拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
管見で見た限り、今まで紹介されたことがないようなので。
「樺山文書」402「満福寺墓碑銘注文」(『鹿児島県史料』「旧記雑録拾遺 家分け5」所収)
この文書が書かれた時期だが、省略した系図に記入された最新の命日が元禄四年になっていることから、そのころに書かれた物と推測できる。最初の系図のみなら、樺山家歴代の家族の法要のために作られた物として単純に考えられるのだが、その文書に樺山家の一族でない者の一覧(上記引用部)もついてきているのだから奇妙である。しかもそのメンバーたるや、島津氏に関わって非業の死を遂げた人ばかりである。
筆頭にあげられた慶長14年(1609年)に亡くなったという「中山国前大王」とは、実際は慶長20年(1615年)に悲嘆のうちに生涯を終えた尚寧王そのひとであろう。ちなみに慶長14年とは、島津氏の琉球侵攻により沖縄が(それまでも明の属国だったとはいえ)政治的な自立性を失った年である。もう一人の筆頭にあげられたのは、隠れた暴力将軍(おい)として有名な足利義教の弟で、薩摩に逃亡したあげく、嘉吉元年3月13日に義教の命で殺害された大覚寺義昭である。下に並んでいるのも、岩屋城の戦いで島津氏に包囲され激烈な玉砕を遂げた高橋紹運(立花宗茂の実父)、「検校律師」は管見では不明だが、天文18年は北薩の国人(蒲生、祁答院など)と激烈な合戦を繰り広げている頃であり、このときに大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の衆徒だったという「検校律師」なる人物が北薩国人連合側に着き、島津氏に殺害された可能性はあるだろう。
この文書を見て気がつくのは、この文書によりこれから樺山家が作ろうとした石碑とは、かつて島津義弘・忠恒親子が高野山に作った「朝鮮之役敵味方供養碑」と目的は同じ物なのではないかということである。
それにしても、なぜこの時期に樺山家はこういう物を作ろうとしたのであろうか。
樺山家はその琉球出兵で総大将をつとめた樺山久高を輩出した島津氏の有力分家である。家臣の内でもっとも琉球出兵を推進したのが久高という指摘もある。が、これほどまでの功績を挙げたにもかかわらず、鹿児島藩におけるその後の樺山家の処遇はあまりよいものではなかったらしい。さらに、寛永16年に久高の孫が亡くなり直系が絶え、以後2回も末期養子を迎えてようやく家を存続させるという状態に陥っていた。とりあえず「一所持」という上級藩士の家格は保っていた物の、この文書を作った元禄頃には借財がかさみ返済に苦しむ状態にまで陥っていたようである(「樺山文書」401)。
このような家運傾く中で、その原因を先祖の”悪行”に見いだし、またそれらの”悪行”によって亡くなった人々を供養することで何とか樺山家の再興を願ったのが上記の文書では無かろうか。
さて、自己都合とはいえ(おい)、琉球侵攻などを悔いる様子を見せた樺山家にたいし、それを命令した島津本宗家の方なのだが、琉球侵攻に関してはその前の朝鮮出兵ほどのイベントとすら思われていなかったようで、慰霊碑などの建立はもちろん、まとまった軍記物なども書かれてないようなのである(ちなみに朝鮮出兵に関しては「征韓録」というアレなタイトルの資料が作成されている。戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)
所収。)
これをどう考えればいいのだろうか・・・。
※これを書いた後で入手した『都城市史通史編 中世・近世』にて、この文書が原書写真付きで紹介されていました。ご興味のある方はどうぞ。ただし載っているページが「琉球侵略」(都城市史ではこう書いてあった)じゃなくて別のページだが。
「樺山文書」402「満福寺墓碑銘注文」(『鹿児島県史料』「旧記雑録拾遺 家分け5」所収)
(前半、樺山家系図のため略)
※本文は当然縦書きなのだが、ネット上の都合により横書きにした。慶長十四年己酉四月 天正十三年乙酉廿八日
○中山国前大王 ○高橋紹雲斎
琉球國没落之時代 筑前岩屋之城主
天文十八年己酉○検校律師
大隅正八幡宮衆徒
○亡敵貴賎各霊
嘉吉元年辛酉三月十三日
○義昭大僧正法印 ○当家忠義臣各霊
義教将軍令弟
大覚寺殿
