拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1267.html2009.02.09 夫婦、島津家久と亀寿・悪い話
649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 22:58:08 ID:ODhpooIQ
島津亀寿は前夫・久保が朝鮮で陣没した後、家久(忠恒)と結婚した。これによって家久は
薩摩太守の跡継ぎとなっており、つまり島津宗家の相続権は、亀寿にあったようである。
家久はこれが相当不満だったようで、養父・義久の死後、亀寿がその隠居所である国分を
弔問のために訪れると、そのまま彼女を蟄居させてしまった。 国分での彼女の生活は
かなり苦しいものだったようで、見かねた義弘が伊勢貞昌に対策を命じている。
亀寿は臨終の床で、隠し持っていた島津家の重宝(この為家久に殺されなかった)を
老臣・山田有栄に託した。その際も、
「いいですか、これは必ず又三郎殿に渡して下さい。家久殿じゃなくて又三郎殿ですよ!!」
と、わざわざ言い残して死んだ。
遺言は守られ、重宝を相続した又三郎こと光久が亀寿の養子となり、島津宗家を継いだ。
(武功雑記より)
しかし、彼女の苦難は死後も続いた。
寛永9年(1632)、その話を聞いた家老・北郷忠能は、主君の書斎へ転がり込んだ。
「と、とのー!一大事、一大事にござる!家久様がまたしでかしてくれましたぞ!」
「うるせーな、今さら父上がナニやろうと驚かねーよ。今度はなんだ?」
「いえ、先年亡くなられた亀寿様の墓ですが」 「養母上?高野山で祀ってるんじゃね?」
「その墓が、ありませぬ。」 「・・・ちょっと待て、言ってる意味がわからん。」
「ですから、高野山に納骨したというのは家久様のウソで、お骨はまだ国分に放置。
つまり元太守の娘、前太守の妻、現太守の養母の 墓 が あ り ま せ ん。」
驚いた光久は至急、亀寿の遺骨を高野山に納骨した。また、薩摩本国にも菩提寺を建て、
家臣たちに彼女の祥月命日の5日には、必ず参拝するよう命じた。
(旧記雑録より)
鹿児島県立美術館の敷地に『ジメサア』と呼ばれる石像がある。
ジメサアとは亀寿の法号『持明院様』のなまったものであり、その説明には
『持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が
尊敬され、人々は 『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』 夫人の人柄を
慕い、毎年10月5日の命日には、この像におしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるように
おまいりするならわしが残っています』
と、なっている。 不遇の人生を送り、死後まで『ブス』と言われる彼女に、合掌。
…という話があるのを知って、すぐさま図書館に「武功雑記」(纂録類/改定史籍集覧/第10冊 纂録類,第2//臨川書店所収、絶版。おそらく「備前老人物語,武功雑記 (古典文庫 57)
ところが。
同じ記事を見て調べた人がいたらしく、そのブログによると、なんとwebで見られるじゃーん。…図書館に行った交通費は何だったんだ。
web版「武功雑記」はこちらです。
ばんない版現代語訳は以下の通り
島津龍伯(=島津義久)には男子がおらず、女子一人がいた。これを兵庫(=島津義弘)嫡子又八郎(おそらく島津又一郎久保のこと、書き間違いと思われる)と結婚させ家督を継がせるはずであった。ところが、又八郎(しつこく書くが又一郎久保と勘違いしている)は高麗(=朝鮮半島)で病死してしまった。そのため、又八弟(これがほんとの又八郎、つまり島津忠恒(後の18代当主島津家久))を右記の娘と結婚させて跡継ぎとした。この又八弟が(後の※ばんない補足)中納言である。この娘はことのほか不細工で、しかも嫉妬深かった。中納言殿(=島津忠恒)を殺害しようとしたことが2度もあった。島津龍伯の一周忌の時、鹿児島城から10里離れたところにある隠居所の国府(=現在の霧島市国分)ま で(娘が)法要に出かけた際、これ幸いと1万石の堪忍料を与えて蟄居させてしまった。