拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
史料紹介。
さっくり訳すと
「一唯恕参様(=島津久保)のお墓と廟所のためにいろいろと寄付しました。今後掃除などの供養を忘れないようにしてくださいね。お坊さんにもちゃんと命令しといてね。ちょっとだけの寄付だけど志を受け取ってね。」
となると思われる。
何気ない一文のように思われるが、寄付した年度や寄付した人物を考えるとなかなかに味わい深い。
慶長6年のこの時期は、関ヶ原の合戦からまだ1年たっておらず、徳川家康と島津家の交渉が難航しているときで、島津家存亡の危機にあったときである。朝鮮出兵で不幸にして急逝した世嗣の霊に対して島津家の加護を願ったとしてもおかしくはない。しかし、それならばほかの先祖に対してもなんらかの供養が行われた史料があってもおかしくないのに、それは残っていない。
この寄付を行った平田増宗というのは、代々島津家の家老をつとめた平田家の出身で、特にこの増宗は関ヶ原の合戦時には大坂屋敷の家老で島津亀寿の脱出に功績があり、その後、島津義久の外孫・島津忠仍をもり立てることを誓う(「旧記雑録後編」3−1737)など、義久派の代表として活躍した物の、それを煙たく思った島津忠恒(当時「家久」)によって慶長15年に暗殺されたという人物である。
ここから考えるに、このときの島津久保に対する供養というのは島津家全体の命として為された物ではなく、島津亀寿か島津義久の個人的な命でされた物ではないだろうか。
つまり、慶長6年時点では亀寿(or義久)の心は、いまだ島津久保の元にあったということになろう。
…これは、島津忠恒はつらいですな。>※島津忠恒は久保の実弟で、島津亀寿の後の夫。
だって、死人は死んだ時点の評価が最高でかつ美化されることはあっても落ちることはないですもん。特に久保は不幸な運命の末の早死にだから評価はあがる一方だったのではないかな。
一方の弟の忠恒といえば、一生懸命やろうとしているのはわかるが、あまりにもボロが…。
だからといって、忠恒(家久)には同情できないが。
だって、義久の死の前後からは、先述の家老平田の暗殺を含め鬼畜としか形容できないほどやりたい放題やったから、すっきりしてたはず。
「薩藩旧記雑録後編」3-1507(『鹿児島県史料』「旧記雑録後編」3所収)一唯恕参様御石塔并御葬所為洒箒、鵝目千疋号祠堂物被寄進候、以此旨、到後年拂除等無断絶之様、主務之僧衆へ堅固可被仰渡事、本懐候、抑恕参様御恩情不浅故、雖為微少之法物、顕寸志奉営之者也、仍状如件、
慶長六年五月二十三日 平田太郎左衛門尉
増宗(花押)
福昌寺
衣鉢閣下
さっくり訳すと
「一唯恕参様(=島津久保)のお墓と廟所のためにいろいろと寄付しました。今後掃除などの供養を忘れないようにしてくださいね。お坊さんにもちゃんと命令しといてね。ちょっとだけの寄付だけど志を受け取ってね。」
となると思われる。
何気ない一文のように思われるが、寄付した年度や寄付した人物を考えるとなかなかに味わい深い。
慶長6年のこの時期は、関ヶ原の合戦からまだ1年たっておらず、徳川家康と島津家の交渉が難航しているときで、島津家存亡の危機にあったときである。朝鮮出兵で不幸にして急逝した世嗣の霊に対して島津家の加護を願ったとしてもおかしくはない。しかし、それならばほかの先祖に対してもなんらかの供養が行われた史料があってもおかしくないのに、それは残っていない。
この寄付を行った平田増宗というのは、代々島津家の家老をつとめた平田家の出身で、特にこの増宗は関ヶ原の合戦時には大坂屋敷の家老で島津亀寿の脱出に功績があり、その後、島津義久の外孫・島津忠仍をもり立てることを誓う(「旧記雑録後編」3−1737)など、義久派の代表として活躍した物の、それを煙たく思った島津忠恒(当時「家久」)によって慶長15年に暗殺されたという人物である。
ここから考えるに、このときの島津久保に対する供養というのは島津家全体の命として為された物ではなく、島津亀寿か島津義久の個人的な命でされた物ではないだろうか。
つまり、慶長6年時点では亀寿(or義久)の心は、いまだ島津久保の元にあったということになろう。
…これは、島津忠恒はつらいですな。>※島津忠恒は久保の実弟で、島津亀寿の後の夫。
だって、死人は死んだ時点の評価が最高でかつ美化されることはあっても落ちることはないですもん。特に久保は不幸な運命の末の早死にだから評価はあがる一方だったのではないかな。
一方の弟の忠恒といえば、一生懸命やろうとしているのはわかるが、あまりにもボロが…。
だからといって、忠恒(家久)には同情できないが。
