拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の話はこちら
前回にご紹介したのは、いわゆる「ご紹介」の部分で
これから本編に入ります。
(前回同様、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
後一つ間違いを指摘すると、「本国も生まれた国も薩摩国」としていますが、綱貴は正室・松平定頼女(実名未詳)を母として江戸に誕生しているので、「本国薩摩国、生国は武蔵国」というのが正解。ちなみに、この頃になると江戸藩邸で誕生した殿様が多いために「生国武蔵国」と書かれている人の方が圧倒的に多いです。
今も論議のネタになる島津忠久の出自については後述。
義弘が義久の養子になったという事実は同時代史料では確認できず。豊臣秀吉の命(?)により、実質的に当主と見なされたのは慶長元年。まあ、元禄頃には世間的にはそういう認識だった(というか、島津家がそう吹聴してた?)らしいのが伺えて興味深いです。
それと、これが大きな間違いだが「又三郎」は義弘の字じゃなくて、義久のですね。…ほんとにこの本、大丈夫なのか???ヾ(--;)
家久(元忠恒)の官位の変遷には特に問題なし。この辺は別の資料を見て書いたのかな。ただし没年が3歳ずれてるけど(^^;)
次に家久の息子・光久の話が出てきます。さすがにこの辺になると元禄時代に近いためかどうか巨大な間違いはない。興味深いのは、父・家久に比べて明らかに官位の上昇が抑えられていること。
そして
次に
最初に書かれた「島津忠久頼朝末裔説」なのだが、元禄初年の時点で既に疑義がはさまれていたというのが興味深い。…疑義をはさまれつつも、その後『寛政重修諸家譜』など幕府の公式文書をはじめ『島津家正統系譜』に至るまで、しつこくこの説が定説として載せられ続けられるわけだが…(^^;)
ちなみに、『東鑑』は『吾妻鏡』の事だろう。『盛長私記』はこの当時は鎌倉時代の資料として評価が高かった物らしいが、現在は偽書として資料価値は0となっているらしいこちら。『武衛家譜』は未詳。
…結構長文になってきた。ちなみに、鹿児島藩は他藩より短いほうなんですけどね_(。_゜)/
ということで、更に続く。
前回にご紹介したのは、いわゆる「ご紹介」の部分で
これから本編に入ります。
(前回同様、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
ここでは本国(一族の出身地)と出生地、略歴と家系の説明があります。…家系、「忠行」っていきなり間違ってるやん(正しくは前回の話で書いたとおり「忠竹」。)本国も生まれた国も薩摩国。本名は嶋津氏である。松平薩摩守綱久の子で、大隅守光久の孫に当たる。幼名は又三郎。寛文13年2月19日に父・綱久が亡く なった。この時享年42歳。このため、綱貴が家督を相続した。祖父・大隅守光久が存命であったので綱貴を後見した。彼の先祖は貴久(陸奥守)、義久(修理 大夫、剃髪して龍伯)、義弘(従四位下、兵庫頭)、家久(従三位、中納言大隅守)、光久(大隅守、中将)、綱久(薩摩守)、綱貴(薩摩守、少将)、忠行 (又三郎)
後一つ間違いを指摘すると、「本国も生まれた国も薩摩国」としていますが、綱貴は正室・松平定頼女(実名未詳)を母として江戸に誕生しているので、「本国薩摩国、生国は武蔵国」というのが正解。ちなみに、この頃になると江戸藩邸で誕生した殿様が多いために「生国武蔵国」と書かれている人の方が圧倒的に多いです。