娘は髪を短く切り、ヤマンバのような姿と変わり果てて、ひたすら読経 だけの日々を送った。読経の時に願ったことは「島津家が永遠に栄ん事」であった。ところで中納言殿には2人の男子があった。一人は「西の丸」という女性が 生んだ男子で、もうひとりは「東の丸」という女性が生んだ男子である。東の丸は島津又左衛門という男性と皆吉氏出身の女性の夫婦の間に生まれた娘であっ た。また、右記の男子は同い年で西の丸が生んだ男子の方が何ヶ月か年上であった。どちらを嫡子にするべきか案じられたが、島津氏の系図は国府の正室が持っ ていて渡す様子もない。そのため、ある老臣が国分に行って「どうしても系図を頂きたい」と懇願した。その系図を渡すときに(娘は)「この系図は絶対に中納 言殿に渡してはなりません。皆吉腹(=東の丸)の男子は島津氏出身なのでお渡し下さい(※この文ママ訳)、この子を嫡子と定めて下さい」と申し渡した。これが今の大隅守(=島津光久)である。
…えっと、細かいところにつっこみ所はいろいろあるがヾ(^^;)、なかなか興味深い話である。
特に興味深いのは蟄居されたときに髪の毛を短く切って読経ばかりの日々に突入したと言うこと。実は以前から亀寿は父の死と共に出家したんじゃないかと想像していたのですが、どうも実際にそういう話が伝わっていたようですね。それと、「嫉妬深く、忠恒を2回も殺そうとした」とありますが、万が一忠恒殺そうとしたことがあっても、それは嫉妬からじゃなくて、家督争いからでしょうね。
あと、この記事は東の丸殿と西の丸殿を混同しているようです。てか、肝心の島津家の史料でも混同されている気配があるのだが(苦笑)
ちなみに、この「武功雑記」。書いたのは松浦鎮信で1696(元禄9年)のこと、それを編集したのが鎮信の子孫の松浦詮だそうです。…近所の藩にまでお家騒動バレバレだったんですねそれも割と早いころにばれてたとわ。
上の話は拙別館の記事をあわせて読むとなかなか味わい深い物になるかも知れません。
ということで宣伝ヾ(^^;)
島津亀寿
東の丸(と上の記事で書かれている本当は西の丸殿)
西の丸(と上の記事で間違われてしまった本当は東の丸殿)
東の丸(ほんとは「西の丸」)の母・皆吉氏
PR
以前からちょっと気になっていたのだが
現在神戸に本社があり、デパ地下スイーツの走りでもある「ガラスコップのプリン」「チーズケーキ」を流行らせた モロゾフ という会社があるが、実は本来の創業者から後から入った出資者が会社を乗っ取ったという噂を聞いていた。
先日機会があり、この両方の関係者による本を読んだのだが
これは創業者側の立場から書かれた本
こちらは後にモロゾフ社長になった人(出資者の息子)の追悼本らしい
両書を読んだ印象では「出資者側がかなり不当な手段で会社を乗っ取った」というのはどうも真実のようである。
上掲書「大正15年の聖バレンタイン」では会社乗っ取りに関してかなり詳細な話が書かれているが、ある時突然、創業者のモロゾフ氏が帳簿類の確認など財務に関する業務から外されるようになり、不信の高まった創業者側が裁判を起こすが、白系ロシア人という立場もあって弁護士に恵まれず、結局裁判に負けて会社から追い出された上に、自分の苗字を取った店名「モロゾフ」の商号まで出資者側に取られてしまう、といった経緯であったようである。現在であればおそらく商号までは出資者に取られることはなかったのではないかと思われる。
そのため、創業者一族は以後自分の苗字を店名に使えないという事態に陥り、その後はヴァレンタイン商店、戦後はコスモポリタン製菓という商号で洋菓子店を経営した。しかし、コスモポリタン製菓は惜しまれつつ2006年8月15日に閉店した。
一方、出資者子息追悼本の「大正ロマンを〜」のほうは「大正15年の〜」より後に上梓されたことから、上記の点について何らかの反論があるかと思いきや
しかし、出資者子息(後の「モロゾフ」社長)の周辺を調べていくと、会計上の問題での対立はなくても、いずれは破たんに向かう運命だったように思えてならない。