だって、義久の死の前後からは、先述の家老平田の暗殺を含め鬼畜としか形容できないほどやりたい放題やったから、すっきりしてたはず。
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実は以前から気になっていたのですが、偶然こちらのブログのこの記事を読んで、ちょっとまとめてみようかという気になりました。
管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
関連記事 こちら
管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
関連記事 こちら
「島津義久」(しまづ よしひさ 1533 〜 1611)とは、戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の守護職を務めた島津氏16代当主であり、戦国最強の兄弟達と精強な薩摩隼人軍団を率い、
大将たる者は腹をすえて動じないこと、これ勝利の大本なり
との祖父島津忠良の教えを守って九州を席巻した戦国最高の政治家にして最強のひきこもりである。(以下略)
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
⊂(。Д。⊂⌒`つ
⊂(。Д。⊂⌒`つ
…島津義久のことを最初にひっきー呼ばわりしたのは記憶に寄ればこちらのHPで2002〜3年頃だったのではないかと思う。また、そのころ2ちゃんねるで立ち上がった「南海の虎★島津義久★」スレ(現在web上に過去ログ無し)で
9 :無名武将@お腹せっぷく :03/01/14 00:14
こういう逸話を読むと知的であり、すばらしい人物であったと思えるが
http://www.m-network.com/sengoku/sen-epys.html
こういった手紙を読むと2ちゃんねらかよ?と思えるよな
http://rekiju.hp.infoseek.co.jp/tegami/simadu.htm
実際はどんな人物だったのだろう?
と至極まっとうな指摘をされてしまい、以後「戦国の2ちゃんねらー」転じて「戦国最凶のひきこもり」というありがたいような迷惑なような異名がネット上では定着。
こうなったらこの調子で日本史の教科書にも「戦国一の引きこもり」で載れるようになるまで頑張りましょう(投げやり)
おまけ
戦国時代が舞台の小説紹介
桐野作人さんのが紹介されてます(ビデオ5分辺りから)
ほか、上で紹介したニコニコ大百科の関連商品の所にというのがあったんだが…この頃の島津氏は、周囲が当世具足の中、一人大鎧きてるイメージなんで、ちょっと、ね。ちなみに島津義久は肖像画ばかりではなく、着用の鎧も残ってません。あ、誰ですか。引きこもりが鎧着たわけがないだろといってるのは。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009041000124&genre=J1&area=K1I豊太閤花見行列
伏見区・醍醐寺で12日
醍醐寺で行われた豊太閤大名行列(07年4月8日、伏見区)=写真は資料
豊太閤花見行列が12日、京都市伏見区の醍醐寺で行われる。
豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」の様子を再現するイベント。秀吉は1598(慶長3)年春、秀頼や淀殿、家臣ら大勢を伴って醍醐で豪勢な花見を行ったという。
上記のニュースは4/10の予告ですが、今日は好天に恵まれて無事催行されたようです。
もっとも、近年の温暖化ですっかり葉桜になってましたが(苦笑)
この花見は豊臣秀吉晩年最後のイベントで、見た目の盛大さとは裏腹に、実際はかなり暗い影が差していました。小和田哲男『豊臣秀吉 (中公新書 (784))』だったと思うのですが、この花見をねらって秀吉暗殺団がやってくるという噂が根強かったようで、厳重な警備の上行われたという指摘がされています。しかも、朝鮮出兵中のこの大浪費のしわ寄せは諸大名にのしかかりました。秀吉の懐は少しも痛まなかったのでした。
この花見に参加した北政所はじめとする女性陣や御殿女中の衣装のすべての調製は島津氏に命じられました。そのときの島津義久の心情を吐露した手紙がどこかにあったのですが…後で見つけたら追記します。
まあ、桜には罪はないんですけどね。でも醍醐の桜を素直にみられない私がいる。それは醍醐の桜が豊臣秀吉そのものを象徴しているからかもしれない。
タイトルの文書の詳しい説明はこちら(東大史料編纂所)