何ともびみょーにつっこみどころのある文ではある(^^;)ここの家伝で言うところでは、鎌倉右大将・源頼朝公の三男・嶋津左兵衛尉忠久は、初め宗兵衛尉と名乗り、左衛門尉、判官、豊後守などの受領を経て、越前・ 若狭・伊勢・信濃などを領していた。後に大隅、薩摩、日向三カ国を賜ったとか。この三カ国を領し、数代続いて家禄を全うした。修理大夫義久の時、天正15 年の夏に太閤豊臣秀吉卿に和平を請い、(引き続き)三カ国を治めていたが、慶長5年9月15日に関ヶ原の合戦で敗北、兵庫頭義弘は家康公に降伏して本領を 安堵したのである。義弘は義久の養子で、実は弟であり、陸奥守貴久の次男である。初め「又三郎」と号し、従四位下に除せられて参議に任ぜられた。慶長五年 に兄・義久の家督を継ぎ、元和5年7月21日死去。享年85歳。妙円寺前参議四品自貞松齢大居士と号した。
今も論議のネタになる島津忠久の出自については後述。
義弘が義久の養子になったという事実は同時代史料では確認できず。豊臣秀吉の命(?)により、実質的に当主と見なされたのは慶長元年。まあ、元禄頃には世間的にはそういう認識だった(というか、島津家がそう吹聴してた?)らしいのが伺えて興味深いです。
それと、これが大きな間違いだが「又三郎」は義弘の字じゃなくて、義久のですね。…ほんとにこの本、大丈夫なのか???ヾ(--;)
…実はここにも間違いがあって(汗)島津但馬守忠久って誰やねん。※正解は島津忠興と思われる。また、佐土原藩自体の成立が慶長14年ではなくて、慶長7年です。しかも鹿児島藩の本領を分けた訳じゃなくて、島津豊久の領地を江戸幕府が一端収公し、あらたに島津以久(島津義久・義弘の従兄弟で、忠興の父)に与えたというのが事実。…何でこんな別物の話になったんだろう。というか、これ鹿児島藩の主張を真に受けて書いたのか? あと、琉球侵攻の経緯が「幕命」による物と明言されているのは興味深い。その子の大隅守家久は、はじめ「又八郎忠恒」といい、将軍家より「松平」氏と(家康の)諱を拝領し「家久」と改名した。慶長14年2月に幕命により琉球国 を攻め取り、同年7月琉球国を賜った。この時に持ち高の内三万石を島津但馬守忠久に分け与え、日向国佐土原に配した。元和3年7月18日に家久は参議に任 じられた。寛永3年には従三位権中納言になった。同15年4月21日に亡くなった。この時60歳。
家久(元忠恒)の官位の変遷には特に問題なし。この辺は別の資料を見て書いたのかな。ただし没年が3歳ずれてるけど(^^;)
その子の大隅守光久は、初名は「又三郎忠元」といい、寛永8年4月21日に従四位下に叙せられ、侍従兼薩摩守に任じられた。正保4年11月13日に武蔵国 王子村に於いて将軍家光公の命により犬追物を上覧に入れた。慶安4年12月25日、左近衛権少将に任ぜられた。同月25日に大隅守に改める。延宝元年12 月28日に権中将に任ぜられ、同2年正月7日に従四位上に叙せられる。
次に家久の息子・光久の話が出てきます。さすがにこの辺になると元禄時代に近いためかどうか巨大な間違いはない。興味深いのは、父・家久に比べて明らかに官位の上昇が抑えられていること。
次は、藩主になることなく亡くなった綱久の話です。幼名「処寿丸」は勿論間違いで、正しくは「虎寿丸」。この頃になると、島津家の当主or当主予定者の初叙は従四位下侍従兼薩摩守というのが固定化しているようです。42歳はこの時代としては決して短命ではないんですが…光久が頑丈で、なかなか隠居しなかったのでこういう結果に成っちゃいました。その子・松平薩摩守綱久は、幼名「処寿丸」後に「又三郎」と改めた。慶安4年12月26日に従四位下に叙せられ侍従兼薩摩守に任ぜられる。寛文13年2月19日に父・光久に先立って亡くなった。この時42歳。
