拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
戦国時代の島津氏に詳しい人ならば、「島津氏中興の祖」として島津忠良という人物がいたことを知っているだろう。「関ヶ原の戦い」で”島津の退き口”で知られる島津義弘の祖父に当たる。
そして、もう少し詳しく調べたならば、同時代に全く同姓同名の「島津忠良」という人物がいたことをご存じの人もいらっしゃるかも知れない。
こちらは先の島津忠良と対立して島津氏当主の座を追放されたと言われる14代島津本宗家当主・島津勝久の息子である。
いずれ私の別館でもふれる機会があると思うのでここでは詳細は省略する。
ところが、その忠良の孫・義弘にも同姓同名の人物がいたとは知らなかった。
しかもほぼ同時代の人物である。
ただ、この「島津義弘」なる人物が本当に越前島津家の直系子孫なのかについては、私は疑問がある。以下に理由を列挙しておく。
1)越前島津家はそれまで代々「忠」の字を通字として使っているのに、義弘は使っていない。では先祖が「義」「弘」の字を使っていたかというと、その形跡もない。 <参照>越前島津家代々wikipedia 播磨屋.com
2)「母親が幼児の○○を連れて逃れた」という伝承が戦国時代の名家には多いが、その子孫を自称する家の多くが実際は無関係ではないかといわれている。 <例>北畠氏(有馬氏) 明智光秀の落胤
江戸時代中期に、鹿児島藩主・島津吉貴が子供を分家させて越前島津家を「再興」したとき、この播磨の島津氏の存在が問題となったらしく調査したが、その結果がグレーゾーンの結論で終了したようなのは、wikipediaの「越前島津氏」記事(おそらく『兵庫県史』の引用かと思われる)にも書かれている。
ところで、京都の島津製作所創業者・島津源蔵はやはり先祖が播磨の出身だが、家伝では「島津義弘の化粧料の差配に貢献し、家紋と名字をさずかった」とあるそうな
この「島津義弘」も、織豊時代に薩摩島津氏が豊臣秀吉からあてがわれた化粧料の差配に絡んで「島津義弘」の名前を名乗った可能性もあるのではないかとも考えられる。しかし、なにぶん現状では情報も少ないため、なお検討を続けていきたい。
そして、もう少し詳しく調べたならば、同時代に全く同姓同名の「島津忠良」という人物がいたことをご存じの人もいらっしゃるかも知れない。
こちらは先の島津忠良と対立して島津氏当主の座を追放されたと言われる14代島津本宗家当主・島津勝久の息子である。
いずれ私の別館でもふれる機会があると思うのでここでは詳細は省略する。
ところが、その忠良の孫・義弘にも同姓同名の人物がいたとは知らなかった。
しかもほぼ同時代の人物である。
島津義弘(しまづよしひろ、天正2年(1574年) - 寛永11年4月16日(1634年5月13日))は、越前島津氏(播磨家)17代目。
生涯
越前島津氏16代目忠之の嫡男。母は相野荘官山本大次郎村岡の妹。「天正三年忠之が『青山の合戦』で戦死した祭、義弘の母は僅か二歳の義弘を抱え、足軽を 使って十文字鑓をもち、石蜘城から領地下揖保庄上村にかえる。」と伝えられる。成人し、宇野氏の女を娶り、彦兵衛尉蔵人義弘と名乗る。
弟・佐渡守忠之、長男・蔵人豊後太夫忠遠、次男・長井大膳太夫忠頼と共に、内大臣豊臣秀頼公に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大坂城に籠 城する。同20年(1615年)の大坂夏の陣後、大坂城を逃れて、赤松祐高らとともに網干大覚寺に籠もる。しかし、池田勢に包囲され、赤松祐高は衆兵を救 わんとして切腹する。こうして、義弘は逃れ、下揖保庄上村に帰って鬀髪し、宗賀と名乗る。しかし、2ヵ月後、上村においても池田勢に包囲され、長男・忠 遠、次男・忠頼は父に代わって切腹する。
家督は、本家は三男・甚左衛門政之(18代目)が継ぎ、切腹した長男・忠遠の子・忠範は下揖保庄西の野田の郷長となる。この時代薩摩藩は、龍野藩の「室津 港」を江戸・京都への拠点としており、薩摩公が来た際には、道案内や、京都上洛のお供、揖保川東岸において御座所を設け、これを迎えたりした。こうした交 誼は、19代目の藤太夫義綱の代まで続いた(『兵庫県大百科事典』、『播磨の島津氏』)。