この文書が書かれた時期だが、省略した系図に記入された最新の命日が元禄四年になっていることから、そのころに書かれた物と推測できる。最初の系図のみなら、樺山家歴代の家族の法要のために作られた物として単純に考えられるのだが、その文書に樺山家の一族でない者の一覧(上記引用部)もついてきているのだから奇妙である。しかもそのメンバーたるや、島津氏に関わって非業の死を遂げた人ばかりである。
筆頭にあげられた慶長14年(1609年)に亡くなったという「中山国前大王」とは、実際は慶長20年(1615年)に悲嘆のうちに生涯を終えた尚寧王そのひとであろう。ちなみに慶長14年とは、島津氏の琉球侵攻により沖縄が(それまでも明の属国だったとはいえ)政治的な自立性を失った年である。もう一人の筆頭にあげられたのは、隠れた暴力将軍(おい)として有名な足利義教の弟で、薩摩に逃亡したあげく、嘉吉元年3月13日に義教の命で殺害された大覚寺義昭である。下に並んでいるのも、岩屋城の戦いで島津氏に包囲され激烈な玉砕を遂げた高橋紹運(立花宗茂の実父)、「検校律師」は管見では不明だが、天文18年は北薩の国人(蒲生、祁答院など)と激烈な合戦を繰り広げている頃であり、このときに大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の衆徒だったという「検校律師」なる人物が北薩国人連合側に着き、島津氏に殺害された可能性はあるだろう。
この文書を見て気がつくのは、この文書によりこれから樺山家が作ろうとした石碑とは、かつて島津義弘・忠恒親子が高野山に作った「朝鮮之役敵味方供養碑」と目的は同じ物なのではないかということである。
それにしても、なぜこの時期に樺山家はこういう物を作ろうとしたのであろうか。
樺山家はその琉球出兵で総大将をつとめた樺山久高を輩出した島津氏の有力分家である。家臣の内でもっとも琉球出兵を推進したのが久高という指摘もある。が、これほどまでの功績を挙げたにもかかわらず、鹿児島藩におけるその後の樺山家の処遇はあまりよいものではなかったらしい。さらに、寛永16年に久高の孫が亡くなり直系が絶え、以後2回も末期養子を迎えてようやく家を存続させるという状態に陥っていた。とりあえず「一所持」という上級藩士の家格は保っていた物の、この文書を作った元禄頃には借財がかさみ返済に苦しむ状態にまで陥っていたようである(「樺山文書」401)。
このような家運傾く中で、その原因を先祖の”悪行”に見いだし、またそれらの”悪行”によって亡くなった人々を供養することで何とか樺山家の再興を願ったのが上記の文書では無かろうか。
さて、自己都合とはいえ(おい)、琉球侵攻などを悔いる様子を見せた樺山家にたいし、それを命令した島津本宗家の方なのだが、琉球侵攻に関してはその前の朝鮮出兵ほどのイベントとすら思われていなかったようで、慰霊碑などの建立はもちろん、まとまった軍記物なども書かれてないようなのである(ちなみに朝鮮出兵に関しては「征韓録」というアレなタイトルの資料が作成されている。戦国史料叢書〈第2期 第6〉島津史料集 (1966年)
これをどう考えればいいのだろうか・・・。
※これを書いた後で入手した『都城市史通史編 中世・近世』にて、この文書が原書写真付きで紹介されていました。ご興味のある方はどうぞ。ただし載っているページが「琉球侵略」(都城市史ではこう書いてあった)じゃなくて別のページだが。
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こちらの記事でも紹介させていただきましたが、拙ブログ(前居の方ですが)をご紹介くださりまことにありがとうございます+リンク先のブログを見てびっくりしたのだが、『西藩野史』も近代デジタルライブラリーに収録済みらしい。近くの図書館には所蔵が無く、どうやって借りた物やらと悩んでいたから、助かったー。
そのブログでは「島津光久」の項目に直接リンクしてあるようだから、そこから読んでみるか
・・・
(『島津家正統系図』他多数の記述から)予想はしていたが
治世中最大のイベントが「徳川家綱の前で犬追物上演」…
平和な時代ってそんなもんかもしれないが、なんか…ほかに書くことないのか
あと、光久の息子・綱久が死んだあたりでの記述にかなり文量が食われている・・・
『西藩野史』の著者的には光久はどうでもよくて早死にした綱久のほうに興味が・・・いやなんでもありません(棒読み)
まあ普通の人情としては、寿命を全うしたアレな家久(忠恒)より早世の久保ですもんね!ヾ(--;)
ばんない的『西藩野史』「島津光久」項まとめ
・おとーちゃん(=アレな家久)が死んだので後を嗣いだよ!