そして
となったわけです。綱貴の経歴は最初に書いてあるから省略されてます。その子・松平薩摩守綱貴は祖父・光久から家を相続した。家伝の大略はこのようなところである。
次に
とあるのは、注目のポイント。私的には、島津左衛門尉忠久は右大将頼朝卿の三男といっているが、不審である。このことは『東鑑』『盛長私記』並びに『武衛家譜』等には見えない。追考する。
最初に書かれた「島津忠久頼朝末裔説」なのだが、元禄初年の時点で既に疑義がはさまれていたというのが興味深い。…疑義をはさまれつつも、その後『寛政重修諸家譜』など幕府の公式文書をはじめ『島津家正統系譜』に至るまで、しつこくこの説が定説として載せられ続けられるわけだが…(^^;)
ちなみに、『東鑑』は『吾妻鏡』の事だろう。『盛長私記』はこの当時は鎌倉時代の資料として評価が高かった物らしいが、現在は偽書として資料価値は0となっているらしいこちら。『武衛家譜』は未詳。
…結構長文になってきた。ちなみに、鹿児島藩は他藩より短いほうなんですけどね_(。_゜)/
ということで、更に続く。
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以前からやで紹介されていて、一度通して読んでみたかったのだが、なかなか入手する機会が無くて、年末も押し迫った今になってやっと読むことが出来た。
ちなみに既に絶版、再版の予定も今のところ無し!欲けりゃ古本屋に福沢諭吉を何枚か持っていかないと無理!…という稀覯本である。私は非地元の図書館から取り寄せました…_| ̄|○
中身は口語訳が一切無く、読みがなが一部ふってある以外はほぼ原文!…ですが、高校生以上なら何となく読めると思います(たぶん。)※ゆとり教育以降の義務教育しか受けられなかった人はこの限りにあらず
読んでみると、確かにこれは出自不明のぁゃιぃ本ではあるが、おもしろい。昔も今も、有名人のうわさ話は好きだったのね、みんなヾ(^^;)
これの口語訳だけで、このブログ1年間持たせられそうな内容なのだが、残念なことに年内に返却しないといけない_| ̄|○2週間で約250人分の殿様の噂話(しかも漢文)をUPするのはとうてい無理なので、拙別館にも関係のある2人の殿様をネタにしてみる。
(以降、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
まずは鹿児島藩(薩摩藩)の元禄3年当時の殿様・第3代藩主+島津宗家20代当主の島津綱貴さんから。
ちなみに登場する順番は巻の六、最初から数えて(巻1に出てくる家康以前の徳川家当主は除く)11番目です。ちなみに巻の二〜巻の四までは御三家+親藩大名なので、実質的には
前田家→伊達家→島津家 と3番目。表高では伊達家より上(勿論水増しバレバレ)なのだが、実力は伊達より下というように見られてたということか。ちなみに島津家の次は細川家→黒田家→浅野家→毛利家→鍋島家…と外様国持大名が続き、鍋島の次、巻の七のトップバッターとして譜代筆頭の井伊家が登場します。
話がずれた。では本文。まずは最初の名前官位紹介から。
押しつけあたえられている。
官位の「従四位下」は国持大名の初任官としてこんなところ。少将は…適当なのか、よくわからん_(。_゜)/。
