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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
この話、5,6年前の『日本経済新聞』の日曜美術欄でも取り上げられ、その他にも多数のマスコミや雑誌で取り上げられた上、wikipediaにも載っているので皆様周知の話だと思ったんですがねぇ。
yahoo!のトップニュース一覧に入っていたので
2008/11/30yahoo!トップページ

今更大騒ぎする話なのかと、仰天してしまいました。

【もう一つの京都】えっ!?源頼朝はニセものだった!? 浮上したナゾを追う 
2008.11.29 15:22
 
初めての武士政権を樹立した平清盛は公家社会の頂点に立つことで、覇権を握った。その平氏政権を倒した源頼朝は、武家社会の頂点に立ちながら国を統治した。

朝廷から独立した「幕府」の誕生だ。頼朝は鎌倉幕府初代将軍であり、江戸幕府崩壊までの700年に渡って続く幕府中心社会の始祖といえる。

武士として覇業を成し遂げた頼朝の「顔」というと、誰もが思い浮かべる肖像画がある。教科書でもおなじみの国宝「絹本著色伝源頼朝像」だ。黒い束帯を身にまとう、りりしい姿は武士の頂点に立った男の顔にふさわしい。

この頼朝像は同じ構図で顔の向きが違う平重盛像、藤原光能像とともに「神護寺三像」と呼ばれている肖像画シリーズの一つ。絵自体に作者や像主を示す証拠はないが、三像が3氏であるとする通説は寺伝に残る記述の数々を根拠に生まれ、語り継がれてきた。

「神護寺略記」などによれば、三像以外にも後白河法皇像と平業房像の肖像画があった。法皇は文治4(1188)年、同寺に仙洞院を寄進している。4年後に 法皇が死去すると同院には法皇像を中心に、4人の肖像画がかけられた。法皇像は室町時代に写されたものが残っているが、原本は何らかの原因で散逸したと考 えられている。



一定の年代以上の日本人は、通説に基づいた教科書で、これが頼朝の顔であると教えられてきた。しかし最近の教科書は、「伝頼朝像」と書かれていたり、単な る鎌倉時代の肖像画として紹介されているケースもある。日本人の脳裏にすり込まれた、りりしい頼朝の周囲に何が起きたのか。

平成7年、当時東京国立文化財研究所に在籍していた米倉迪夫氏(現・上智大学教授)が唱えた仮説が社会に大きな反響を呼んだ。あの「源頼朝像」が別人であるとする仮説で、教科書の記述を揺るがしたきっかけの一つとなっている。

制作年代や作者について、通説を疑問視する声は昔からあった。米倉説は目や耳の描き方から三像が14世紀中ごろの絵と推定したうえで、像主を覆すところま で踏み込む。「重盛像」が足利尊氏で「頼朝像」は尊氏の弟・直義、「光能像」は室町幕府2代将軍・義詮であると主張する。

物的証拠として挙がったのが京都御所に残る足利直義の願文だ。願文には「征夷将軍(尊氏)ならびに予(直義)の影像を図き、もってこれを安置す。良縁をこ の道場に結び、信心を末葉に知らしめんが為なり」と書かれていた。米倉説は、文中の「影像」こそ三像であるとしている。



しかし直義願文で納めたとする肖像画は2幅。現存するもう1幅「伝光能像」の説明はつかない。

米倉氏は、「納入事由にはおのずと直義の画像納入事情とは微妙に相違する背景があろう」(『肖像画を読む』角川書店)と説明。これに対し、文化庁主任文化 財調査官を務めた宮島新一氏は『肖像画の視線』(吉川弘文館)の中で、「根拠薄弱と言わざるを得ない」と指摘、米倉説の問題点と通説の正当性を書き連ねて いる。

米倉説は光能像を義詮像と推定した根拠に、足利家の菩提寺・等持院(京都市北区)に残る義詮木像を取り上げた。木像と肖像画を比較したところ、目やくちび るが似ているとする。似てはいるが、木像は制作年代がはっきりしておらず、比較対象としてふさわしいかについては批判もある。

神護寺の谷内弘照住職も米倉説には冷ややかだ。「頼朝の娘が亡くなると、寺の住職がお悔やみ文を送っています。その返礼もありますし、頼朝の妻、北条政子 からの手紙も残っています」。頼朝と寺との親密さを伝える史料がある一方、足利家との関係の深さもうかがわせる史料は見つからないという。

仮説を補完する証拠はないが、通説を裏付ける完全な証拠もない。論争で積み上げられた状況証拠を並べると、今のところあの頼朝像は、頼朝ではないか。今まですり込まれてきた、りりしい姿であってほしいという思いもあるけれど…。(渡部圭介)



