってもそれは方法手段の見解の対立であって政党とか学閥の対立というのとは違うよ
・永田暗殺時には軍事課課員(予算主任)で、永田の部屋の二部屋隣にいたが、異変に全く気が付かなかった。その後すぐに駆けつけたが、もう手遅れの状態だった…。
注目はやはり一番上の抜粋。高嶋と陸士・陸大で同級だった今田も永田鉄山の謦咳に接したことがある可能性が出て来ました。…あ、でも陸大って、今のに日本の大学同様単位制だったっけなヾ(--;)『陸軍大学校』『陸軍大学校〈続〉 (1978年)』ではその辺書いてなかったような気が…
あと、皇道派と統制派の対立をそんなに感じなかったと言うが、これは派閥対立が強くなった頃にはまだ留学中だったことや、誰とでも仲良くできる高嶋本人の人徳もあるかも知れないです(何しろあの気の強い今田の親友なのですからな>高嶋)。

後、明記はされてないのだが、これどうみても今田さんの話ですよね(^^;)
目黒茂臣氏の話
(前略)
ある時ある人が私に、ある将校が恩賜のピストルを直接行動準備の為に右翼の誰それに渡したとと教えてくれたことがある(恩賜のピストルとは、戸山学校で優等学生に恩賜品として授けるピストル)
(後略)
『秘録永田鉄山』p.172
目黒茂臣は元陸軍憲兵大佐。後の2.26事件のきっかけとなる陸軍士官学校事件に巻き込まれた人物である。拙ブログではこちらで一度登場。
それにしても、長い間「恩賜のピストルって何よ」というのが疑問だったのだが、そうかあ、陸軍戸山学校で貰う物なのね。

他、今田に関係あるようなこととか無いようなことも気になるところピックアップ
「つづきはこちら」をクリック

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島津○兄弟

串にささっただんご、つならんでだんご、
しょうゆ塗られただんご(実は餅!※注1)、島津兄弟
一番上は長男、一番下は4男、
あいだにはさまれ二男、島津兄弟
弟おもいの長男、兄さんおもいの四男、自分が一番二男、島津兄弟
こんど生まれてくるときも、ねがいはそろって同じ串
出来ればこんどは味噌あんの、たくさんついた味噌だんご(おもち)※注2。
ある日兄弟げんか、領地の事でけんか、すきまのあいただんご、でもすぐに仲直り。
今日はお城で昼寝、4人そろって昼寝、うっかりねすごし朝がきて…わ、包囲されている!(○。○)。
春になったら野ぶせり、秋になったらステガマリ、一年通して島津、島津兄弟!
しまづ、しまづ、しまづ、しまづ、島津兄弟、島津兄弟、島津兄弟、島津!※3
※1:つまり鹿児島名物両棒餅をイメージしているつもり、一応(^^;)
※2:両棒餅に醤油味、味噌味はあるがあんこ味はないらしいので
※3:「4兄弟」なのに3人目が抜けてるじゃないかというクレームは取りあえず受け付けますが、まあお約束と言うことでヾ(--;)



…「だんご3兄弟」のパクリ(^^;)もうネタが古いか。
実は今田さん関連で「暴走戦隊カントウジャー」と言うタイトルと石原莞爾レッド、板垣征四郎ブルー、花谷正イエロー、片倉衷パープル、今田新太郎グリーンというキャスティングまで決めたのですが、かなり洒落に成らないネタなので止めましたヾ(--;)

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大分前のエントリで「後でまた出すから」と言ってすっかり忘れていた物です(^^;)
こそこそと今頃出してみる(^^;)

まず、この田村真作と言う人物と、このコラム「石原莞爾の悲劇」については『文藝春秋』編集部側でこのような説明が付されている。
本稿の筆者は元朝日新聞記者、後に繆斌氏を通ずる和平工作に挺進し、膨大な回想記を完成したが、本編はその中の石原莞爾氏に関する物のみを編集部に於いて抜粋した物である。
当時の筆者の立場は、言うまでもなく東亜連盟論者であり、これは既に戦後の厳正なる批判の下に在り、その点、読者諸氏が十分に批判的に読まれることを希望したい。
かくも中国の民衆を愛した石原氏が、然らば何故に満州事変の口火を切り、日本軍の大陸進入の端を開いたか-本稿はこの点、何の回答も与えていない。
しかしながら、派閥抗争に終始した軍の内部に於いて石原氏の一派が、東条一派と鋭く対立しながら、それに圧倒されていく経路が生々と描かれ、所謂「道義は」と言われる軍の一部の物の思想的動きが、極めて鮮明にされている点に於いて、一つの戦争史の資料として興味ある物と信ずる。
確かに全体的に石原莞爾信者臭がすごくて、かなりつっこみ所がヾ(^^;)
こういうコラムの中で、今田新太郎はこのように登場している。
ではまいる。