というのも、この出資者子息・後のモロゾフ社長である葛野友太郎は学生時代はバリバリの日本共産党活動家であったというのである(後に転向)。そればかりではない、だいたい葛野家自体が神戸有数の富豪であったにもかかわらず、日本共産党と深く関わりのある一族だったのである。葛野友太郎の叔母・龍は、戦前・戦後と日本共産党の幹部として君臨するも100歳になったときに仲間を売っていたことがばれて除名されたというあの野坂参三の妻であった。それどころか、友太郎の父・葛野友槌自体が野坂の縁戚だったという。この関係についてはの巻頭に添付されている「家系図」に詳しい。
しかし、モロゾフ一家はその共産党のために故郷を追われ、流転の末に日本にたどり着いた白系ロシア人である。出資者・葛野一族のこの本性が分かった時点でおそらく不信と対立は深まったことは予想に難くない。それとも葛野一族は最初から白系ロシア人のモロゾフ一家を陥れるつもりで出資したのだろうか…「モロゾフ」=葛野家側が沈黙を守る今となってはその真意は謎である。
しかし、「モロゾフ」といういかにもロシア的な商号(ブランド)を乗っ取りつつ、いかにそのロシア色を消そうと葛野友太郎が躍起になっていたのかは、その後の商品展開から伺える。
上掲書「大正ロマンを〜」によれば、葛野友太郎は「モロゾフ」の看板商品として
・プリン
・チーズケーキ
・アルカディア(クッキー)
を世に送り出すが、どれもロシア起源ではないか、或いはロシア文化の影響の薄いお菓子なのである。まずプリンはフランス菓子だし、チーズケーキは葛野友太郎がドイツで食したときに主力商品にしようとしたという。「アルカディア」の名前は当然ロシア語ではないし、マカロンクッキーはフランス菓子である。
しかし、「モロゾフ」より後にこの業界に参入したパルナス製菓が東西対立激しい中「モスクワの味」をど派手に(苦笑)アピールして成功した状況を葛野はどう思っていたのだろう。
葛野はロシア的な物を避けていたように思える−意識的にか無意識のうちにかは分からないけれど。
拙ブログ関連ネタ こちら
現在神戸に本社があり、デパ地下スイーツの走りでもある「ガラスコップのプリン」「チーズケーキ」を流行らせた モロゾフ という会社があるが、実は本来の創業者から後から入った出資者が会社を乗っ取ったという噂を聞いていた。
先日機会があり、この両方の関係者による本を読んだのだが
これは創業者側の立場から書かれた本
こちらは後にモロゾフ社長になった人(出資者の息子)の追悼本らしい
両書を読んだ印象では「出資者側がかなり不当な手段で会社を乗っ取った」というのはどうも真実のようである。
上掲書「大正15年の聖バレンタイン」では会社乗っ取りに関してかなり詳細な話が書かれているが、ある時突然、創業者のモロゾフ氏が帳簿類の確認など財務に関する業務から外されるようになり、不信の高まった創業者側が裁判を起こすが、白系ロシア人という立場もあって弁護士に恵まれず、結局裁判に負けて会社から追い出された上に、自分の苗字を取った店名「モロゾフ」の商号まで出資者側に取られてしまう、といった経緯であったようである。現在であればおそらく商号までは出資者に取られることはなかったのではないかと思われる。
そのため、創業者一族は以後自分の苗字を店名に使えないという事態に陥り、その後はヴァレンタイン商店、戦後はコスモポリタン製菓という商号で洋菓子店を経営した。しかし、コスモポリタン製菓は惜しまれつつ2006年8月15日に閉店した。
一方、出資者子息追悼本の「大正ロマンを〜」のほうは「大正15年の〜」より後に上梓されたことから、上記の点について何らかの反論があるかと思いきや
外国人との共同経営にありがちなトラブルで(中略)バレンタイン氏は会社を去りました。
とあるだけである。おそらく有効な反論ができないためさわらず触れずと言う書き方しかできなかったのであろう、と思わざるを得ない。
しかし、出資者子息(後の「モロゾフ」社長)の周辺を調べていくと、会計上の問題での対立はなくても、いずれは破たんに向かう運命だったように思えてならない。
というのも、この出資者子息・後のモロゾフ社長である葛野友太郎は学生時代はバリバリの日本共産党活動家であったというのである(後に転向)。そればかりではない、だいたい葛野家自体が神戸有数の富豪であったにもかかわらず、日本共産党と深く関わりのある一族だったのである。葛野友太郎の叔母・龍は、戦前・戦後と日本共産党の幹部として君臨するも100歳になったときに仲間を売っていたことがばれて除名されたというあの野坂参三の妻であった。それどころか、友太郎の父・葛野友槌自体が野坂の縁戚だったという。この関係についてはの巻頭に添付されている「家系図」に詳しい。
