拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら
日向飫肥の大名だった伊東側から書かれた史書『日向纂記』。隣どおしでバトルし続けただけあり、島津関係の記述が多いのですが、これまた島津側の史料には書かれてない興味深い記述を見つけました。
伊東氏の家臣で山田匡得という人がいたのですが、伊東氏が日向から逃亡し、高城川合戦(耳川の合戦)後に更に豊後を去ると、彼はやむを得ず大友氏の客将となって活躍したようなのです。その戦いぶりは『日向纂記』曰く「あの島津家久(勿論人格障害の十八代当主ではなく、四兄弟の末弟の方である)がスカウトしようとした」と書いたくらいだそう。伊東家側の史料なので潤色の可能性もありますが、すごい武将だったのは間違いないようです。
が
山田匡得にはアキレス腱?がありました。妻子は島津側に囚われ、島津義久の館で奉公していたのです。豊臣秀吉の九州御動座後、山田匡得は飫肥に帰ってきた伊東家に帰参したのですが、島津家ではこの山田の妻子の扱いが問題になりました。
…ここまでが前書きです。
以下問題の章をばんない風超訳
この話は『日向記』(宮崎県史叢書所収)でも確認しています。『日向記』の成立は江戸時代中期ですので、前回の話と違い、捏造とか根拠のない話ではないと思われます。
先述の通り、島津氏と伊東氏は積年のケンカ相手なので、江戸時代にはいっても徳川幕府の命で参勤交代の時期をずらされる措置を執られるくらいの不仲だったのですが、『日向纂記』、義久に関しては余り悪口書いてないんですよね。日向から伊東を追い出した張本人なのですが。不思議。
日向飫肥の大名だった伊東側から書かれた史書『日向纂記』。隣どおしでバトルし続けただけあり、島津関係の記述が多いのですが、これまた島津側の史料には書かれてない興味深い記述を見つけました。
伊東氏の家臣で山田匡得という人がいたのですが、伊東氏が日向から逃亡し、高城川合戦(耳川の合戦)後に更に豊後を去ると、彼はやむを得ず大友氏の客将となって活躍したようなのです。その戦いぶりは『日向纂記』曰く「あの島津家久(勿論人格障害の十八代当主ではなく、四兄弟の末弟の方である)がスカウトしようとした」と書いたくらいだそう。伊東家側の史料なので潤色の可能性もありますが、すごい武将だったのは間違いないようです。
が
山田匡得にはアキレス腱?がありました。妻子は島津側に囚われ、島津義久の館で奉公していたのです。豊臣秀吉の九州御動座後、山田匡得は飫肥に帰ってきた伊東家に帰参したのですが、島津家ではこの山田の妻子の扱いが問題になりました。
…ここまでが前書きです。
以下問題の章をばんない風超訳
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報恩公(=伊東祐兵)が飫肥を領地としてもらったとき、山田匡得は豊後から早速帰参した。匡得の妻子は伊東家が日向から落ち延びたとき、薩摩の軍兵に捕らえられたが「名のある武将の妻子らしい」とのことで、疎略に扱ってはいけないと、島津義久の館で奉公していた。山田匡得が豊後から帰参すると聞いた義久は、妻子に金銀・衣服を与え山田の元まで送り届けた。情け深いお話である。
この話は『日向記』(宮崎県史叢書所収)でも確認しています。『日向記』の成立は江戸時代中期ですので、前回の話と違い、捏造とか根拠のない話ではないと思われます。
先述の通り、島津氏と伊東氏は積年のケンカ相手なので、江戸時代にはいっても徳川幕府の命で参勤交代の時期をずらされる措置を執られるくらいの不仲だったのですが、『日向纂記』、義久に関しては余り悪口書いてないんですよね。日向から伊東を追い出した張本人なのですが。不思議。
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こちらのサイトで、拙ブログを紹介くださりまことにありがとうございます。…思い切り私信(苦笑)
