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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
番組公式HPはこちら

…で
長屋王の変とか
藤原広嗣の乱とか
橘諸兄vs藤原仲麻呂の対立とか
光明皇后が聖武天皇に仏教を強く勧めたとか

肝心なことをはしょりすぎざんす

墾田永年私財法とか後から入れたので
全然意味が違う物にすり替わってるんですけど…墾田永年私財法が民衆の土地私有を認める法律、って歴史的意義が違いすぎると言うか大嘘だろこれ

大仏建立は聖武天皇と行基のファンタジック友情の物語じゃありませんってば>NHK
…まあ、聖武天皇が大仏建立を民衆の意思統合に使ったというのはそうだろうと認めますけどね

でもいつものことながらあきれるのは
どう見ても年代が違いすぎる『大化改新』とか『聖徳太子』のフィルムの使い回しはやめましょうよ
しかも平安初期が舞台の映画『空海』まで使い回してるし無理ありすぎるぞこれ

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島津といえば一番有名な殿様は、幕末の11代藩主・斉彬(なりあきら)だろう。もっともゲームヲタには義弘の方が有名かもしれないが。
中公新書『幕末の薩摩』では、調所広郷を持ち上げる(?)必要があるため、こき下ろされ過ぎ?(そして同じ著者による『国史大辞典』の「島津斉彬」の解説も他の島津氏関係者のそれと比べて、幕末の立て役者の一人とは思えないほどこき下ろされ気味である)の斉彬だが、同時代人による評価はやはりかなり高かったようだ。

斉彬公は、性質温恭忠順、賢明にして大度有所、水府老公・容堂如きとは同日に論じ難し。天下の英明なるは、実は近世最第一なるへし。尊王は勿論、幕府にもよく恭順をつくし、一家の事に困却しておれり。乍併、数年朋友として交れり。然れ共怒りたる顔色を見る事なし。実に英雄と称すへし。
( 『松平春嶽全集(1)』所収、『逸事史補』より)
http://www9.ocn.ne.jp/~picadely/gass/siryou/itujisiho.htm



一方、この松平春嶽をして呆れさせているのが、最後の将軍の父・水戸斉昭(なりあきら、もっとも現在では「なりあき」で通っている)である。

且又、烈公は元来○○家にして、妾数人を置き、其上峯壽院公主(家斉公の女烈公の養母)之上臈唐橋と密通せられし事あり。かく迄の○○家故、寅壽を愛寵し、屡○○を行はれしよし(真疑難保証)。


斉彬の「英雄」に対して斉昭の「○○家」って何なんですか、春嶽さんヾ(^^;)。当然「不二家」ではないしなあヾ(--;)
※ちなみに日記原文も「○○家」となっているらしい。よほど書きにくい話だったようだ。
これは、ネットにもよく出ている有名な話なのだが、水戸斉昭が兄・斉修の正室であった峯姫(11代エロ将軍・徳川家斉の娘)に付いていた上臈(高級女中)・唐橋局をレイプして側室にしてしまったという…(○。○)
上臈というのがどういう立場の女性かというのは、私のこのブログの記事を参照されたい。まだ島津重豪は自分の義理の祖母の上臈だからうやむやにもできただろうが、
この唐橋局は将軍の娘の上臈で、しかも唐橋局の前職は将軍付き上臈であった。…コワイ物知らずなのか、単なるエロのためには後先が分からなくなるスケベオヤジなだけなのか、斉昭…ヾ(--;)

ちなみに、この斉昭と斉彬(ややこしい…)が次期将軍に画策した一橋慶喜(斉昭の息子)は、主に大奥の猛反対で将軍の座を逃したのは有名な話だが、この大奥の反対の理由というのが
「斉昭の女たらし」
これだったというのだから、まさに斉昭の素行の悪さは斉彬の足を引っ張り、果ては幕末の幕府を傾ける間接的原因になったのである。