・幕府にも覚えのめでたい家老(兼光久の義理の祖父)・伊勢貞昌が延々と説教してくれたよ!ありがたいから全文書いておくよ!
・家老の入れ替わりがあったり、金山が見つかったりしたよ!さくっと書いておくよ!(さくっとかよ)
・伊勢貞昌が亡くなっちゃったよ…幕府にも覚えがめでたい人だから丁寧に書いておくよ…。
・一門の島津久章(実は島津義久公の曾孫で前の殿の島津家久公の娘婿で、光久公の妹婿なんだけど…)いろいろあって殺されちゃった!(をーい)…何かやばそうなので…自粛気味に書いておくよ…。
・徳川家綱公他多数の大名の面前で犬追物やったよ!盛大にやったよ!無茶苦茶丁寧に書いておくよ!
・貞昌の孫娘で綱久公の母上である光久の正妻1号が亡くなった…さくっと書こう ヾ(--;)
・その後もいろいろあったけどめんどくさいから(をい)サラサラ書いておくよ!
・若殿・綱久公が突然亡くなっちゃったよ。・゚・(つд∩) ・゚・ 。悲しいよ!綱久公の家臣が一杯挽歌を書いたようだから熱意を持って頑張って書くよ!
・光久公、親戚の佐土原藩にも介ny…いや、お心配りをされてるんですね(棒読み)
・そうこう言ってる内に光久公72になったので隠居したよ!(へっ?!)
・光久公亡くなったって…後妻の人、京都のお公家からお嫁に来た人だけど…すごく教養ある人だったんだなー。この人の和歌はがんばって沢山載せておこう。
結論:光久公って徳のある立派な人だったんだよ!
…上の記述をどうまとめたら「光久公立派な人だった」って結論出るんだ、『西藩野史』の著者よ…
そのブログでは「島津光久」の項目に直接リンクしてあるようだから、そこから読んでみるか
・・・
(『島津家正統系図』他多数の記述から)予想はしていたが
治世中最大のイベントが「徳川家綱の前で犬追物上演」…
平和な時代ってそんなもんかもしれないが、なんか…ほかに書くことないのか
あと、光久の息子・綱久が死んだあたりでの記述にかなり文量が食われている・・・
『西藩野史』の著者的には光久はどうでもよくて早死にした綱久のほうに興味が・・・いやなんでもありません(棒読み)
まあ普通の人情としては、寿命を全うしたアレな家久(忠恒)より早世の久保ですもんね!ヾ(--;)
ばんない的『西藩野史』「島津光久」項まとめ
・おとーちゃん(=アレな家久)が死んだので後を嗣いだよ!
・幕府にも覚えのめでたい家老(兼光久の義理の祖父)・伊勢貞昌が延々と説教してくれたよ!ありがたいから全文書いておくよ!
・家老の入れ替わりがあったり、金山が見つかったりしたよ!さくっと書いておくよ!(さくっとかよ)
・伊勢貞昌が亡くなっちゃったよ…幕府にも覚えがめでたい人だから丁寧に書いておくよ…。
・一門の島津久章(実は島津義久公の曾孫で前の殿の島津家久公の娘婿で、光久公の妹婿なんだけど…)いろいろあって殺されちゃった!(をーい)…何かやばそうなので…自粛気味に書いておくよ…。
・徳川家綱公他多数の大名の面前で犬追物やったよ!盛大にやったよ!無茶苦茶丁寧に書いておくよ!