紋の「十文字」は今も鹿児島県で著作権も何も無視して※家紋自体には基本的に著作権が発生しません 参照こちら薩摩揚げ屋から饅頭屋までこき使われているヾ(^^;)あの紋章。
桐は貸し衣装屋でオールマイティ紋として使われている「五三の桐」です。『島津家列朝制度』(『鹿児島県史料』「薩摩藩法令史料集」、『藩法集』(創文社)所収)でも、島津家の家紋として紹介されています。豊臣秀吉から拝領した物だったか。ただし、島津家では筆頭の家紋が丸十、次は近衛牡丹(近衛家から拝領)で、桐は余り重要な紋ではなかったようです。
庚午(=元禄3年)の後には数え年が入るはずだったのですが、書き忘れた物か空欄になっています。ちなみにこの年の綱貴の数え年は41歳です。
正室の父・「松平信平」はなかなか曰く付きの人物で、徳川家光に邪険にされた正室「中の丸殿」鷹司孝子の弟(だからもともと公家)が、何故か大名として取り立てられたという経歴です。こういうところから正室を迎えていたと言うことから見ても、この当時の島津家がなかなか見栄張りヾ(^^;)だったことがうかがえます。が、元禄3年時点ではこの正室は実は死んでいまして(○。○)、その後に迎えた上杉綱憲の娘(というのが真っ赤な偽りで、実は綱憲の妹、つまりあの吉良上野介の娘)とも延宝8年には離婚済み。…『土芥寇讎記』の調査って、結構いい加減か?ヾ(^^;)
嫡子の「忠竹」は後の島津吉貴です。改名前の名前で登場しています。
…長くなったので以下次回に続く_(。_゜)/
ちなみに既に絶版、再版の予定も今のところ無し!欲けりゃ古本屋に福沢諭吉を何枚か持っていかないと無理!…という稀覯本である。私は非地元の図書館から取り寄せました…_| ̄|○
中身は口語訳が一切無く、読みがなが一部ふってある以外はほぼ原文!…ですが、高校生以上なら何となく読めると思います(たぶん。)※ゆとり教育以降の義務教育しか受けられなかった人はこの限りにあらず
読んでみると、確かにこれは出自不明のぁゃιぃ本ではあるが、おもしろい。昔も今も、有名人のうわさ話は好きだったのね、みんなヾ(^^;)
これの口語訳だけで、このブログ1年間持たせられそうな内容なのだが、残念なことに年内に返却しないといけない_| ̄|○2週間で約250人分の殿様の噂話(しかも漢文)をUPするのはとうてい無理なので、拙別館にも関係のある2人の殿様をネタにしてみる。
(以降、『土芥寇讎記』の引用は、すべてばんないの訳です)
まずは鹿児島藩(薩摩藩)の元禄3年当時の殿様・第3代藩主+島津宗家20代当主の島津綱貴さんから。
ちなみに登場する順番は巻の六、最初から数えて(巻1に出てくる家康以前の徳川家当主は除く)11番目です。ちなみに巻の二〜巻の四までは御三家+親藩大名なので、実質的には
前田家→伊達家→島津家 と3番目。表高では伊達家より上(勿論水増しバレバレ)なのだが、実力は伊達より下というように見られてたということか。ちなみに島津家の次は細川家→黒田家→浅野家→毛利家→鍋島家…と外様国持大名が続き、鍋島の次、巻の七のトップバッターとして譜代筆頭の井伊家が登場します。
話がずれた。では本文。まずは最初の名前官位紹介から。
最初からいきなりつっこみ所で「松平」となっているが、実はこれで正しかったりする。ちなみに前田も伊達も黒田も、細川を除く外様国持大名のほとんどが「松平」姓を松平薩摩守源綱貴 従四位下少将
紋 十文字桐 庚午(空欄)
正室は、松平左兵衛督信平娘。
嫡子 島津又三郎忠竹
官位の「従四位下」は国持大名の初任官としてこんなところ。少将は…適当なのか、よくわからん_(。_゜)/。