おまけ
上記引用元によると、斉昭は若い男の子にも手を出していたらしい…(○。○)それが上記引用文に出てきた「寅寿」なる少年である。

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先日のネタの関連記事。

ゴージャスバブル殿様・島津重豪とデフレ小泉ヾ(^^;)殿様・島津斉興の肖像画は吉川弘文館『国史大辞典』にも掲載されていて有名なので知っていたが
その中間にはさまれ、「近思録崩れ」で父親に排斥された悲劇の殿様・島津斉宣の肖像画もあるとは
知りませんでした。

ちなみにこれが斉宣だってさ

今まで知られてなかったのも当然といえば当然で、これを持っている「永井文庫」なるところは全く島津家とは関係のない博物館なのである。
http://www.nagai-bunko.com/kotto/kotto.htm
場所もどちらかというと島津氏のライバルだった伊東氏の勢力範囲である。こんな所に肖像画が流出してしまったと言うこと自体、いかに斉宣が鹿児島藩から大事にされていなかった藩主かというのが分かろうという物である。

ところで重豪にしても斉宣にしても斉興にしても
めっちゃくだけた衣装の肖像画しか残ってないですねぇ(苦笑)
さすが日本有数の貧乏藩
おまけ
シーボルト所蔵・重豪の三女・徳川家斉正室茂姫とされる像

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別館つながりである女性に興味を持って、片手間に調べているのだが
その女性とは
8代鹿児島藩主・島津重豪の側室であったお千万の方(おちまのかた)
という人物である。

『島津重豪』(人物叢書)によると、公家・堤代長の娘で、重豪の義理の祖母に当たる浄岸院竹姫につかえる上臈(高級女中)だったのが、浄岸院の死後に重豪の手が着いて側室になり、島津斉宣を産んだ人物だという。
こちらのページで簡略版が読めます。

この浄岸院竹姫というのはなかなかの人生を送った人物である。上記の『島津重豪』簡略版にも少しは書いてあるが、これは史料上の表面の話をたどっただけであって、実体はかなりどろどろしていたらしい。詳しくはこちら
この竹姫の実家である清閑寺家の分家の一つがお千万の方の実家である堤家である。あまりにもマイナーな公家で、私もよく分からなかった。検索してもこれくらいしかデータがない。
歴史資料館promised landの堤家の紹介
堤家は公家の中では下の方である「名家」のクラスで、しかも江戸時代になってから新設された新参者だった上に、正式な収入は御蔵米30石しかなかったらしい。幕府の御家人や鹿児島藩の郷士もびっくり!という貧乏公家である(^^;)お千万の方が浄岸院の上臈になったのもおそらくは「口減らし」だった可能性が高い。(事実、平成新修旧華族家系大成所収の堤家の系図を見ても幕府上臈や宮廷女官として出仕し、未婚の女性が多い。)
ところが、監督官のうるさい浄岸院がいなくなったところで手の早い重豪が側室にしちゃったというのが真相なんでは無かろうか。
ちなみにこの時代、武士が上臈に手を着けるというのは禁止行為であった。私の知ってる限りでは上臈に手を着けたエロ馬鹿殿は重豪と水戸斉昭ぐらいだ。ここにあの徳川家斉も入れて江戸時代3大精力爺トリオと私は勝手に読んでいるが。
もうひとつちなみに。島津家で側室に公家出身者がいるのはこの重豪が最初で最後である。

こうして(実体は貧乏公家だが)高位の出身であり、跡継ぎも産んだとなればお千万の方の人生は恵まれたものとなったはず
なのだが
重豪の娘・茂姫が後の徳川家斉正室・広大院となったために、お千万の方は日陰の人生を送らされることとなる。というのも茂姫が将軍家の嫁となるとなると、その茂姫の母親の方を島津家はヨイショしなければ行けないわけで、結局、お千万の方は嫡子生母でありながら鹿児島送りとなって、茂姫の母親が正室並の扱いを受けることとなってしまったのである。ちなみに茂姫の母親・お登勢の方(おとせのかた)は鹿児島藩の公式資料には「大坂蔵屋敷の足軽の娘」とあるが、素性不明の商人の娘という説もあるらしい。ともかくお千万の方は遙かに身分の低い女性の足下に置かれる羽目となったのである。