心配されていた、この記事で紹介した「久保此の猫を寵愛し」の”寵愛”には、たぶん深い意味はないと思われます。明治時代の文献だからたぶん…。紹介されていた手の「寵愛」が好きでかつ島津家に興味のある方は「庄内陣記」(戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)
所収)を読むと萌え死にますよ!(なんつーブックレビューだ…)
※ちなみに「庄内陣記」は江戸時代中期に鹿児島藩お墨付きで作られた軍記物語です。って、その内容でお墨付きか…。フォローをするつもりがどんどん深みにはまる…。
さて本題。
近代デジタルライブラリー(拙ブログのこの記事で紹介)の中に『日向纂記』という史料がある。
名前の通り、日向国の歴史の本なのだが、主に飫肥藩・伊東氏の歴史を綴った物で、幕末の慶応3年に平部きょう南(※「きょう」は「山」に「喬」)が『日向記』等を元に書いたのだが、『日向記』には出てこないびみょーな話も書かれていて興味深い本である。
※参考 こちら
この『日向纂記』に関ヶ原の合戦直前に島津豊久が伊東祐兵を見舞いに行くという興味深い記事が載っている。確か『日向記』では書かれてなかったと思う(『日向纂記』では『日向記』を参照にしたと書いてあるが…)し、島津家側の史料にも一切残っていない。
ではばんない版ざっくり口語訳
面白い話ではあるが2,3点問題が。
1)子供のいないはずの豊久に又二郎という息子がいることになっていること 誰よ又二郎って豊久いつの間に浮気してたの ヾ(--;)
2)関ヶ原が決戦場になるというのは事前に分かっていなかったはずなのに、この話では既に豊久は関ヶ原の激戦で死ぬことになっている
など。
ただ、島津義弘の館に秋月種長・高橋元種兄弟、島津豊久が集まっているというのは興味深い記述です。ちなみに秋月ブラザーズは関ヶ原では大垣城籠城組で、土壇場で裏切ったために領土安堵されました。島津家に合力させられてたらおそらく死亡確実だったでしょう。
ちなみに、この前の章で書かれているように、既に伊東は徳川方に着いており、更に、関ヶ原の合戦時と一つにして、豊久の佐土原領に攻め込み大混乱に陥れています(最も佐土原防衛側の抵抗が激しくて落城に至らなかったようです)。
そいうことなどを考えあわすと、このお話は伊東家側の言い訳捏造臭いんですが…。
しかし、この話の中に出てくる豊久はいい人、というか単なるアホの子みたいで何か…いやなんでもありません。
心配されていた、この記事で紹介した「久保此の猫を寵愛し」の”寵愛”には、たぶん深い意味はないと思われます。明治時代の文献だからたぶん…。紹介されていた手の「寵愛」が好きでかつ島津家に興味のある方は「庄内陣記」(戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)
※ちなみに「庄内陣記」は江戸時代中期に鹿児島藩お墨付きで作られた軍記物語です。って、その内容でお墨付きか…。フォローをするつもりがどんどん深みにはまる…。
さて本題。
近代デジタルライブラリー(拙ブログのこの記事で紹介)の中に『日向纂記』という史料がある。
名前の通り、日向国の歴史の本なのだが、主に飫肥藩・伊東氏の歴史を綴った物で、幕末の慶応3年に平部きょう南(※「きょう」は「山」に「喬」)が『日向記』等を元に書いたのだが、『日向記』には出てこないびみょーな話も書かれていて興味深い本である。
※参考 こちら
この『日向纂記』に関ヶ原の合戦直前に島津豊久が伊東祐兵を見舞いに行くという興味深い記事が載っている。確か『日向記』では書かれてなかったと思う(『日向纂記』では『日向記』を参照にしたと書いてあるが…)し、島津家側の史料にも一切残っていない。
ではばんない版ざっくり口語訳
島津中務大輔(=島津豊久)が報恩公(=伊東祐兵)の病気見舞いに来た話
慶長5年7月20日より大坂方(=石田三成側)の軍勢が伏見城を攻めはじめ、当家(=伊東家)にも軍勢をだせという命令が頻繁に来るようになったが、報恩公は同月14日より具合が悪く治療にいそしまれたが風毒の病(脚気、関節・運動障害を指すらしい 参考こちら)となり日に日に重くなり、出陣は難しい状態となったことを伝えられた。このため、「伊東家は関東勢(=徳川側)なのではないか?」という疑いを大坂方より受けることとなった。