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前の話 こちら


国立国会図書館のHPを別件で検索していたら、どうも同図書館に真崎甚三郎の未翻刻の日記が所蔵されているらしいことを知る。
※昭和20年以前は翻刻済み(近代日本史料選書

そういえば、高嶋辰彦が『追悼録』で今田の葬式に真崎が出ていたとか書いていたような…めんどくさそうなんだが取り寄せてみるか。

その結果



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今回紹介させて貰う資料は畑俊六元帥の日記です。
「…あれ?それならまえ紹介済みでは?」
と言うあなたは正しい。
今回紹介するのは「続・現代史資料 陸軍」(みすず書房)に所収された昭和4年~昭和20年(昭和11年頃のみ欠番)の日誌です。巻頭写真で見ると大学ノートに横書き(ちなみに左書き(!))です。細かくびっちりですが、本庄日記に比べるとまだ読めるヾ(^^;)
なおこの日記ですが、畑俊六本人が防衛庁に持参して寄贈したという逸話があるそうです(前書きより)

ではまいる。
今田の登場箇所は1箇所のみです…
昭和12年3月29日
(中略)
上京各方面の話を聞くに、東京も中央はまだ何となく明朗ならず、大臣は部内は強化せられたりと楽観しあるも必しも然からず、先般の宇垣内閣の流産の如き、石原、片倉、今田など数人が中心となりこれに河本大作辺りが大部金を蒔いて暗中飛躍を無し、上官に迫りて陸軍一般の反対空気を作りたるが如く、当時新聞紙上にありたる三長官会議にて推薦したる三人の候補者中、香月中将の如きは出ても差し支え無しと述べたりといふ(成富が聞きたる宇垣大将の話)こと、片倉が昨年11月頃より林大将担ぎ上げより平沼が広義国防を妨害する為林を立てたるが如き話もあり、皇道派、統制派といふものは表面無くなりたるも未だ其の暗流あること、又皇道派には人物無きも近来再び台頭したりといふが如きことを憲兵司令官より聞き、事変当時の関東軍参謀即事変参謀が即中堅組として策動したることを聞き、中央尚未だ明朗ならずの感を深くせり
(後略)
<補足>
・上京:この時畑俊六は台湾軍司令官
・宇垣内閣の流産:西園寺公望が「うるさい陸軍でも陸軍出身者なら,そして豪腕のこいつなら抑えられるだろう」と思って切り札として次期総理指名したのが宇垣一成大将だった…が、陸軍リストラの過去がある宇垣は実は陸軍内では非常に人気が無く、様々な妨害を食らって首相指名を泣く泣く返上するという前代未聞の事態となった。最も畑の日記見てたら政治に欲望ギラギラの宇垣さんはリストラ抜きでもかなり嫌われてたようですが(^^;) なお後述されるが、この妨害の主犯が石原莞爾に代表される"満州派"の将校である。
・石原:ご存じ石原莞爾
・片倉:ご存じ片倉衷
・河本大作:張作霖爆殺事件の主犯にして、多田駿の義兄。宇垣内閣の流産に関わっていたという証言はこれが初めてかも知れない。
・香月:香月清司陸軍中将。こちらのブログが非常に詳しい
・成富:調べたがよく分からない 誰か御教示お待ちしてます
・林大将:林銑十郎 宇垣の代わりにこの後首相になったがすぐに投げ出したのは有名かも。

たしかに畑の指摘にもあるが、宇垣内閣の流産で活躍したのは満州事変関係者、所謂"満州派"の将校なんだよね。今田もこの時が華だったかもしれん。
…ただ、この時今田がやってたことがどうかというと、多分余り宜しくないことのような気がしますがヾ(^^;)

残りの興味深い箇所は長いので要点のみ箇条書きで。
※畑俊六の紹介は前回エントリをご参照下さい。


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