寛永5年(1628年)辰年正月、「慣例申伝之事」を子孫に書き残す。これには、文書類を火災などで失わぬこと、家系は絶やさず、血縁を持って繋ぐこと、埋葬方法などが記されている(揖保上の本家に保存されている。)。
享年61。龍野如来寺に葬られる。
ただ、この「島津義弘」なる人物が本当に越前島津家の直系子孫なのかについては、私は疑問がある。以下に理由を列挙しておく。
1)越前島津家はそれまで代々「忠」の字を通字として使っているのに、義弘は使っていない。では先祖が「義」「弘」の字を使っていたかというと、その形跡もない。 <参照>越前島津家代々wikipedia 播磨屋.com
2)「母親が幼児の○○を連れて逃れた」という伝承が戦国時代の名家には多いが、その子孫を自称する家の多くが実際は無関係ではないかといわれている。 <例>北畠氏(有馬氏) 明智光秀の落胤
江戸時代中期に、鹿児島藩主・島津吉貴が子供を分家させて越前島津家を「再興」したとき、この播磨の島津氏の存在が問題となったらしく調査したが、その結果がグレーゾーンの結論で終了したようなのは、wikipediaの「越前島津氏」記事(おそらく『兵庫県史』の引用かと思われる)にも書かれている。
ところで、京都の島津製作所創業者・島津源蔵はやはり先祖が播磨の出身だが、家伝では「島津義弘の化粧料の差配に貢献し、家紋と名字をさずかった」とあるそうな
記事全文こちら島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州に住んでいました。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から 新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、惣兵衛は、領地の検分などに誠心誠意お世話をしました。その誠意に対する感謝の印として、義弘公から“島津 の姓”と“丸に十の字(くつわ)の家紋”を贈られたと伝えられています。
この「島津義弘」も、織豊時代に薩摩島津氏が豊臣秀吉からあてがわれた化粧料の差配に絡んで「島津義弘」の名前を名乗った可能性もあるのではないかとも考えられる。しかし、なにぶん現状では情報も少ないため、なお検討を続けていきたい。
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日本書紀に、信頼に差がある2種の筆者 天文現象で分析http://www.asahi.com/science/news/TKY200612060246.html
2006年12月06日
複数の筆者が書いたとされる日本書紀で、天文に関する記述が実際の観測と合う筆者と、そうではない筆者の2タイプいることが、天文学の研究でわかってきた。書紀は筆者により表記の仕方が違うとされるが、内容の信頼度も差があるようだ。
河鰭(かわばた)公昭名古屋大名誉教授と谷川清隆国立天文台助教授らは、書紀の天文現象が中国の記録や計算結果と合うかどうか調べている。以前に書紀の天文記録の一部が事実だと示したが、筆者による違いにも着目した。
京都産業大の森博達教授(中国語学)は、日本書紀全30巻を、万葉仮名などの使い方で、筆者A群(14〜21、24〜27巻を担当)、筆者B群(1〜13、22、23、28、29巻)、不明(30巻)に分類している。Aは、当時の日本の社会常識に疎いことなどで渡来中国人、Bは、漢文の執筆能力が低いことなどで日本人(日本生まれの渡来人子孫も含む)との推測だ。
河鰭さんらの結果を合わせると、Aの巻に出てくる643年の月食が、日本では見られないものだった。彗星(すいせい)や超新星を表す記述は中国では記録されていないなど、事実と確認できる天文現象はない。逆に天智天皇の代に中国で見えた彗星2個が記録されていない。