ある日、県領主(=現在の宮崎県延岡)高橋右近大夫(高橋元種)と財部領主(=現在の宮崎県高鍋)秋月九郎(秋月種長)と佐土原領主島津中務大輔(島津豊久)の3名が島津兵庫頭(島津義弘)の館で会合し、伊東豊後守はかねての約束を破り関東方となり仮病を使い、久しく出仕もしていない、屋敷に行って討ち果たすべきか、あるいはいかように策略をたてて招き刺殺すべきかと、内々の話し合いが行われていたところに、中務が「そのことは(伊東祐兵は)中でも懇意にしている親友なので、今から伊東邸にいそいで行き、是非直にあって様子をうかがい、本当に病気で裏切っている様子がないなら言い分は正しい、詐病であることを確認できたらここに連れてこよう、もし抵抗されたら刺殺するのはたやすいことである。しばらくここでお待ち下さい。」と行って(豊久は)伊東家の館にやってきた。
が、公(伊東祐兵)のご重体の様子を見て思わず落涙し、かつてのいろいろなことを親しく話されて、「私は関ヶ原で討ち死にすると覚悟しております。あなた様のご容体も余りよろしくないようです。この世でお会いするのは今日限りだと思います。なので、後の世まで子孫達があなた様と私とのようにあるように変わらぬ兄弟のちぎりを結びたいものです。如何思われますか?」と話した。公はしばらく涙を流されむせこまれ、薬などを飲まれてようやく気力を補われ、この時12歳になる嫡男左京亮(後の伊東祐慶)を呼ばれて丁子土器打ちアワビを支度し式礼を行った。さて、天下争乱になったときは愚息左京亮を賢息又二郎殿(※豊久には子供がいないため誰かと間違っている可能性大)と同様にご不便をおかけしますがよろしくお願いしますと、次に国元の事は遠慮なくお決め下さい、と。時に中務は懐中から誓詞を一通だし、これこれのように署名なさいまし、と話した。公はそれを一通り見て「子々孫々互いに仲違いせず兄弟のよしみを結びましょう」とお書きになられた。公は「異議には及ばず」と笑われて血判を押され、中務はそれを押し頂き「今生のお別れですな」とお互いに涙を流して立ち去った。
中務はそれより直接兵庫頭の館に向かい、「豊後守には二心はないご様子です。また、顔に死相が既に現れ、苦しそうなご容体でした」と語ったところ、他の3候も涙してその後は「伊東家が関東方というのは虚報だろう」と言うところに落ち着いた。
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面白い話ではあるが2,3点問題が。
1)子供のいないはずの豊久に又二郎という息子がいることになっていること 誰よ又二郎って豊久いつの間に浮気してたの ヾ(--;)
2)関ヶ原が決戦場になるというのは事前に分かっていなかったはずなのに、この話では既に豊久は関ヶ原の激戦で死ぬことになっている
など。
ただ、島津義弘の館に秋月種長・高橋元種兄弟、島津豊久が集まっているというのは興味深い記述です。ちなみに秋月ブラザーズは関ヶ原では大垣城籠城組で、土壇場で裏切ったために領土安堵されました。島津家に合力させられてたらおそらく死亡確実だったでしょう。
ちなみに、この前の章で書かれているように、既に伊東は徳川方に着いており、更に、関ヶ原の合戦時と一つにして、豊久の佐土原領に攻め込み大混乱に陥れています(最も佐土原防衛側の抵抗が激しくて落城に至らなかったようです)。
そいうことなどを考えあわすと、このお話は伊東家側の言い訳捏造臭いんですが…。
しかし、この話の中に出てくる豊久はいい人、というか単なるアホの子みたいで何か…いやなんでもありません。
先日を拝読。
日本古代史の本を読むのは久しぶりだった。
タイトルからでは分かりにくいが、奈良時代の貴族に関するいろんな論考が集まっているという印象。
個人的には関心のある藤原北家3兄弟(藤原房前と正妻・牟漏女王の間に生まれた永手・八束(眞楯)、千尋(御楯))に関する論考を興味深く拝読した。吉川氏は『続日本紀』に書かれた藤原眞楯(八束)薨伝は本来兄の永手薨伝として書かれた物がかなり混入しており、