紋の「十文字」は今も鹿児島県で著作権も何も無視して※家紋自体には基本的に著作権が発生しません 参照こちら薩摩揚げ屋から饅頭屋までこき使われているヾ(^^;)あの紋章。
桐は貸し衣装屋でオールマイティ紋として使われている「五三の桐」です。『島津家列朝制度』(『鹿児島県史料』「薩摩藩法令史料集」、『藩法集』(創文社)所収)でも、島津家の家紋として紹介されています。豊臣秀吉から拝領した物だったか。ただし、島津家では筆頭の家紋が丸十、次は近衛牡丹(近衛家から拝領)で、桐は余り重要な紋ではなかったようです。
庚午(=元禄3年)の後には数え年が入るはずだったのですが、書き忘れた物か空欄になっています。ちなみにこの年の綱貴の数え年は41歳です。
正室の父・「松平信平」はなかなか曰く付きの人物で、徳川家光に邪険にされた正室「中の丸殿」鷹司孝子の弟(だからもともと公家)が、何故か大名として取り立てられたという経歴です。こういうところから正室を迎えていたと言うことから見ても、この当時の島津家がなかなか見栄張りヾ(^^;)だったことがうかがえます。が、元禄3年時点ではこの正室は実は死んでいまして(○。○)、その後に迎えた上杉綱憲の娘(というのが真っ赤な偽りで、実は綱憲の妹、つまりあの吉良上野介の娘)とも延宝8年には離婚済み。…『土芥寇讎記』の調査って、結構いい加減か?ヾ(^^;)
嫡子の「忠竹」は後の島津吉貴です。改名前の名前で登場しています。
…長くなったので以下次回に続く_(。_゜)/
西武グループの創始者・堤康次郎が異様に華族・皇族に執着心があり、戦後、没落した華族や皇族の屋敷や土地を二束三文で買いあさっていたというのは有名な話だが 参考こちら
島津家もその例外ではなかったらしい。
意外に思われるかも知れないが、戦前から戦後に掛けて、島津家は東京に持っていた広大な家屋敷を売却したりして転々とする羽目になっている。理由はいくつか挙げられるが
(1)松方財閥の破たんの時、筆頭株主だったため連帯責任をとった(参考 『日本の大名家はいま』
)
(2)太平洋戦争の激化により、屋敷の維持が不可能になった
(3)ご存じ戦後の華族制度廃止やGHQによる過剰な財産税、それによる財産の処分に伴う物
最後の(3)はほとんどの皇族・華族がそういう目にあったのでともかくとしても、「明治維新の果実は薩長閥が持っていった」と一般的に言われるが、昭和に入ってからの島津家はとてもそんな通説とはかけ離れた実態だったことが分かる。
…で、その土地の売却に絡んだのが堤康次郎なのである。
『しらゆき』(島津忠重・伊楚子追悼文集)に島津公爵家の屋敷の変遷が詳しく記載されているが、残念ながら禁帯出図書だった上、copyを取ってないのでおぼろげな記憶に頼って書く。
・島津家の屋敷として有名な袖ヶ崎邸は太平洋戦争の激化のため日本銀行に売却されるが、この時に仲介したのが堤康次郎
・戦後、財産税の捻出のため、鎌倉の別荘などを売り払うが、それらを購入したのが堤康次郎
・その後、居所を転々とする島津一家の家屋敷を斡旋したのが堤康次郎
ところが『しらゆき』には残念なことに、いつ何をきっかけとして堤康次郎なるいかがわしい人物が島津家に深く関わることになったのか、そのいきさつは全く書かれてなかった。
おまけ
最終的に島津家は杉並区の300坪のお屋敷に落ち着かれたそうだが、忠重長女・経子氏の回想によると、母の伊楚子さんは
「300坪なんて狭すぎる!着替えてるのが隣から見えるじゃないの!」
…と、ちょーごきげんななめだったらしい(^^;) …感覚ずれてられるのがさすが元公爵夫人か?