神護寺三像 鎌倉時代の似絵(肖像画)の代表作で3幅で国宝指定を受けている。「神護寺略記」によると作者は藤原隆信となっているが、筆致などから複数の 絵師が関わっているとみられ、隆信が総指揮をとる形で制作されたとの見方がある。米倉氏は神護寺略記に後白河法皇ら5人の名前の後に「等」という記述があ ることから、ほかにも多くの肖像画があった可能性を示唆しているが、この点については宮島氏も「傾聴すべき意見」と評している。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081129/acd0811291524005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081129/acd0811291524005-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081129/acd0811291524005-n3.htm

産経新聞は「我が社のスクープ」!とばかりに書いておりますが
既に、上記で紹介したようにひろーく知られている話です。
興味のある方なら、ちょっとネットで調べりゃすぐわかる話です。

先日の「寺田屋”騒動”」もそうですが、最近のマスゴミは今更な話に油をかけて火をつけるのがお好きなようで(爆)
最近、地上波では怪しげな「歴史番組」なる物が大流行のようですが、それとも関連・連動しているんでしょうか(呆)

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拙ブログの前説はこちら

私の説を裏付ける???史料が見つかりました。
東京大学史料編纂所所蔵 島津忠義差出「島津家譜」乾巻 「島津系譜家譜伝」
こちら
※上記は当該資料に直接リンクしていますが、つながらない可能性がありますので、その場合は東大史料編纂所HP→データベース検索データベース選択→所蔵資料目録データベース→「島津家譜」で検索 してください。

久保 小字如意寿丸又一郎
 との記載があります。
…ただし、巻末の奥書には「明治8年」とあるので、かなり時代が後になってからの史料ですが…(-_-;)

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「温泉教授・松田忠徳の本物の温泉力」という番組で
北海道の見市温泉という余り知らない温泉を紹介していたのだが

慶応末年に織田信長の子孫が発見した温泉だそうです。(あくまで番組の紹介ですからね)

ちなみに代々の御当主の苗字ですが大塚だそうです(^^;)全然違うじゃん

おまけ
織田信長の家臣に大塚姓の人はいるようだが

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別館で戦国時代の島津氏関係の女性についてのHPを運営しているが、島津家に限らず、日本の昔の女性というのはともかくデータが乏しく、重要な役割を果たしている人でも生没年はおろか、名乗っていた名前すら分からないことが普通である。

江戸時代になってもしばらくは状況は変わらない。
島津本家の当主ですら、初代藩主・島津家久の最初の正室(島津義久三女)…の名前はさすがに分かっているが(ちなみに「亀寿」という)、次の正室の名前は全く伝わっていない。正室の名前がはっきり島津家側の記録に残るのは四代藩主・吉貴になってから(桑名藩久松松平定重の娘で「福姫」。ちなみに吉貴の父・三代藩主・綱貴も島津家側の史料には記録がないが、相手側の史料などにより、先妻「米姫」後妻「鶴姫」という実名は判明している。)
そんな「名前のない女」の一人が、今回のネタである二代藩主・島津光久の後妻である通称「陽和院殿」こと平松時庸女(実父は時庸の実弟である交野時貞)である。

