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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前から気になっていた本を取り寄せて借りてみた。
これは「島津家」「鍋島家」「細川家」
こちらは「近衛家」「鷹司家」「三条家」
今は写真の版権の関係もあるのか、すべて絶版、どうしても手元に欲しければ古書買うしかないと言うのが残念ですが。
この6家、関係ないようで実は関係があったりして、ある人の写真が思いもかけない家から出てきたりとか、なかなか興味深い本。
島津ヲタの私ヾ(^^;)としては、やはり8巻の方に興味があったが、なんと以前図書館で借りたに所収されていたものと重複する写真が多くて_| ̄|○でも、お亡くなりになる前(1990年)の島津忠秀氏(1996年没)のご尊影を拝めたのが何よりの収穫。で、どんなお顔かというと
は虫類系…ヾ(--;)
9巻の「近衛家」の方に、元夫人の昭子氏(の若いころ)の写真が載っていますが、見るからに派手というか華やかな感じで…こりゃ性格が合わなかったのかな、等と思ってしまいました。ちなみに晩年の昭子氏のご様相についてはこちら。

あと、9巻には悲劇的な最期を遂げた鷹司平通氏(昭和天皇三女・和子氏の夫)の写真も所収されていました。彼の情報はweb上では乏しいですが
鷹司 平通(たかつかさ としみち、1923年8月26日 - 1966年1月27日)は鉄道研究家。日本交通公社交通博物館調査役。

来歴・人物

東京都出身。公爵鷹司信輔の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」を応募し、入選する。大阪理工科大学(現在の近畿大学)を卒業。

1950年5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の娘)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱いであり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。

幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(1964年)は名著として知られる。鉄道友の会の世話役も務めた。(以下略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B9%B3%E9%80%9A
現在の近畿大卒、しかも鉄ヲタということで、とんでもない様相の方例えばこういう感じを想像していたのですが、写真を拝見してイメージ崩壊。けっこうほっそりした人だった。といっても公家然とした感じじゃなくて、親しみやすい感じの人でした。鉄道博物館で小学生に囲まれて機関車の説明をしている瞬間のお顔はとっても幸せそうでした。
平通氏と和子氏の縁組みは元五摂家と皇族と言うことで決まったのかも知れませんが、鷹司家は写真を見るからに摂家然としてない家風だったようで、この点で不幸になることが決まってしまったような気もします。
近衛家、鷹司家、三条家の中では一番三条家が容貌といいヾ(^^;)公家っぽいかな。近衛は前久を初めとして歴史の節目でとんでもない人物を輩出する伝統が(ヲイ)



こちらはテレビでもよく話題となった柳川市の料亭「御花」の先代女将こと立花伯爵家の家付き娘であった立花文子(あやこ)氏の自伝。amazonの紹介では「no image」となっているのが残念ですが、文子氏の全盛期ヾ(^^;)の麗しい肖像画が表紙を飾っています。
料亭御花の苦労談は意外に少なく、学生時代の話とか、家督を父に押しつけられる前(苦笑)の転勤サラリーマンの妻だったころのお話など興味深く読ませてもらいました。白黒ですが写真が思ったより多く所収されていたのが収穫。文子氏の母は田安徳川家の出身なんですね。そこで興味深い話があったのだが
母は最後の将軍であった徳川慶喜公の長女鏡子様と旧徳川御三卿の一つ、田安徳川家の御当主の徳川達孝伯爵の三女として明治二十四年に生まれました。高松宮妃殿下(喜久子姫)は母とは従兄弟に当たられます。
実家は三田にありましたので、その祖父母のことを私は「三田のお祖父様」「三田のお祖母様」とお呼びしていましたが、私が覚えているお祖母様とは後添えで入られた知子夫人の方です。こちらは島津忠義家の四女でいらっしゃいます。(以下略)
p.39

…忠義の娘では三女・常子は「絶世の美女で才女なのにあの時代に28歳まで行き遅れて後妻に」というのは知っていたが、四女・知子も後妻であったか…。
ところで所収の写真を見る限りでは、田安家の女性は美女揃いだったが、この4人とも母親は鏡子になるのかな…そういえば誰も顔は知子に似ていないような…田安達成氏は集合写真を見る限りでははれぼったい瞼が知子実母の山崎寿満子そっくりだしヾ(^^;)この方は知子の子なのかな。