実はかなり以前、図書館で拝見したことがある。貴重本なので当然禁帯出だったけど(涙)
そのころすでに興味があった島津亀寿(この人も島津義久の娘なので「公子」である)の手紙が所収されているのではないか?という期待からであった。
しかし、上記リンクの説明
・島津義弘の長女・御屋地
・島津義弘の四男・島津久四郎忠清
・島津義弘の次女・御下
の手紙しか所収されていない。
この本を読んだそのときには、それほど気を止めてなかったのだが…
今改めて考えてみると、これは非常に変なことである。
「島津家の公子」といえば先述のように島津義久の娘もいる。また、歴代当主にもそれぞれ「公子」がいる。他家に養子にいったりした場合なら、そちらに文書の管理の所管が移るからともかくとして、この「公子」御文書には島津義弘の子供たちの分しか所収されなかったのである。
これは、わざとそうなるように保管したのではなかろうか。
その目的は、島津義弘の子供だけを別格に扱おうという意図の上でまとめられたと思われるのである。
『薩藩旧記雑録』などの文書をみていると、島津義弘の孫・光久の頃に徳川幕府からの命で家系図を献上する必要が生じ、かなり文書の整理が進められた様子がうかがえる。しかし、光久は母系でみると島津義久の玄孫(系図上でみると島津亀寿の養子なので孫)にもあたるため、義久系の子女(特に島津亀寿は)の文書を冷遇する理由が見あたらない。
しかし、光久の父・義弘の子で初代鹿児島藩主となった島津家久(忠恒)は、晩年島津義久と対立、義久の死後に正室・島津亀寿を離縁し冷遇した、など島津義久系の子女に対して非常に恨みを持っていたことが伺えるのである。おそらくこの家久によって島津義久の子女の文書類がかなり整理、あるいは廃棄された可能性はあるのではなかろうか。
そして、島津家文書「御文書 諸公子 六通」に島津義弘の子女の手紙ばかり所収されたのは、島津義弘の子供だけを別格にしようとし、自分の家督相続を正当化しようとする島津家久(忠恒)のもくろみがあったのではないかと考えられないだろうか。
あくまで現状からの推測ですが。また何か思いついたら続くかも?
実はかなり以前、図書館で拝見したことがある。貴重本なので当然禁帯出だったけど(涙)
そのころすでに興味があった島津亀寿(この人も島津義久の娘なので「公子」である)の手紙が所収されているのではないか?という期待からであった。
しかし、上記リンクの説明
〔御文書 諸公子 六通〕は、島津義弘の子忠清の書状三通と、義弘の娘帖佐屋地の文書二通、同じく義弘の娘千鶴の消息一通を収める。慶長元年閏七月の大地震の状況を在朝鮮の忠恒(家久)に報じた同月二十九日の帖佐屋地書状(一四〇七号)、慶長十八年末頃、人質として江戸に下向した千鶴から父義弘あての消息(一四〇八号)などが含まれている。でわかるように、これには
・島津義弘の長女・御屋地
・島津義弘の四男・島津久四郎忠清
・島津義弘の次女・御下
の手紙しか所収されていない。
この本を読んだそのときには、それほど気を止めてなかったのだが…
今改めて考えてみると、これは非常に変なことである。
「島津家の公子」といえば先述のように島津義久の娘もいる。また、歴代当主にもそれぞれ「公子」がいる。他家に養子にいったりした場合なら、そちらに文書の管理の所管が移るからともかくとして、この「公子」御文書には島津義弘の子供たちの分しか所収されなかったのである。
これは、わざとそうなるように保管したのではなかろうか。
その目的は、島津義弘の子供だけを別格に扱おうという意図の上でまとめられたと思われるのである。
『薩藩旧記雑録』などの文書をみていると、島津義弘の孫・光久の頃に徳川幕府からの命で家系図を献上する必要が生じ、かなり文書の整理が進められた様子がうかがえる。しかし、光久は母系でみると島津義久の玄孫(系図上でみると島津亀寿の養子なので孫)にもあたるため、義久系の子女(特に島津亀寿は)の文書を冷遇する理由が見あたらない。
しかし、光久の父・義弘の子で初代鹿児島藩主となった島津家久(忠恒)は、晩年島津義久と対立、義久の死後に正室・島津亀寿を離縁し冷遇した、など島津義久系の子女に対して非常に恨みを持っていたことが伺えるのである。おそらくこの家久によって島津義久の子女の文書類がかなり整理、あるいは廃棄された可能性はあるのではなかろうか。
そして、島津家文書「御文書 諸公子 六通」に島津義弘の子女の手紙ばかり所収されたのは、島津義弘の子供だけを別格にしようとし、自分の家督相続を正当化しようとする島津家久(忠恒)のもくろみがあったのではないかと考えられないだろうか。
あくまで現状からの推測ですが。また何か思いついたら続くかも?