おまけ2
『しらゆき』によると、忠重の孫・修久(現島津本家当主)が結婚式を挙げたのが赤坂プリンスホテル(現グランドプリンスホテル赤坂)。説明するまでもないが、堤康次郎が李王家から二束三文で買いたたいた事で有名であり、現在残る旧館はその当時李王家が使っていた建物そのものである。…何でこんな因縁のあるところで…昭和40年代は披露宴の出来るホテルは多くなかったとはいえ、他に帝国とかオークラとかニューオータニとかあるのに…。
島津家もその例外ではなかったらしい。
意外に思われるかも知れないが、戦前から戦後に掛けて、島津家は東京に持っていた広大な家屋敷を売却したりして転々とする羽目になっている。理由はいくつか挙げられるが
(1)松方財閥の破たんの時、筆頭株主だったため連帯責任をとった(参考 『日本の大名家はいま』
(2)太平洋戦争の激化により、屋敷の維持が不可能になった
(3)ご存じ戦後の華族制度廃止やGHQによる過剰な財産税、それによる財産の処分に伴う物
最後の(3)はほとんどの皇族・華族がそういう目にあったのでともかくとしても、「明治維新の果実は薩長閥が持っていった」と一般的に言われるが、昭和に入ってからの島津家はとてもそんな通説とはかけ離れた実態だったことが分かる。
…で、その土地の売却に絡んだのが堤康次郎なのである。
『しらゆき』(島津忠重・伊楚子追悼文集)に島津公爵家の屋敷の変遷が詳しく記載されているが、残念ながら禁帯出図書だった上、copyを取ってないのでおぼろげな記憶に頼って書く。
・島津家の屋敷として有名な袖ヶ崎邸は太平洋戦争の激化のため日本銀行に売却されるが、この時に仲介したのが堤康次郎
・戦後、財産税の捻出のため、鎌倉の別荘などを売り払うが、それらを購入したのが堤康次郎
・その後、居所を転々とする島津一家の家屋敷を斡旋したのが堤康次郎
ところが『しらゆき』には残念なことに、いつ何をきっかけとして堤康次郎なるいかがわしい人物が島津家に深く関わることになったのか、そのいきさつは全く書かれてなかった。
おまけ
最終的に島津家は杉並区の300坪のお屋敷に落ち着かれたそうだが、忠重長女・経子氏の回想によると、母の伊楚子さんは
「300坪なんて狭すぎる!着替えてるのが隣から見えるじゃないの!」
…と、ちょーごきげんななめだったらしい(^^;) …感覚ずれてられるのがさすが元公爵夫人か?
おまけ2
『しらゆき』によると、忠重の孫・修久(現島津本家当主)が結婚式を挙げたのが赤坂プリンスホテル(現グランドプリンスホテル赤坂)。説明するまでもないが、堤康次郎が李王家から二束三文で買いたたいた事で有名であり、現在残る旧館はその当時李王家が使っていた建物そのものである。…何でこんな因縁のあるところで…昭和40年代は披露宴の出来るホテルは多くなかったとはいえ、他に帝国とかオークラとかニューオータニとかあるのに…。
拙ブログ関連ネタ こちら
『炉辺南国記』で興味深い話発見。コピーを取らなかったので記憶に頼って書くが
島津忠重は長年天璋院の墓参りをしたかったそうなのだが
忠重の姉・正子(なおこ)が徳川本家17代当主・徳川家正の夫人であったにも関わらず
両家の間には交流はほとんどなく、
戦時下の昭和17年になってようやく寛永寺にある天璋院の墓参りが出来たとのこと。
『花葵』で家正・正子の三女である保科順子さんの書いた話が島津家側からの証言でも裏付けられた。
『しらゆき』で徳川為子(忠重の異母妹、紀州徳川家、徳川頼貞夫人)が忠重に寄せた「追悼文」が載っていた。というか、追悼文という体裁になってない。その文で為子が語るには「兄とは腹違いの上別居して、ほとんど交流がなかったので思い出がない」とのこと。…旧習が強く残っていた中で育った大名華族はこんな物かも知れません。