おまけ
達成氏の妻も近年という本を上梓されたようですが、某掲示板で聞いたところによると、どうも姑に当たる知子と折り合いが悪かったようで(苦笑)、戦後になっても朝晩のキモノのお召し替えなど旧態依然の大名華族の生活を変えない知子に達成夫人・元子はぶちぎれられていたとか。…最も、立花文子氏の前掲書に寄れば、文子氏の母・艶子氏の戦後も全く同じ調子だったご様子_(。_゜)/

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先日、ひこにゃんフィーバー築城400年祭りに沸く彦根に行って参りました(・∀・)
実は○○年ぶりだったんですが(^^;)余り変わってない?ヾ(--;)
町の雰囲気はなだらかーな寂れ加減も含め松阪市と似ています。城下町で、牛肉の名産地というところも似てますね。唯一違うのは、彦根は立派な城の建物が残っていると言うことだが。

彦根城は国宝・重文の建物も勿論すばらしいが、城郭の復元にも比較的熱心。
その中の一つ

hikonejo-muzeum1.JPG彦根城博物館。
彦根城の政庁であった表御殿をそっくりそのまま復元した物で、コンクリ部分と宮大工による完全木造部分があります。木造部分は江戸時代の図面や解体直前の写真から復元した正確無比の物で必見。




一応彦根市立の歴史博物館と言うことになっているのですが、場所柄「井伊家専用博物館」の雰囲気があります。私が行ったときには、井伊直政と直孝の展示が中心だったのだが…直政と直孝をヨイショする内容だったのはまあともかくとして(^^;)
興味深かったのは「幻の2代藩主」とされた井伊直勝(直継)の展示。…彦根市(というか井伊氏)的には、直勝(直継)はなかったことになってるんですね…一応10年近く当主だったのですが。

直勝(直継)についてはwikipediaの当該項目がまとまっていると思う。正室出生の嫡子だったのに「病弱」と言うことで徳川家康の命で井伊家の当主から排除させられたと言っても過言ではない人物である。

ところが、今回の展示では別の説が紹介されていて興味深かった。直政の死後、井伊家の家中でお家騒動が勃発しかかっていたという物である。
井伊直政というのは、滅亡寸前の井伊家を一代で再興したと言っても過言ではない人物で、武功ばかりでなく交渉でも能力を発揮し、豊臣秀吉からも独立大名同様の扱いを受け(島津家の伊集院忠棟と似た扱いなのかな)、徳川家中では別格の存在だったらしい。最もそのためか、自分にも厳しく、他人にも厳しく(同僚の本多忠勝とはよく言い争いをしていたらしい)、特に家臣には超厳しかった人物のようだ。近藤秀用は、直政の性格に愛想が尽きて、家康の元に脱走したくらいである。
…そんな鬱憤が家中にたまっていたのも原因したのか、直政の死後に家中のごたごたが爆発した物と推測される。
が、展示では、家中の対立は
  • 遠江時代からの井伊家代々の家臣
  • 徳川家康が直政を取り立てるときに新たにつけた家臣
の間で酷い物だったと説明されていた。
そして、当時の書状
  • 慶長19年(1614年)頃、直勝(直継)は徳川家康の命で留め置かれ、安中(現群馬県安中市)に幽閉状態に置かれていたこと(大阪市天守閣所蔵「日下部家次書状 木俣守安宛」)
  • 慶長20年(1615年)、徳川家康により大坂の陣へは直勝(直継)ではなく弟・直孝が井伊家軍を率いて出陣するように命じられ、直勝(直継)は安中に別に所領を与え、鈴木氏など井伊家に古くから使えていた家臣は家康の指示により直勝(直継)の家老とすること(井伊達夫氏所蔵「井伊直孝書状 木俣守安宛)
※ちなみに両方の手紙に出てくる木俣守安とは井伊氏の筆頭家老。木俣家はその後も彦根藩の家老を務め、屋敷跡として塀と門のみが佐和山口多聞櫓の袂に残っている。
により、徳川家康の命によって井伊直勝(直継)は強制的に当主の座から追われて別家を建てさせられたとする。博物館の説明では
「京に近い交通の要所を守る譜代大名・井伊氏には当主も統率力のある人物が期待されたのです」
とあった。確かにそれはその通りだと同意するが、上記の処分は徳川家康の命による強制隠居も同然の物であり、しかも対立していた家臣団の内、古くから井伊氏に仕えていた有力者が直勝(直継)と共に実質的に追われるような形になったのは興味深い。