・貞昌の孫娘で綱久公の母上である光久の正妻1号が亡くなった…さくっと書こう ヾ(--;)
・その後もいろいろあったけどめんどくさいから(をい)サラサラ書いておくよ!
・若殿・綱久公が突然亡くなっちゃったよ。・゚・(つд∩) ・゚・ 。悲しいよ!綱久公の家臣が一杯挽歌を書いたようだから熱意を持って頑張って書くよ!
・光久公、親戚の佐土原藩にも介ny…いや、お心配りをされてるんですね(棒読み)
・そうこう言ってる内に光久公72になったので隠居したよ!(へっ?!)
・光久公亡くなったって…後妻の人、京都のお公家からお嫁に来た人だけど…すごく教養ある人だったんだなー。この人の和歌はがんばって沢山載せておこう。
結論:光久公って徳のある立派な人だったんだよ!
…上の記述をどうまとめたら「光久公立派な人だった」って結論出るんだ、『西藩野史』の著者よ…
http://www.asahi.com/food/news/TKY200904280354.html政宗好物詰めた「伊達幕」いざ発売 2009年4月29日伊達政宗にちなんだ駅弁「伊達幕」が29日からJRの仙台駅や東京駅などで発売される。伊達家の家紋「九曜(くよう)紋」がモチーフの弁当箱に、政宗が 出陣前に必ず食べたという鶏肉や伊達家の正月料理だったサケなど、史実に基づいた九つの料理が彩り鮮やかに詰められている。発売元はJR東日本グループの日本レストランエンタプライズ仙台支社。1個1100円。担当者は「先着4千個には九曜紋の入った手ぬぐいが付いています」とアピールしている。
九曜紋って、確か細川・・・げふんげふん。伊達は竹に雀・・・。
おまけ:
前田家大名料理を元にした駅弁「利家弁当」
老舗料亭として有名な大友楼が作ってます。他にもいろいろ種類があるみたい。
見たまんま。
この件数を10000件以上にするのが夢です ヾ(--;)
※こちらのブログとネタがかぶってしまいました。大変すみません。
だがしかし画像処理が面倒だったので削除せずにおいておく(こらこら)
この件数を10000件以上にするのが夢です ヾ(--;)
※こちらのブログとネタがかぶってしまいました。大変すみません。
だがしかし画像処理が面倒だったので削除せずにおいておく(こらこら)
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(ブログ概要)
当ブログは「戦国島津女系図」の別館です。
取り上げる内容は
- 本館のカテゴリーに入れないような小ネタ
- 単独項目を立てるほどじゃない刺身のツマ
- 歴史に関係あるけど、実は島津にはほとんど関係ない・・・ネタ
- 歴史に関連した個人的なウケ狙い
(ブログタイトル由来)
これ。安直。伊地知季安先生ごめんなさい。
(カテゴリー説明)
カテゴリー分類のだいたいの基準は以下の通りです。
- 史料紹介:そのまんま(苦笑)
- 感想:本やテレビ番組などの感想・意見などです。
- 考察:そのまんま(苦笑)
- 雑記:上記カテゴリーに入れられそうにないようなネタは全部こちら。
- お遊び:ウケ狙いネタはここ
- 石原莞爾/今田新太郎:2013/07/05の新設カテゴリ。タイトルの人に関連したネタは考察も資料紹介もここに放り込んでいます。
- お知らせ:当ブログ・あるいは本館に関するお知らせ(万が一本館が落ちた場合のみ)はこちらです。ここも落ちた場合はリンク先の「b様ブランド」(日記「b様ぶろぐ。」)で通知します。
※この記事に関しては随時修正UPされる可能性があります。
初版:2009/5/1UP
2版:2010/9/30UP
3版:2012/5/23UP
4版:2013/6/23UP
5版:2013/7/6UP