Bの巻にある628年から681年の5回の日食は、年代の誤記とみられる1例はあるが、いずれも日本で観測できたと認められた。月食と火星食各1例も事実で、684年のハレー彗星など6個の彗星も、5個が中国の記録と一致した。
30巻には6例の日食があるが、暦から予報されたもので日本では見えない。逆に日本で見えたはずの日食はなかった。
こうしたことから、少なくとも天文記録ではB群の信頼性が高く、他は実際の目撃記録によらず書いたようだ、という。 (後略)
『日本書紀』の実際の執筆には少なくとも2人以上の人間が関わっているという説は、上記記事でも紹介されているように森博達氏が明らかにしている。
ただ、森氏の手法は言語学からのアプローチだったので、一般人にはやや理解が難しい点があった。今回は自然現象に注目したアプローチで、森氏の説を補強すると共に、著者以外にもまだまだある『日本書紀』の謎を解明するヒントにもなっていくのではとちょっと期待をしている。
ところで
河鰭(かわばた)公昭名古屋大名誉教授
変わった名字だが、もしかしてお公家さんの末裔?こちら
西郷隆盛はあまりにも有名で専用サイトもわんさかとありますが
その子供達というと、余り知られていないように思います。
西南戦争で西郷隆盛が戦死し、「反乱軍の賊将」と言うことになりまして、当然、その家族は辛苦をなめ尽くしたそうです。
西郷隆盛には3人の妻がいましたが、そのうち隆盛の子供を産んだのは2番目の妻の愛加那と3番目の妻のイト。当時、いろいろと差別や障壁のあった時代、南西諸島出身の愛加那さんは鹿児島本土に渡ることが出来ず、産まれた子供だけが引き取られましたが、庶子の扱いだったそうです…。実際長男でありながら次男とされた菊次郎は西南戦争で片足を失った物の、後京都市長になったのは…たぶん、京都市出身者なら小学校で習っているはずなんだが…最近のゆとり教育でどうなったのか心配です
一方、イトとの間に生まれた次男の寅太郎が戸籍上は長男とされます。幼くして父・隆盛が上記に書いたような形で死に、世間から隠れるようにして大きくなったようです。
その後、叔父の西郷従道や親戚の大山巌、勝海舟らの取りなしで華族になりますが、父親とは違っていたって地味な経歴で、しかも大正初年頃のインフルエンザ大流行であっさり病死してしまいます…
(参照 wikipedia「西郷寅太郎」)
習志野の捕虜収容所の所長をしていたときには、結構優しい所長さんとして慕われていたそうな。うーん、やはり父親とはタイプが違うような…(^^;)こちら
そんな気になる寅太郎さんのお顔は…
西郷寅太郎の写真(たぶん留学していたとき?)
熊顔じゃないーヾ(^^;)つかむしろ美形の部類かと
寅太郎さんはお母さんに似たようです。
その子供達というと、余り知られていないように思います。
西南戦争で西郷隆盛が戦死し、「反乱軍の賊将」と言うことになりまして、当然、その家族は辛苦をなめ尽くしたそうです。
西郷隆盛には3人の妻がいましたが、そのうち隆盛の子供を産んだのは2番目の妻の愛加那と3番目の妻のイト。当時、いろいろと差別や障壁のあった時代、南西諸島出身の愛加那さんは鹿児島本土に渡ることが出来ず、産まれた子供だけが引き取られましたが、庶子の扱いだったそうです…。実際長男でありながら次男とされた菊次郎は西南戦争で片足を失った物の、後京都市長になったのは…たぶん、京都市出身者なら小学校で習っているはずなんだが…最近のゆとり教育でどうなったのか心配です
一方、イトとの間に生まれた次男の寅太郎が戸籍上は長男とされます。幼くして父・隆盛が上記に書いたような形で死に、世間から隠れるようにして大きくなったようです。
その後、叔父の西郷従道や親戚の大山巌、勝海舟らの取りなしで華族になりますが、父親とは違っていたって地味な経歴で、しかも大正初年頃のインフルエンザ大流行であっさり病死してしまいます…
(参照 wikipedia「西郷寅太郎」)
習志野の捕虜収容所の所長をしていたときには、結構優しい所長さんとして慕われていたそうな。うーん、やはり父親とはタイプが違うような…(^^;)こちら
そんな気になる寅太郎さんのお顔は…
西郷寅太郎の写真(たぶん留学していたとき?)