直勝(直継)に代わって井伊家当主となった井伊直孝は謎の多い人物でもある。生母・伊具(印具)氏は直政正室・奥山氏(但しこれも諸説があって、松平康親の娘とか鳥居元忠の娘とかの異説多数、どうなってるの?)の侍女だったと言われる(博物館でもこの説明で、これが公式見解のようだ)が、遠江の農民の娘だったとも言われる。どっちにしろ、直孝は長くに渡って井伊家中から離れた別の場所で成長したようで、父・直政に対面したのはその死の前年の慶長6年(1601年)だったという。井伊家の史料では「病弱な兄・直勝(直継)に代わって早くから家中を切り盛りしていた」とも言われるが、実は直政が死んだ時点では直孝はまだ数え13歳に過ぎない。いくら昔の人物が揉まれてしっかりしていたとはいえ、子供であることには変わりないのである。

上記の史料でわかるように
  • 井伊家の相続問題は徳川家康の直接の差配で決着したこと
  • その問題に乗じて古くからの井伊家家臣が「追い出し」を食らって、その後の井伊氏の重臣は家康が直政につけた元徳川家臣で占められたこと
から見ると、実質的にはこの直勝(直継)→直孝の流れは「直勝の病弱による家督委譲」と言うよりは「家康の口出しによる井伊家乗っ取り」という物だったように思われてならない。この井伊家騒動が大坂の陣直前に家康の口出しで決着したことも、非常事態を口実として、旧来の井伊家家臣を押さえ込む家康の作戦のように思われるのである。
そういえば、井伊直孝には土井正勝などと同様、早くから「家康ご落胤説」が流れていたようだが、上記の流れを見るとこういう噂が流れても最、と思われるし、いや実は…とも考えさせられてしまうのである。

なお、興味深いことに、安中藩に「隠居」させられてから直は「直勝」と改名したのだが、これは実質的”隠居”により井伊家の宗家を継いだという意味が強調される「継」という字を幕命で取り除かれた物であろう。
更に、その後の安中藩(後転封を重ね最終的に越後与板藩)主は代々幼名「万千代」を名乗っているが、この「万千代」、井伊直政が徳川家康から直々にもらった由緒ある幼名なのである。
これには直勝(直継)系の
「こっちこそが本当の井伊の正統なるぞ!」
…という自己主張がかいま見えるような気がする。
ただ、残念なことに直勝(直継)系の血統は直勝から5代後に断絶し、その後は彦根の本家からの養子でつないでいる(ちなみに次期与板井伊家御当主は井伊家との血縁関係すらない(苦笑))


おまけ
井伊直政木像(井伊美術館蔵) 井伊直孝木像
…確かに親子にしては似ていない?
最も井伊直政についてはこんなの(井伊家菩提寺龍潭寺所蔵)とかこんなの(彦根城博物館蔵)とか三物三様でバラバラですが…(^^;) ちなみに井伊直孝はいろいろ肖像画が残っているがみんな同じような鬼顔のおっさんでした_(。_゜)/

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別館関連で、数少ない地元図書館にあった本を借りたのだが、
『鹿屋市史』