まず、彼女が光久の後妻に納まるまでの前史を語らねばならない。たぶん、それを話さないと何で京の弱小の公家の娘が70万石の大藩(見かけ倒しとはいえヾ(--;)の正室に納まったかが分からない。
光久の先妻はこれまた名前が分からない。一般的に法号をとって「曹源院殿」と言われていることが多い。陽和院殿も何で70万石の大藩の正室になれたか不思議な家柄だが、曹源院殿はもっと不思議である。なんと曹源院殿の祖父は薩摩藩の筆頭家老・伊勢貞昌。江戸時代になってからは次期藩主たる世子の正室が家中、それも家臣の一人である家老一族から迎えられるなんて常識外れもいい「事件」だったらしい(普通なら大名の娘か公家の娘)。この話を聞いた細川忠興が息子・忠利に「珍しいところから嫁を迎えるなあ」といった内容の書状を送っている(この書状についてはで紹介されている)。これについては、私的には理由の目処は付いているのだが、別館のネタにしようと思っているので省略ヾ(--;)。ここで言えるのは、当の光久は当然ながらこの結婚に不満があったようで、この結婚を取り決めた父・家久が死ぬと公然とこの妻を無視し始めたことである。
まず、父・家久が亡くなった翌年の寛永16年(1639年)には側室との間に娘を儲けている。そして、曹源院殿はまだ若かったと思われる(実は生年未詳なのだが曹源院殿実父・伊勢貞豊が寛永元年1623年)31歳で亡くなったこと、寛永9年(1632年)に光久との間に第一子の島津綱久を生んだことから推測して、元和年間の生まれで光久と余り年は変わらないのではと推測できる)※曹源院殿の年齢を確認できる資料を後日発掘したので訂正(2008/10/30)、以後、光久との間に子供を産むことはなかった(ちなみに寛永16年の時点で曹源院殿は25歳である。)。一方で、夫・光久は側室や不特定多数の女中(名前不詳の「家女房」)達との間に次々と子供を儲けている。その間の曹源院殿の動静は不詳である。
次に彼女の動静がはっきりするのが万治元年(1658年)、曹源院殿は病気のため早世するのである。享年44歳(参考「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5))。この死に様も、管見で見た史料(「薩藩旧記雑録」追録)を見る限りでは寂しい物だったことが推測できる。実は曹源院殿が死病にとりつかれたころ、息子・綱久の嫁である伊予松山藩主・松平定頼の娘(この人も実名不明)も重い病気にとりつかれていたのだが、家臣の心配はもっぱらこの松平定頼女一身に集まっており、定頼女の回復を祈願する祈祷や読経が熱心に行われた一方、曹源院殿は放置同然の状態だったようで、息子・綱久が地元・鹿児島の寺に母の健康回復を祈願するよう命じた書状が1通残るのみなのである。
…そして曹源院殿の1周忌がすむやいなや、光久は今回のネタヒロイン陽和院殿とさっさと再婚してしまうのである。

陽和院殿は確かに「名家」という公家では下のクラス、しかも養女に行った伯父・平松家は200石取り、これでも少ないと思うなかれ。実家の交野家は御蔵米30石という、薩摩藩の貧乏郷士もびっくりという貧乏公家だったのである。しかし、彼女には「薩摩藩の家老の孫娘」という大大名の正室としては弱い弱い立場の曹源院殿とは違って2つの強力な「武器」があった。
まず1つ。平松家は「桓武平氏流・西洞院家の分家」…というのが表向きの家柄であるが、この平松家は島津家の名目上の主筋に当たる摂関家・近衛家の門閥なのである(参考文献)。光久のホンネではこの近衛家の姫辺りを後妻に迎えたかったに違いない、が、島津家は名目上はあくまで近衛家の”家臣”筋、さすがにプライドの高い近衛家の機嫌を損ねかねない。そこで、同じ近衛家の”家臣”筋である平松家の姫(実は交野家だけど)を後妻に迎えたのではなかろうか。光久の後妻に陽和院殿を紹介したのも案外と近衛家だったりして。
もう一つの武器は、彼女の「前歴」である。彼女の妹が「山の井」という源氏名で後水尾天皇の女房として仕えていたのは、以前「島津家文書」の目録を調べたときに偶然知ったのだが、先日、別件で検索していたときに、この陽和院殿も天皇に仕えた前歴があったことが分かったのである。陽和院殿は独身時代は「弁内侍」と名乗り、後水尾天皇の息子である後光明天皇の掌侍を務めていた。つまり、れっきとした女官で今風に言えば公務員だったと言えば分かってもらえるだろうか(ちなみに紫式部や、陽和院殿の妹の山の井が務めていた「女房」はあくまで臨時雇用の立場。)。参考こちら
つまり、陽和院殿は摂関家筆頭・近衛家との関係があり、そしてそれ以上に皇室との関係が深い女性だったのである。

ところで、島津光久は先妻・曹源院に不満があったにせよ、どうして急いで陽和院殿を後妻にしようとしたのだろうか。(ちなみに光久は先妻曹源院との間に2人、他に不特定多数の側室や女中との間に大勢子供がおり、跡継ぎには困っていない状態である)
私は、光久が高い官位を狙っていたからではないかと考えている。島津光久が理由不明ながら、父・家久より低い官位(家久の最高位は従三位、光久は従四位下)に留まっていた事を不満に感じて、熱心に猟官運動をしていたという指摘があるのである(参考)。江戸時代の武家の官位は徳川幕府の専権事項になっており(参考)、光久の努力だけではいかんともしがたいガチガチの制度に固まりつつあったが、そこを、光久は官位発給の大元である朝廷を動かすことで何とかしようとしたのではなかろうか。