・藤原仲麻呂と不仲だったのは八束(眞楯)ではなく永手
・永手の若いときはなかなか出世できずに一時弟の八束に抜かれているが、それも仲麻呂と不仲だったのが理由
という結論にいたっておられる。(第二編第八章「仲麻呂政権と藤原永手・八束(眞楯)・千尋(御楯)」)しかし、中年期(具体的に言えば橘奈良麻呂の変〜藤原仲麻呂の変)の間で再び永手の出世が停滞するのは藤原仲麻呂と永手が不仲だったからという理由は納得できるが、若いときの出世の停滞まで仲麻呂との不仲に求めるのは納得しがたい。
(1)永手の出世の停滞は天平初年に初叙、天平9年(737年)に正六位下(たぶん蔭位制から考えてもこれが初叙時の官位)から従五位下に昇叙、ところが天平勝宝元年(749年)に従五位下から従四位下にいきなり3段階昇叙するまで、北家の嫡長子でありながら12年間も放置されていた。この時期はまだ藤原仲麻呂も「ライバル」永手の出世を牽制するほどに出世しておらず、ここまで永手の出世を妨害できる立場にあったとは思われない。
(2)東野治之氏(奈良大学教授)は法隆寺に聖徳太子とは全く関係のない橘三千代関係の一族がいろいろと寄付をしていることに関して橘三千代の信仰と関係があるのではないかと指摘した。その時に橘三千代の娘・牟漏女王の一族になる藤原北家も法隆寺にいろいろと便宜を図っていることを指摘されていた(参照「聖徳太子から光明皇后へ−太子信仰の系譜」 『国宝と歴史の旅 (1) (朝日百科日本の国宝別冊)
』所収)が、そのメンバーの中に藤原永手が入っていなかったのである。官位などの公的な場ならともかく、私事の仏事にも参加した形跡がない。これは吉川氏説のように「仲麻呂に迫害されて永手が一時逼塞していた」という説明では理解できない。ちなみに、牟漏女王とお寺といえば西国三十三カ所で有名な興福寺・南円堂も彼女の寄付によって建てられた物だが、この建立時のメンバーの中にも八束の名前はあるが、何故か永手の名前がない。
(3)前述のように、天平勝宝元年まで、永手は弟の八束に官位を抜かされているが、長子優先の中国伝来の律令制を忠実に守っていた奈良時代で、この現象事態が異常。この後、南家・藤原豊成が弟の仲麻呂に抜かされる事態が発生するが、これは豊成が橘奈良麻呂の乱に連座するという大事件があったから。吉川氏のいう「仲麻呂と永手の不仲」はここまで官位に影響する事件とは思われない。
…ということで、他にも授刀大将など(謎)いくつか細かい問題点もありますが、ともかく吉川説では藤原永手人生前半の空白が説明できないと考えるのであります。
本読んだ限りでは、たぶん吉川先生は藤原永手ラブだと思うのだが(ヲイ)、そのパワーで、今後の研究の進展を期待するものなのであります。
実はこれに関しては私説を持っているのだが、いずれ明らかにするかも知れないししないかも知れないヾ(^^;)
※このネタは2008年10月17日にかかれた物ですが、東野氏の論文を探すのに時間がかかり、今頃のupとなりました。ああはずかし。
日本古代史の本を読むのは久しぶりだった。
タイトルからでは分かりにくいが、奈良時代の貴族に関するいろんな論考が集まっているという印象。
個人的には関心のある藤原北家3兄弟(藤原房前と正妻・牟漏女王の間に生まれた永手・八束(眞楯)、千尋(御楯))に関する論考を興味深く拝読した。吉川氏は『続日本紀』に書かれた藤原眞楯(八束)薨伝は本来兄の永手薨伝として書かれた物がかなり混入しており、
・藤原仲麻呂と不仲だったのは八束(眞楯)ではなく永手
・永手の若いときはなかなか出世できずに一時弟の八束に抜かれているが、それも仲麻呂と不仲だったのが理由
という結論にいたっておられる。(第二編第八章「仲麻呂政権と藤原永手・八束(眞楯)・千尋(御楯)」)しかし、中年期(具体的に言えば橘奈良麻呂の変〜藤原仲麻呂の変)の間で再び永手の出世が停滞するのは藤原仲麻呂と永手が不仲だったからという理由は納得できるが、若いときの出世の停滞まで仲麻呂との不仲に求めるのは納得しがたい。