…今まで、鹿児島県のいろんな市町村史誌には大変お世話になってきたのだが、
これはほとんど見るべき所がなかった。
歴史の本としての冷静な視点に欠けている。
例えば
古代においてはむしろ大隅の方がすべての面で薩摩より優位に立っていたが、中世にいたってそれが逆になってしまった。
中世以降の大隅の歴史は、惨めな被征服民の歴史である。(以下略)
(p.272)
戦国時代からは、どんな話の最後にもこれに似たような恨み節が着いてくるので、正直勘弁して欲しかった。
とどめのあとがきでも
鹿屋市史編纂を終えて
(中略)
大隅開発が叫ばれ在りし日の天孫民族の発祥の地でありながら長年月に亘って虐げられてきたこの地に、再び陽春が訪れ熊襲隼人の古墳文化が高く評価され、九州東回りの殷賑の紐遠くはあるまい。(以下略)
と、同じ調子であるからして、
「薩摩半島に対して虐げられたとってもかわいそうな大隅半島」
…というのはどうもこの市史の編纂基調だったらしい。といいつつ、何故か隣の市である垂水市には敵意満々の記述が多く、初代垂水領主・島津久信のことは「精神分裂病」(記述ママ)と具体的な証拠もなく決めつけ、ボロカスにけなしていたが…。
そういえば島津氏の出身者は明治時代〜昭和初期に国学者として大成した島津久基氏(鹿屋市を地盤とした花岡島津家出身)と島津岩子(花岡島津家初代当主の妻で島津継豊の妹)以外は「(秀吉に対して)しっぽを巻いて逃げる(島津)義久」とかこれでもかこれでもかと陰湿な言葉を丁寧に選んでけなしまくってたなぁ(^^;)。

まあ、この本自体が
上巻:昭和41年(1966年)
下巻:昭和47年(1972年)
というかなり古めの本ですから_(。_゜)/、こういう感情入りまくり講談調の記述も、百歩譲って許すにしても
鹿児島県の他の市町村は平成に入ってから改訂版の市町村史誌を出しているのに、鹿屋市は全く出す気配すらなし。このご時世、予算が苦しいからといっても、他の小さな町村はもっと苦しい中で新資料を取り入れた改訂版を出したわけで。

恨み節だけ書くだけ書いて、後は放置という、鹿屋市のいい加減さが際だってしまう…

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拙ブログ関連ネタ こちら

先日という本を借りてきた。
著者の関口すみ子氏の本来の専門はジェンダー論で、終章とあとがきの内容は正直「うぇっ」と思いましたがヾ(^^;)
残りは興味深く読ませていただきました<(_ _)>

その中で「三章 綱吉・吉宗・定信と姫さま」の項に、興味深い話が引用されていたので抜粋。
関口氏は
(荻生狙來は将軍家からの降嫁は男女の序列を見だして、将軍家を支える儒教に反するとして猛烈に反対していたが)じつは、それどころではない。吉宗は、竹姫の降嫁を、享保十四年(一七二九年)四月から、猛然と押し進めたのである。
(上掲書p.113より)

と、山本博文氏の論と同じ立場に立ってられるが(但し、巻末の参考文献を見ると山本氏の本は参照されてないらしい)、その後
(島津家が竹姫降嫁を受託したことに対して)天英院や老女達の歓喜はひととおりではなかった。秀小路(ばんない注:天英院の上臈)からの返事として佐川(ばんない注:島津家の上臈)が伝えるところに依れば、天英院からは「御満足のたんよく心得申せとの 上意に御座候。御老女様方まて自分の御礼頼上候」という。(中略)天英院、更に西丸老女(秀小路、梅その、さくらい)、本丸老女(三室、豊岡、高瀬、外山、尾のえ)たちまで感謝している様子である。
(上掲書p.115より)

とある。
関口氏は
ここに大奥と島津家の間に確かな絆が出来たのである
(上掲書p.115)

とさらっと流し、その後他の大名家の話などもはさみながら、最後に11代将軍家斉正室(広大院)と13代将軍正室(天璋院)と島津家から2人の正室を出したのはこの時のつながりがきっかけだ、と締めている。

…ちょっと待った!お得意のジェンダーネタがない
関口はんヾ(^^;)、この結婚話熱心にすすめとったんは徳川吉宗はんやないんかいな、でも、最後の方では吉宗全然絡んでないやあらしませんかヾ(^^;)

結局、関口氏の引用した史料(おそらく『鹿児島県史料 旧記雑録追録』と思われる)を見ても、竹姫の島津家押しつけ降嫁に熱心だったのは吉宗と言うより大奥側という印象しか残らないんだが…。

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拙ブログ関連記事 こちら

先日
「島津の若殿様は西郷どんに輪郭が」ヾ(^^;)
と書いていたのだが

本日、図書館から借りた『1億人の昭和史』13巻を見て、気が付いた
西郷どんと言うより曾おばあさんにそっくりじゃん>若殿

隔世遺伝?オソロシス…

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