延宝元年(1673年)、光久は従四位上左近衛中将に昇格する。…しかしこれが最初で、そして最後の昇格であった。貞享四年(1687年)、光久は隠居し後を孫の綱貴に譲った(先述の長男・綱久は寛文13年(1673年)に早世している)。その後光久は故郷の鹿児島に移ったが、陽和院殿は同行しなかった。光久と陽和院殿の間に子供は産まれなかった。その8年後の元禄7年(1695年)11月29日、光久は79歳という長寿を全うし生涯を終えた。陽和院殿は当然ながら臨終には立ち会えなかった。その翌年、陽和院殿は落飾(実はこの時から「陽和院」を名乗るようになる)。その後は光久の菩提を弔いつつ、先妻の曹源院殿のように家臣からガン無視されるという目に遭うこともなく、先代藩主の妻として大事に扱ってもらったようである。光久に遅れること16年後の正徳元年に死去。彼女の遺品の中からは光久の自筆の漢詩などが出てきたという(『薩藩旧記雑録』追録)。

島津光久と陽和院殿の結婚は完全に政略を狙った結婚だったが、当初の目的だった「光久の官位昇進」ではうまく機能しなかったようである。既に時代は1元女官の嘆願より、幕府の方針の方が重視される時代になっていたのである。しかし、後光明天皇の元掌侍、そして和歌が堪能だったという彼女の教養の深さは、曹源院で不満を感じていた光久を十分に満足させる物だったのではなかろうか。
陽和院も、夫婦としての幸せはこの結婚で得ることは出来なかったと思われるが、仕えていた後光明天皇が承応3年(1654年)に亡くなり、宮中での居場所も怪しくなっていたときに、この結婚話は格好の寿退職の「渡りに舟」ではなかったではないだろうか。

おまけ
陽和院殿直筆の歌集 こちら(京都大学データベース)

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足利尊氏像の手首が盗まれる…菩提寺の京都・等持院

室町幕府の足利将軍家の菩提(ぼだい)寺、臨済宗等持(とうじ)院(京都市北区)に安置されている歴代将軍の木像2体から、左手首部分が盗まれていたことがわかった。北署は、窃盗事件として捜査している。

同署などによると、9月上旬、境内の霊光殿にある尊氏、義晴の各像の左手首部分がなくなっているのを寺の職員が見つけた。像はいずれも江戸時代初期の作とされ、文化財指定は受けていなかった。手首部分は取り外しが可能だという。

霊光殿には、一部を除く歴代将軍像と徳川家康像の計14体の木像を安置。午前8時〜午後5時に拝観できるが、柵やケースはなく、監視員や防犯カメラなども設置していなかった。

等持院は1341年に尊氏が創建。京都十刹(さつ)の筆頭に数えられたことで知られる。川勝承哲副住職は「悪質ないたずらだろうが、許されることではない」と話している。
(2008年10月4日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20081004-OYO1T00451.htm?from=main2

足利将軍の木像の手首など盗難 京都・等持院 府警、窃盗容疑で捜査
2008.10.4 01:44
左手首の部分が盗まれてなくなっている足利尊氏の木像=京都市北区左手首の部分が盗まれてなくなっている足利尊氏の木像=京都市北区

足利将軍家の菩提(ぼだい)寺として知られる臨済宗・等持院(京都市北区)で、江戸時代初期に造られた室町幕府歴代将軍の木像の手首部分や刀の柄(つか) が相次いで盗まれていたことが3日、わかった。京都府警は窃盗事件として捜査しており、同寺は「目的は分からないが、許せない行為」と憤慨している。

同寺などによると、境内の霊光殿で9月上旬、初代から15代まで並んで安置されている歴代将軍の木像のうち、尊氏像の左手首部分が取れてなくなっているのを関係者が発見。数日後には、13代義晴像の左手首部分も盗まれているのが確認された。

さらに3代義満や8代義政など5体の木像で、腰に差してある刀の柄(つか)がなくなっていることも判明。いずれも被害時期は不明だという。

霊光殿は参拝者が自由に出入りすることができ、将軍像はいずれも文化財指定を受けておらず、柵(さく)や保護ケースは設けられていない。尊氏と義晴の像 は、老朽化のため手首部分が外れやすくなっていたとみられており、府警は、参拝者が途切れたすきに持ち去られたとみている。

仏像などの文化財をめぐっては、盗品がネット上のオークションなどで売買されるケースもあるが、同寺の川勝承哲副住職は「うちではこんなことは初めて。お金になるようなものではないし、悪質ないたずらだ」と話している。

同寺は、14世紀中期に尊氏が禅僧の夢窓疎石を開山として創建。京都十刹の筆頭に数えられている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081004/crm0810040148004-n1.htm
他関連ニュースこちら
木像のだけ入手して喜ぶようなマニアはさすがにいないと思いたい…じゃなければ、何か思想的な背景でもあるのだろうか。それとも単なる愉快犯か?

参考
幕末にも被害に遭っていた等持院の足利将軍木像(なるほど幕末)

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