で、その数少ない「思い出」というのが、実は忠重がらみじゃなくて何故か大山巌がらみなのである。それは忠重の屋敷で開かれた宴会に、子供の為子も参加したのだが、その時隣の席になったのが大山巌。この宴会で、大山巌はスピーチ後に給仕の椅子をひくタイミングが悪かったために床にひっくり返るという、吉本興業芸を披露する羽目になってしまうのである。この時、子供の為子でもさすがに笑えず呆然としていたとか。ちなみにこの席には忠重の「家庭教師」であったハワードも同席し、その話をしっかり書き残している。よっぽどおもしろいすごい状況だったので、みんなの記憶に残ったのだろう…。
ところで、この追悼文を書かされた時点では(昭和46年頃)、既に紀州徳川家は財産を失い、為子は貧困の中で暮らしていたと思うのだが…。この依頼をどういう気持ちで受けたんだろうか。
『炉辺南国記』で興味深い話発見。コピーを取らなかったので記憶に頼って書くが
島津忠重は長年天璋院の墓参りをしたかったそうなのだが
忠重の姉・正子(なおこ)が徳川本家17代当主・徳川家正の夫人であったにも関わらず
両家の間には交流はほとんどなく、
戦時下の昭和17年になってようやく寛永寺にある天璋院の墓参りが出来たとのこと。
『花葵』で家正・正子の三女である保科順子さんの書いた話が島津家側からの証言でも裏付けられた。
『しらゆき』で徳川為子(忠重の異母妹、紀州徳川家、徳川頼貞夫人)が忠重に寄せた「追悼文」が載っていた。というか、追悼文という体裁になってない。その文で為子が語るには「兄とは腹違いの上別居して、ほとんど交流がなかったので思い出がない」とのこと。…旧習が強く残っていた中で育った大名華族はこんな物かも知れません。
で、その数少ない「思い出」というのが、実は忠重がらみじゃなくて何故か大山巌がらみなのである。それは忠重の屋敷で開かれた宴会に、子供の為子も参加したのだが、その時隣の席になったのが大山巌。この宴会で、大山巌はスピーチ後に給仕の椅子をひくタイミングが悪かったために床にひっくり返るという、吉本興業芸を披露する羽目になってしまうのである。この時、子供の為子でもさすがに笑えず呆然としていたとか。ちなみにこの席には忠重の「家庭教師」であったハワードも同席し、その話をしっかり書き残している。よっぽど
ところで、この追悼文を書かされた時点では(昭和46年頃)、既に紀州徳川家は財産を失い、為子は貧困の中で暮らしていたと思うのだが…。この依頼をどういう気持ちで受けたんだろうか。
拙ブログ関連ネタ 1 2 3
別件を検索していたら、こんな貴重な証言を発見。実にありがとうございます<(_ _)>
HPが無くなったら悲しいので引用して保管。
「絹のハンカチがお弁当包みのお昼」ですか…我が家なんか100均のバンダナヾ(--;)
なんだか優雅ですなぁ。とともに、結婚当初はそんなに不仲でもなかったのかもとも思いました。
本日、機会があって
『しらゆき 島津忠重・伊楚子回想録』(島津出版会)
『炉辺南国記』(鹿児島史談会、忠重が南日本新聞に連載していた回想録を編集した物)
を、わざわざ隣県の図書館までいって読んで参りました。何しろ禁帯出だったので。正直言って、開館時間では読み切れないほど内容豊富でした。古本屋で入手するしかないかなぁ。
これらの本では見事なくらいに近衛昭子(後「野口昭子」)の話を消去していますが(当たり前か)、『しらゆき』に載っていた島津経子(忠重長女)の回想録によると、忠秀・昭子夫妻の間に生まれた長男・忠敬が夭折した後に舅の忠重が変(失礼)になったようで、どうもこの辺が夫妻の不和の一因になったような気がしてなりません…。