熊顔じゃないーヾ(^^;)つかむしろ美形の部類かと
寅太郎さんはお母さんに似たようです。
私の関連ブログは1,2,3
一時期、「近思録崩れ」に興味があり、関連の資料などを斜め読みしたこともあるのだが。
さすが島津重豪がこの辺りの書類を焼却処分させたとか言う経緯もあって、具体的な流れがわかりにくいわかりにくい_| ̄|○
例えば『鹿児島県史料』の最新刊は「薩摩藩法制史料」だが、この巻頭の解説でも島津義久と島津斉宣の関係史料が異様に少なく、おそらく
・義久は豊臣秀吉に降伏したという点が島津家の恥部とされ
・斉宣は近思録崩れの件が島津家の恥部とされ
関係史料が収録されなかったのでは、と推測されていた。
ただ、現在のところ『島津重豪』 / 芳 即正など数少ないこの時代の概説書では
近思録崩れとは
「節約に関心のない先代藩主・島津重豪vs節約政策を採る当代藩主・島津斉宣のお家騒動」
という捉え方をされている。…まあ事実そうだと思うのだがヾ(^^;)
ホントにそれだけだったのか?という疑問が消えないのである。
というのも
去年、高野山に島津家関連の墓の調査?にいったのだが島津義久以降島津斉興まで歴代の墓を確認したのだが、
島津斉宣、島津斉彬、島津忠義
は確認出来なかったのである。
このうち
斉彬は幕末の混乱期に亡くなり、後に神格化されたこと
忠義の時に島津氏は神道に改宗したことで高野山に墓所を作る必要が無くなった
と言うことで説明できる。
どう考えても説明できないのが斉宣。現在高野山の島津氏墓所を管理している正智院に正式に確認する必要があるが、3カ所ある島津氏墓地をさんざん探してないのだから、斉宣の墓が高野山にない可能性は非常に高いとにらんでいる。
つまり、歴代藩主として高野山で弔われなかった(ほぼ)唯一の人物、それが斉宣なのである。
更に疑問なのは、高野山に残る島津家の墓を最後に整備したのはどうも島津斉興のようなのだが、斉宣は斉興の実父なのである。どうして斉興は実父の墓を築かなかったのか?特に儒教観念の強い江戸時代の武家ともなれば疑問きわまりない。
もう一つの疑問は、斉宣の実母・堤代長女(お千万の方)に対する扱いである。本来なら公家出身で、お世継ぎも産んだ女性であれば正室相当(ちなみに重豪には2人正室がいたが早々と亡くなっている)の扱いをされて当然のはずなのだが、重豪の娘・茂姫が11代将軍・徳川家斉の御台所になるという珍事の為に茂姫の母・市田氏女(お登勢の方)によって鹿児島に追われたという悲運の女性でもある。その後も重豪の意向に翻弄された人生を送るのだが、それは拙ブログを参照されたい。
ところが彼女が文化4年(1806年)鹿児島から江戸に登る辺りから、まるで腫れ物にさわるような扱いなのである。
まず藩主の実母とはいえ一側室にしか過ぎない彼女の行列に対し「薩摩藩大奥」という看板を掲げることが許可されている(該当史料は先述の『鹿児島藩史料』の追録5あたりに掲載)のだが、「大奥」と言えば本来は江戸幕府の奥方にのみ使われる名称である。
彼女はそのわずか4年後に亡くなるのだが、この時にあの茂姫が「お気の毒」としてわざわざお悔やみ状を送っているのである。ちなみにお悔やみ状の宛先は父・重豪じゃなくて斉宣である。茂姫母・お登勢の方と斉宣母・お千万の方の確執、また異母兄弟とはいえ、実際の立場は将軍御台所と一介の藩主という差もあることを考えると、これもまた異例である。
ここで気になるのは近思録崩れの際に採られた政策である。
一般的には、特に蘭癖大名・重豪の開いた施設を次々と廃止した政策が重豪の疳に障って失敗したとされているが、政策の中には江戸幕府の裁量権を無視したとしか思えない貿易振興策などもあり、それも重豪を刺激したことが先述の『島津重豪』でも指摘されている。芳氏は近思録派の主導者である樺山主税、秩父季保が中央の情勢に無知だったためにこんな政策を入れたのでは、と片づけていたが…。下級藩士であった秩父はともかく、樺山家は代々一所地格の上級藩士で、先祖にも家老を勤めた者が多い。中央の情勢に全く無知とは思えない−江戸幕府の意向を汲んで政策を採らなければならない事は分かっていたと考えられるのである。
ここで注目すべきなのは、島津斉宣が国学者・高山彦九郎と親交を結んでいたと言うことだろう。興味深い内容なのでソースも引用しておく。