(1)永手の出世の停滞は天平初年に初叙、天平9年(737年)に正六位下(たぶん蔭位制から考えてもこれが初叙時の官位)から従五位下に昇叙、ところが天平勝宝元年(749年)に従五位下から従四位下にいきなり3段階昇叙するまで、北家の嫡長子でありながら12年間も放置されていた。この時期はまだ藤原仲麻呂も「ライバル」永手の出世を牽制するほどに出世しておらず、ここまで永手の出世を妨害できる立場にあったとは思われない。
(2)東野治之氏(奈良大学教授)は法隆寺に聖徳太子とは全く関係のない橘三千代関係の一族がいろいろと寄付をしていることに関して橘三千代の信仰と関係があるのではないかと指摘した。その時に橘三千代の娘・牟漏女王の一族になる藤原北家も法隆寺にいろいろと便宜を図っていることを指摘されていた(参照「聖徳太子から光明皇后へ−太子信仰の系譜」 『国宝と歴史の旅 (1) (朝日百科日本の国宝別冊)
(3)前述のように、天平勝宝元年まで、永手は弟の八束に官位を抜かされているが、長子優先の中国伝来の律令制を忠実に守っていた奈良時代で、この現象事態が異常。この後、南家・藤原豊成が弟の仲麻呂に抜かされる事態が発生するが、これは豊成が橘奈良麻呂の乱に連座するという大事件があったから。吉川氏のいう「仲麻呂と永手の不仲」はここまで官位に影響する事件とは思われない。
…ということで、他にも授刀大将など(謎)いくつか細かい問題点もありますが、ともかく吉川説では藤原永手人生前半の空白が説明できないと考えるのであります。
本読んだ限りでは、たぶん吉川先生は藤原永手ラブだと思うのだが(ヲイ)、そのパワーで、今後の研究の進展を期待するものなのであります。
実はこれに関しては私説を持っているのだが、いずれ明らかにするかも知れないししないかも知れないヾ(^^;)
※このネタは2008年10月17日にかかれた物ですが、東野氏の論文を探すのに時間がかかり、今頃のupとなりました。ああはずかし。
うっかり戦国漫画様でこういうネタが掲載されていた。
確かに、『逸話文庫』見るとそうかいてあるなー
但し、ちょっと調べたところでは「南海道記」なる史料はどうも存在していない様子。
ところが一字違いの「南海通記」ならある(『改版史籍集覧』通記編7所収)。「…南海といえば南海電車普通四国とか和歌山のことだよね…期待薄だな」と思いつつもしっかり借りて読んでみました。
…予想的中、四国の鎌倉時代〜戦国時代を扱った本だった(^^;)
しかし、最後の方(第十八章)に何故か島津登場。おおそうだった、長宗我部元親・信親親子は九州御動座で酷い目に遭わされたんですよね…。島津氏の降伏まで書いてあるようだから、じっくり読んでみる
…
…島津義久が背負った金箔の磔柱の話がでてこなーい
島津義久の珍しいパフォーマンスシーンが見られると思って期待してたのにヾ(--;)
やっぱり『けん草小言』の著者の早とちりだったのか…
ちなみに『けん草小言』とは江戸時代に小宮山昌秀という人が書いた随筆らしいです(『日本随筆大成』第2期19巻所収)。
「逸話文庫」という本に義久関連の話が三つほど載ってたのですが、最後に載ってた話が管理人の腹筋を直撃した。
例の如く超絶意訳→「伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に九州征伐で島津義久も金箔十字架背負って秀吉に降伏したんですよ。って南海道記に書いてる。」
確かに、『逸話文庫』見るとそうかいてあるなー
島津義久 張付柱を持ちて降る伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑いを受け金箔打ちたる張り付け柱を担わせ、上京せしという。よく人の知るところ也。然るに此より先秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして降参し『もし赦さざる時はこの磔の木に掛かるべし』と云える由、南海道記に見えたり。(けん※unicode8AFC草小言)
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但し、ちょっと調べたところでは「南海道記」なる史料はどうも存在していない様子。