ところでこの禁帯出の『しらゆき』、見た感じ新品同様、寄贈されてから約20年、どうも私が初めて読んだお客様のようだったんだが(○。○)。ちなみに中表紙に島津忠秀氏の直筆サイン入りでした…この本、永久に禁帯出だろうな_| ̄|○
『炉辺南国記』も今は亡き超有名某教授の蔵書だった物で、たぶん永久に禁帯出っぽい。
ところで『炉辺南国記』はともかくとして、どうして我が居住地の図書館には『しらゆき』寄贈されなかったんだろ。やっぱり長州藩閥首魁の大物が初代知事を務めた県には寄贈する気が起こらなかったんだろうかヾ(--;)
別件を検索していたら、こんな貴重な証言を発見。実にありがとうございます<(_ _)>
HPが無くなったら悲しいので引用して保管。
http://home.att.ne.jp/grape/shindo/kaisouroku.htm淡水研の山川健重所長、島津忠秀企連室長、東水研の日笠七郎所長と私の四人は「嘆きの会」と称して、西新宿に出来たばかりの最初の高層ビルのホテルのラウンジで「水研の在り方」について「ごまめの歯ぎしり」的な論議して居ました。今では懐かしい想い出ですけれども……。
因みにこの島津忠秀氏は鹿児島の島津家第30代当主島津忠重のご息子で、香淳皇后の従姉弟であり、元夫人の昭子さんは近衛文麿の長女と云う家柄の人でし た。余計な話かも知れませんが、私の知る限り水産研究者で皇族(昭和天皇の後腮類、秋篠宮の鯊魚類など)以外では最も高位の人だったと思います。
私が農林省水産試験場に入って暫くした頃、天草から上京して本場の同氏の部屋を訪ねた時、冬だったので厚手のオーバーコートを羽織っていましたが、同氏は実に気さくに背後に回って脱ぐのを手伝って頂いたのを想い出します。
郷里の鹿児島駅に着くと県知事や市長が駅頭に出迎えに出たと云う話でした。近衛文麿の長女だった奥さんが毎日お昼になると「絹のハンカチに包んだ弁当箱を 車で持参された」などの逸話を聞いたことがある。戦後鹿児島大学が設立される準備期、「初代学長に・・・」と地元から懇望されたが「私の柄ではない」と固 辞されたとも聞きました。
「絹のハンカチがお弁当包みのお昼」ですか…我が家なんか100均のバンダナヾ(--;)
なんだか優雅ですなぁ。とともに、結婚当初はそんなに不仲でもなかったのかもとも思いました。
本日、機会があって
『しらゆき 島津忠重・伊楚子回想録』(島津出版会)
『炉辺南国記』(鹿児島史談会、忠重が南日本新聞に連載していた回想録を編集した物)
を、わざわざ隣県の図書館までいって読んで参りました。何しろ禁帯出だったので。正直言って、開館時間では読み切れないほど内容豊富でした。古本屋で入手するしかないかなぁ。
これらの本では見事なくらいに近衛昭子(後「野口昭子」)の話を消去していますが(当たり前か)、『しらゆき』に載っていた島津経子(忠重長女)の回想録によると、忠秀・昭子夫妻の間に生まれた長男・忠敬が夭折した後に舅の忠重が変(失礼)になったようで、どうもこの辺が夫妻の不和の一因になったような気がしてなりません…。
ところでこの禁帯出の『しらゆき』、見た感じ新品同様、寄贈されてから約20年、どうも私が初めて読んだお客様のようだったんだが(○。○)。ちなみに中表紙に島津忠秀氏の直筆サイン入りでした…この本、永久に禁帯出だろうな_| ̄|○
『炉辺南国記』も今は亡き超有名某教授の蔵書だった物で、たぶん永久に禁帯出っぽい。
ところで『炉辺南国記』はともかくとして、どうして我が居住地の図書館には『しらゆき』寄贈されなかったんだろ。やっぱり長州藩閥首魁の大物が初代知事を務めた県には寄贈する気が起こらなかったんだろうかヾ(--;)
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