彦九郎と知り合った藩主は数多いようだが、国賓とも言える対応をしたのは斉宣だけのようである。またこれに絡んでくるのが赤崎海門なる人物だが、ここの項目にまた興味深いことが書いてある。ソース引用。
斉宣の母・お千万の方は堤氏という中下級公家の出身なのだが、彼女の幼少時に「宝暦事件」という国学者+公家+天皇(当時の天皇は桃園天皇)が絡む一大事件が起きている。斉宣もこの母からこの宝暦事件の顛末などは聞かされていたことは容易に推測できる。また、その内容はお千万の方の出身を考えると処罰された側の国学者や公家に同情的な内容であったろうと考えられる。
ちなみにその後、この宝暦事件の首謀者ともされた国学者・竹内式部がらみで「明和事件」なる事件が起き、これに巻き込まれた小幡藩織田家が懲罰的転封、また織田家一門も連座を食らっている。
私が何となくこれらから考えているのは、
一時期、「近思録崩れ」に興味があり、関連の資料などを斜め読みしたこともあるのだが。
さすが島津重豪がこの辺りの書類を焼却処分させたとか言う経緯もあって、具体的な流れがわかりにくいわかりにくい_| ̄|○
例えば『鹿児島県史料』の最新刊は「薩摩藩法制史料」だが、この巻頭の解説でも島津義久と島津斉宣の関係史料が異様に少なく、おそらく
・義久は豊臣秀吉に降伏したという点が島津家の恥部とされ
・斉宣は近思録崩れの件が島津家の恥部とされ
関係史料が収録されなかったのでは、と推測されていた。
ただ、現在のところ『島津重豪』 / 芳 即正など数少ないこの時代の概説書では
近思録崩れとは
「節約に関心のない先代藩主・島津重豪vs節約政策を採る当代藩主・島津斉宣のお家騒動」
という捉え方をされている。…まあ事実そうだと思うのだがヾ(^^;)
ホントにそれだけだったのか?という疑問が消えないのである。
というのも
去年、高野山に島津家関連の墓の調査?にいったのだが島津義久以降島津斉興まで歴代の墓を確認したのだが、
島津斉宣、島津斉彬、島津忠義
は確認出来なかったのである。
このうち
斉彬は幕末の混乱期に亡くなり、後に神格化されたこと
忠義の時に島津氏は神道に改宗したことで高野山に墓所を作る必要が無くなった
と言うことで説明できる。
どう考えても説明できないのが斉宣。現在高野山の島津氏墓所を管理している正智院に正式に確認する必要があるが、3カ所ある島津氏墓地をさんざん探してないのだから、斉宣の墓が高野山にない可能性は非常に高いとにらんでいる。
つまり、歴代藩主として高野山で弔われなかった(ほぼ)唯一の人物、それが斉宣なのである。
更に疑問なのは、高野山に残る島津家の墓を最後に整備したのはどうも島津斉興のようなのだが、斉宣は斉興の実父なのである。どうして斉興は実父の墓を築かなかったのか?特に儒教観念の強い江戸時代の武家ともなれば疑問きわまりない。
もう一つの疑問は、斉宣の実母・堤代長女(お千万の方)に対する扱いである。本来なら公家出身で、お世継ぎも産んだ女性であれば正室相当(ちなみに重豪には2人正室がいたが早々と亡くなっている)の扱いをされて当然のはずなのだが、重豪の娘・茂姫が11代将軍・徳川家斉の御台所になるという珍事の為に茂姫の母・市田氏女(お登勢の方)によって鹿児島に追われたという悲運の女性でもある。その後も重豪の意向に翻弄された人生を送るのだが、それは拙ブログを参照されたい。
ところが彼女が文化4年(1806年)鹿児島から江戸に登る辺りから、まるで腫れ物にさわるような扱いなのである。
まず藩主の実母とはいえ一側室にしか過ぎない彼女の行列に対し「薩摩藩大奥」という看板を掲げることが許可されている(該当史料は先述の『鹿児島藩史料』の追録5あたりに掲載)のだが、「大奥」と言えば本来は江戸幕府の奥方にのみ使われる名称である。
彼女はそのわずか4年後に亡くなるのだが、この時にあの茂姫が「お気の毒」としてわざわざお悔やみ状を送っているのである。ちなみにお悔やみ状の宛先は父・重豪じゃなくて斉宣である。茂姫母・お登勢の方と斉宣母・お千万の方の確執、また異母兄弟とはいえ、実際の立場は将軍御台所と一介の藩主という差もあることを考えると、これもまた異例である。
ここで気になるのは近思録崩れの際に採られた政策である。