その後お登勢の方の弟(偽称という説もある)・市田喜内が「将軍御台所の叔父」と言うことで鹿児島藩家老に取り立てられ専横を極めたため、それに対する反発が直接的にはあの「お由羅騒動」を上回る規模だったといわれる「近思録崩れ」のきっかけになっているそうだ。

その後のお千万の方であるが、ライバルであったお登勢の方が享和元年(1801年)に亡くなり「重豪が寂しがっているから」という理由で再び江戸住まいとなる。が、なんと寂しがっている割には江戸に呼ばれたのは文化4年(1807年)と6年も後である。ちなみに「近思録崩れ」が勃発したのが翌年の文化5年である。陰謀臭い…

こんな夫と息子の対立でお千万の方が弱らないわけがなく、お千万の方は文化8年(1811年)に江戸で没してしまった。

・・・
このような経緯なので、その後近衛家と島津家の腐れ縁ヾ(^^;)(こちら参照)に対して、堤家との縁は切れてしまった者だと思っていたのだ

そうではなかったらしい。
国際スパイ・吉薗周三
幕末の公家・堤哲長と女中であるギンヅルの間に生まれた庶子の子に当たる人で、このHPを見る限りはかなりのくせ者だったようだが
この「ギンヅル」という人がなんと鹿児島の出身(しかもあの上原勇作の親戚)だというのだから驚いた。堤家と島津家の腐れ縁は幕末までは続いていたわけだ。

話は脱線するが、この堤哲長の子供には津和野藩の養子に出された亀井茲明(かめい・これあき)がいるが、
http://www.silverbirch.jp/sunshine/kusaka_01.html
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/kamei.html
島津家と亀井家のおつきあいのほどは不明である。

おまけ1
堤家の邸宅のあった場所(adobe acrobatが必要です)
京都御苑内の、近衛邸の近くだったようです。分かってたらついでに写真取ってきたのに_| ̄|○
おまけ2
堤家の菩提寺は松林院
京都には何カ所かありますが、これが伏見の松林院だとすると、薩摩藩御用達・寺田屋の菩提寺であります。ますます腐れ縁?ヾ(^^;)
ちなみに伏見の松林院は室町時代に天皇になり損ねた男?崇光院の菩提寺であり、かなり由緒ある寺なのだが予想通りマナーの悪い幕末ヲタの襲来のためか現在は拝観できなくなってしまったらしい(T_T)

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本能寺
という寺がどんな寺か知らなくても、名前を知っている人は多いはずである。
ここは織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれたときに宿所としていた寺である。
但し、現在ある場所(京都市の河原町御池にある)は織田信長が死んだときに建っていた場所とはずいぶん離れたところにあるそうな。

ところで、このお寺が所蔵している書類が活字化されたのを偶然いつも通っている図書館で発見。
本能寺史料

実は島津ヲタな私(^^;)にとってもこの寺は気になる寺なのである。
というのも、この寺の片隅に宝匡印塔があるのだが、その一つが戦国大名・島津義久の妻の墓と言われているのである。
この墓は非常に謎があって、義久の妻は京都で死んだわけでもないのにここに墓があるのである。しかも、ここに墓が築かれた理由に関して島津側には史料がない。
義久の妻の実家・種子島氏は熱心な法華宗(本能寺の宗派)ということで、何となく関連はわかるのだが…。

本能寺側の史料がこういう形で見られ易くなったのはとっても好都合!ということで拝見してみました。



それらしい史料にぶち当たらなかった_| ̄|○
どうも、本能寺の変以外でも何回も火事にあったお寺のようで>本能寺
江戸時代でも後半以降の史料しか残ってないみたいだ…。

ということで、島津義久の妻の墓の謎は今回も解けませんでした(T_T)

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