ところが一字違いの「南海通記」ならある(『改版史籍集覧』通記編7所収)。「…南海といえば
…予想的中、四国の鎌倉時代〜戦国時代を扱った本だった(^^;)
しかし、最後の方(第十八章)に何故か島津登場。おおそうだった、長宗我部元親・信親親子は九州御動座で酷い目に遭わされたんですよね…。島津氏の降伏まで書いてあるようだから、じっくり読んでみる
…
…島津義久が背負った金箔の磔柱の話がでてこなーい
島津義久の珍しいパフォーマンスシーンが見られると思って期待してたのにヾ(--;)
やっぱり『けん草小言』の著者の早とちりだったのか…
ちなみに『けん草小言』とは江戸時代に小宮山昌秀という人が書いた随筆らしいです(『日本随筆大成』第2期19巻所収)。
拙別館関連でリンクはって下さっている<(_ _)>こちらで紹介された「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」おもしろいですな。
ただ、やっぱり本は本で読む物であって、パソコン画面で読むのはちょっとつらいと言うことを実感ヾ(^^;)
入手困難本が家ですぐ読めるのは便利だと思いますが。
さて本題。
上記ライブラリーに登録されている本に『国分の古蹟』という明治36年に書かれた物がある。
そこに掲載されているこの神社
猫?
気になり続きを見てみる。
ほう、島津久保の猫好きという話はどれがネタになっていると思っていたのだが、こういう神社に伝わっている話がベースになっているようですね。
しかし没後数十年経ってから奉ってると言うのが気になる。場所は久保にユカリの土地じゃなくて、島津義久や亀寿が住んでいた場所に近いし。もしかして久保の猫に化けて家久(忠恒)に祟ったのか?猫?ヾ(^^;) もしそうならいい猫だなーヾ(--;)
ちなみにこの神社、『国分郷土誌』「神社」にも掲載されていて今も残っている(鹿児島県霧島市国分姫城)ようだが、上の猫話は何故か紹介されていない…面白いのに。
ただ、やっぱり本は本で読む物であって、パソコン画面で読むのはちょっとつらいと言うことを実感ヾ(^^;)
入手困難本が家ですぐ読めるのは便利だと思いますが。
さて本題。
上記ライブラリーに登録されている本に『国分の古蹟』という明治36年に書かれた物がある。
そこに掲載されているこの神社
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=6&tpl_hit_num=21&tpl_toc_word=+%C5%E7%C4%C5%B5%C1%B5%D7&tpl_jp_num=40010067&tpl_vol_num=00000&JP_NUM=40010067&VOL_NUM=00000&KOMA=48&tpl_search_kind=2&tpl_keyword=%C5%E7%C4%C5%B5%C1%B5%D7&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_end_of_data=村社 稲荷神社
国分停車場を離る十五町
祭神 宇加魂神 猫神
猫?
気になり続きを見てみる。
猫神は島津又市郎久保公常に此の猫を寵愛し朝鮮征伐の時召列れしが文禄二年高麗にて久保公逝去せられしときこの猫久保公を慕い餓死せしを家久公帰朝の後示現により寛永十三年に猫神と崇敬せられ奉斎したまふ
ほう、島津久保の猫好きという話はどれがネタになっていると思っていたのだが、こういう神社に伝わっている話がベースになっているようですね。
しかし没後数十年経ってから奉ってると言うのが気になる。場所は久保にユカリの土地じゃなくて、島津義久や亀寿が住んでいた場所に近いし。もしかして久保の猫に化けて家久(忠恒)に祟ったのか?猫?ヾ(^^;) もしそうならいい猫だなーヾ(--;)
ちなみにこの神社、『国分郷土誌』「神社」にも掲載されていて今も残っている(鹿児島県霧島市国分姫城)ようだが、上の猫話は何故か紹介されていない…面白いのに。