しかし、モロゾフ一家はその共産党のために故郷を追われ、流転の末に日本にたどり着いた白系ロシア人である。出資者・葛野一族のこの本性が分かった時点でおそらく不信と対立は深まったことは予想に難くない。それとも葛野一族は最初から白系ロシア人のモロゾフ一家を陥れるつもりで出資したのだろうか…「モロゾフ」=葛野家側が沈黙を守る今となってはその真意は謎である。
しかし、「モロゾフ」といういかにもロシア的な商号(ブランド)を乗っ取りつつ、いかにそのロシア色を消そうと葛野友太郎が躍起になっていたのかは、その後の商品展開から伺える。
上掲書「大正ロマンを〜」によれば、葛野友太郎は「モロゾフ」の看板商品として
・プリン
・チーズケーキ
・アルカディア(クッキー)
を世に送り出すが、どれもロシア起源ではないか、或いはロシア文化の影響の薄いお菓子なのである。まずプリンはフランス菓子だし、チーズケーキは葛野友太郎がドイツで食したときに主力商品にしようとしたという。「アルカディア」の名前は当然ロシア語ではないし、マカロンクッキーはフランス菓子である。
しかし、「モロゾフ」より後にこの業界に参入したパルナス製菓が東西対立激しい中「モスクワの味」をど派手に(苦笑)アピールして成功した状況を葛野はどう思っていたのだろう。
葛野はロシア的な物を避けていたように思える−意識的にか無意識のうちにかは分からないけれど。
拙ブログ関連ネタ こちら
…タイトルの人物を知っているというあなたはかなりの島津ヲタヾ(^^;)
知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)
」)という単純な物ではなく、本当の対立は島津斉宣と広大院茂姫の間にあったのではないかという気がするのだが…。
拙ブログ関連ネタ
公家・堤家と鹿児島藩
文化朋党の乱
知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
とある。(島津)忠厚 母 島津式部少輔久般女(以下略)
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
訳していても何がなにやら分からない文章であるが、要点をいうと(重豪の)御子様方のお母上のことについて、勘解由殿(=市田盛常、重豪側室・お登勢の方の弟、徳川家斉正室・広大院茂姫の叔父)におたずねしたところ、善兵衛殿(=篠原国宝)がここから出発される前に勘解由殿から話は聞いているご様子でした。雄五郎様(=今回のネタ(^^;))、亀五郎様(重豪の四男、五男とも)、感之介様(=重豪の五男、六男とも)ご三名様のご実母は島津式部少輔殿の密子(=隠し子)と申すことについて、この度他の御用で大炊殿(該当人物未詳)か ら「於房の方とはどの方の娘なのでしょうか」と訪ねられ、先のお達しの命によって回答申し上げたところ、「江戸では”密子”と申し渡すようにと聞いたのだ が」とお尋ねになり、私どもは承知しているとはいわなかったのですが、もっとも系図などを見ても(御子様の)母上については”密子”と記されております が、後から疑わしくなったのでしょうかと存じますがと申し上げたところ、まず私は思うところがあって「留守居の方へ餘家抔へも有之儀候哉→適当に訳できないためそのままにしておく)」 と、当たり障りのないよう、また尋ねておいてくれとの旨おっしゃいました。そこで、お留守居方に尋ねたのですが、いまだ回答がありません。「密子」という 用語は系図のどこを見ても見あたらず、いずれ「養女」と記されるだろうと私では考えていたのですが、そちらの方でも今一度この件をご検討下さり、勘解由様 にも伺いを立てて下さい。(以下略)
- 重豪の3人の息子の母「於房の方」は「島津式部少輔の隠し子」と称することになっていた
- が、系図などの公式文書を見てもそんなことは一言も書いていない、実は「於房の方は島津式部少輔の養女」じゃないのか?