一般的には、特に蘭癖大名・重豪の開いた施設を次々と廃止した政策が重豪の疳に障って失敗したとされているが、政策の中には江戸幕府の裁量権を無視したとしか思えない貿易振興策などもあり、それも重豪を刺激したことが先述の『島津重豪』でも指摘されている。芳氏は近思録派の主導者である樺山主税、秩父季保が中央の情勢に無知だったためにこんな政策を入れたのでは、と片づけていたが…。下級藩士であった秩父はともかく、樺山家は代々一所地格の上級藩士で、先祖にも家老を勤めた者が多い。中央の情勢に全く無知とは思えない−江戸幕府の意向を汲んで政策を採らなければならない事は分かっていたと考えられるのである。
ここで注目すべきなのは、島津斉宣が国学者・高山彦九郎と親交を結んでいたと言うことだろう。興味深い内容なのでソースも引用しておく。
寛政3年(1791)5月17日の「寛政京都日記」によれば、参勤交代で薩摩に戻る途中、伏見の薩摩藩邸に滞在している松平豊後守(島津斉宣)に従行していた赤崎貞幹(海門)と彦九郎が会い、赤崎が18日に彦九郎の紹介で伏原宣條卿・岩倉具選卿・芝山持豊卿に会い、和歌をいただいたことについて、19日に、斉宣が赤崎に、どうして公卿方と会えるのか、歌などをいただくのは難しいと聞いている。http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm
寛政4年(1792)4月2日の「筑紫日記」によれば、彦九郎の薩摩入国を喜び、藩主斉宣が自ら狩得た鹿で酒宴がひらかれ国賓的待遇を受けている。
4月13日には、造士館で歓迎の宴があり、桜島をながめながら、船中で酒宴が催された同時刻に「薩太守(斉宣)」も船遊しているのが遠くに見えたとある。
彦九郎と知り合った藩主は数多いようだが、国賓とも言える対応をしたのは斉宣だけのようである。またこれに絡んでくるのが赤崎海門なる人物だが、ここの項目にまた興味深いことが書いてある。ソース引用。
(前文略)当時薩摩は京都公家派と幕府体制側に藩論が割れていたが、彦九郎は赤崎海門を軸に奔走した。(以下略)http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm
斉宣の母・お千万の方は堤氏という中下級公家の出身なのだが、彼女の幼少時に「宝暦事件」という国学者+公家+天皇(当時の天皇は桃園天皇)が絡む一大事件が起きている。斉宣もこの母からこの宝暦事件の顛末などは聞かされていたことは容易に推測できる。また、その内容はお千万の方の出身を考えると処罰された側の国学者や公家に同情的な内容であったろうと考えられる。
ちなみにその後、この宝暦事件の首謀者ともされた国学者・竹内式部がらみで「明和事件」なる事件が起き、これに巻き込まれた小幡藩織田家が懲罰的転封、また織田家一門も連座を食らっている。
私が何となくこれらから考えているのは、
書き込み自由!そのため嘘情報も多いと言われるネットの百科事典「wikipedia」
でも、教科書じゃ絶対教えてくれない話にぶち当たるのも事実なんですよね…。
例えば。
この間調べ物をしていて、数珠繋ぎに調べてみると興味深い記事にぶつかりました。
平戸の名物お菓子「カスドース」
↓
博多の名物お菓子「鶏卵素麺」
↓
鶏卵素麺はタイにも伝わっていた!
しかも伝えたのはなんと大友氏の末裔らしい…
マリーって名前には仰天したが
ここから更に数珠繋ぎに調べてみると、ギリシャとかエリザベス女王とかともつながっていて、17世紀初頭の人の動きはなかなかダイナミックですね。
茶道のお菓子として有名な鶏卵素麺、こういう知識があると味わいも変わる?
でも、教科書じゃ絶対教えてくれない話にぶち当たるのも事実なんですよね…。
例えば。
この間調べ物をしていて、数珠繋ぎに調べてみると興味深い記事にぶつかりました。
平戸の名物お菓子「カスドース」
↓
博多の名物お菓子「鶏卵素麺」
↓
鶏卵素麺はタイにも伝わっていた!
しかも伝えたのはなんと大友氏の末裔らしい…
マリーって名前には仰天したが
ここから更に数珠繋ぎに調べてみると、ギリシャとかエリザベス女王とかともつながっていて、17世紀初頭の人の動きはなかなかダイナミックですね。
茶道のお菓子として有名な鶏卵素麺、こういう知識があると味わいも変わる?
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