- この件について市田盛常にもう一度確認を取ってくれ
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
二 亀五良 天明四年辰二月二十八日生同六年四月十一日夭
香樹院殿秋露幻清大禅童子
母島津式部少輔密子ノ筋
三 感之介 天明五年午八月十七日生同六年四月十一日夭
義光院殿天真祐明大禅童子母於豊方
女子 於礼 松平但馬守養女
一 忠厚 雄五郎因幡実島津兵庫久微子天明二年壬寅
五月十九日生母島津式部少輔密子之筋
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
三男 忠厚
初名 久邦 雄五郎 因幡 安芸 市正 老号山松
○天明二年壬寅五月十九日生于薩府、母島津式部少輔久般女実島津兵庫久徴之男、公為己子以告大家云、七年丁未六月九日、令于国中為己所生、七月九日、置於抱守御小姓令給事之、十三日告朝三男
(中略)
亀五郎
○天明四年甲辰二月二十八日生于芝邸、母石井進六正純亀井能登守矩貞臣女称於豊方、又改於房方、又改於富貴方
○此年七月二十九日夭亡、法名香樹院殿秋露幻清大禅童女(ママ)、安主于恵燈院
感之介
○天明五年乙巳八月十七日生于芝邸、母同上
○六年丙午四月十一日夭亡、法名義光院殿天眞祐明大禅童子、八月二日、帰埋遺毛于福昌寺、安主同上
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)
拙ブログ関連ネタ
公家・堤家と鹿児島藩
文化朋党の乱
…と、タイトルのように書かれている本などが多いわけですが。参考 wikipedia「島津豊久」
あの絶版騒動を起こした『島津○る
』もそうじゃなかったかな?失念。
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
また同本では
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。
あの絶版騒動を起こした『島津○る
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
豊久のことは一言も出てこない。また、自分が西軍に着いた理由を「三成が家康の天下取りを恐れて上杉景勝と佐竹義宣と密約して西国の軍勢を動員したから」と書いているところは興味深い。どちらにしろ、当事者の島津義弘の回想録では、豊久は義弘をしたって(或いは同情して)関ヶ原に同行したわけではなさそうである。爰に江州沢山(=近江国佐和山)の城主石田治部少輔(三成)は太閤之御時股肱の臣と為り、其の威肩を双べる人無し。然る処、内府公(=徳川家康)の命有 り、出仕を止められ、蟄居するの中、思い含む所は、内府公が秀頼公に至りて、天下を譲らる可き儀これ有る可からずと。然からば、心を長尾(=上杉景勝)、 佐竹(義宣)に合せ、関西四十国の軍兵を催して、則ち伏見の城を攻め破り、美濃国に発向す。此の由関東に相聞え、忽ち 東国の軍兵打上る。時に慶長五年庚子九月十五日濃州関ヶ原に於いて合戦有り、数刻相挑むと雖も、今だ勝負を決せざる処、筑前中納言(=小早川秀秋)戦場に 於いて野心を起こすに依り、味方敗北し、伊吹山に逃げ登る。(以下略)
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
とあるのが初出である。この文からも豊久が伯父をしたって関ヶ原に同行したとは読みとれない。同年(=慶長5年)九月義弘濃州大垣城外に陣す。同十三日石田三成陣中に来る。嶋津中務大輔豊久も亦此席にありて(以下略)
また同本では
と豊久に島津義久所属の軍勢がつけられていることも興味深い。ちなみにご存じの方が多いと思うが、島津義久はこの時在国で、当然関ヶ原の合戦には直接参戦していない。其翌十五日の暁寅卯の間(=午前五時頃)に、関ヶ原に到着す。則石田三成已に備を二段に設け、其の一段は嶋左近父子、雑賀内膳を将とす。又一段は三成此にあって指揮す。皆道路の北に備ふ。次に嶋津中務大輔豊久冨の隈方(=島津義久所属)の士卒是に属す。三成が備をさる事一町ばかり為り。
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。

