拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の話はこちら
「呉服師由緒書」に掲載された後藤縫殿丞・松林家の記述は庄三郎家の由緒書きが10代に渡りかなりの分量なのに対し、少な目です。それどころか、同じ「呉服師由緒書」に掲載された茶屋四郎次郎家の記述の分量の半分もないくらいなのです。しかし、江戸時代初期に後藤庄三郎・角倉了以と並び賞された茶屋四郎次郎家より先に掲載されたところから見て、この「呉服師由緒書」が作成された頃には後藤縫殿丞・松林家の格は茶屋四郎次郎家より上と思われていたのかも知れません。
では本文紹介。短いので頑張って全文掲示します。
1節目では、以前拙HPのこちらで紹介したように、島津長徳の息子が後藤松林(少林)の養子となったことが書かれています。私が参考にした資料では養子先の後藤家のことが全く分からなかったのですが、「由緒書」によるとどうも徳川家の譜代の旗本のようですね。蛇足ですが島津長徳の出自について「島津○○守弟」と欠字になっているのが興味深いです。もしかしたら元史料の虫損じゃなくて、本当に伏せ字だったのかも。譜代の旗本の実家が外様の大大名となるといろいろやばそうですから。
2節目~最終節では、そのような譜代の侍がなぜ呉服師という商人になっていったのかを説明しています。当初二条城にあった将軍家の衣裳の管理をしていたのですが、それがきっかけとなって大奥に収める着物を扱うようになり、商人へと転じていったようです。
しかし、巻頭に書かれているように幕府からは「200石」という領地も拝領しており、半士半商という妙な立場だったのでしょうか?この辺り、私は幕府御用商人というのが余り分からないので何とも言えませんが…。
「後藤庄三郎由緒書」「呉服師由緒書」を所収した『徳川時代商業叢書』の前書き(緒言)では、その後の後藤縫殿允(縫殿助)家についてこう説明しています。
「呉服師由緒書」に掲載された後藤縫殿丞・松林家の記述は庄三郎家の由緒書きが10代に渡りかなりの分量なのに対し、少な目です。それどころか、同じ「呉服師由緒書」に掲載された茶屋四郎次郎家の記述の分量の半分もないくらいなのです。しかし、江戸時代初期に後藤庄三郎・角倉了以と並び賞された茶屋四郎次郎家より先に掲載されたところから見て、この「呉服師由緒書」が作成された頃には後藤縫殿丞・松林家の格は茶屋四郎次郎家より上と思われていたのかも知れません。
では本文紹介。短いので頑張って全文掲示します。
以上です。高現米貳百石 呉服師 後藤縫殿丞
後藤 松林
一 先祖、権現様三州岡崎御在城被為成候時節、御呉服御用、其他御内證御使御奉公奉相勤候、二代目後藤源左衛門忠正儀は、島津○○守弟長徳倅に而、永禄四年五歳の時、於駿州権現様上意に而、松林養子仕候、親松林御奉公仕候御由緒を以、源左衛門代従権現様御切米現米貳百石拝領仕候、其上源左衛門惣領後藤長八郎忠直、天正十二年遠州浜松に而出生、十二歳の時台徳院江被召出、御小姓御奉公仕、慶長五年信州上田城主真田安房守反逆、石田三成反逆の節御出陣の供奉仕、忠直始終不奉離御側、若年に候得共軍功有之候に付、御帰陣以後相州瀬谷領地拝領仕候、同八年病死仕、遺跡源左衛門三男清三郎言勝江被下置、慶長十年台徳院様江被召出、大坂寅卯両度の御陣供奉仕、其後大猷院様江被召出、上総国大多喜領○両所知行五百石拝領仕候、
権現様より先祖源左衛門拝領物、今以所持仕候
一 丸壺御茶入
一 若狭盆
右の外、品々拝領物度々焼失仕
一 往古御上洛の砌、御装束御道具類品々奉預、京都二條御城内御蔵江相納、に今支配仕、毎年御城内江罷出、虫干仕候、勿論御所司代御り御○中御引渡の節、御立会に而御見分御座候、
但、右の内御装束は、延宝六年御殿番三○市郎兵衛方へ相渡申候、
台徳院様、江戸御城入の御時より、御本丸御広敷江、私先祖より御出入被為仰付、今以相違し無御座候、尤御広敷御掛板、御奉書の末に、私御記御座候、元和三年練御小袖被仰付候付、伏見於御城、白糸十七丸奉請取縫立共出来、奉指上候、崇源院様、天樹院様、大姫様、高同様御召并御道呉服共、私方より指上申候、勿論御代々御台様、姫君様方、御部屋様方御召御呉服御用、古来より奉相勤候、
一 東福門院様ご誕生の節は不及申、元和七年御入内の節、御式正御呉服御用相勤、并従京都江戸表にて御方々様江被為進物、并御女中方御留守居方江被下御時服其外共、都而私方江被仰付奉寵臣候、大猷院様竹千代様と奉称候節、御局春日殿、三代目縫殿允益勝江被仰候は、竹千代様御不自由被遊御座候間、御内證諸御用の御賄共承候様被仰、其節御諸懇の被仰渡茂有之、御用御奉公に奉相勤候、
一 寛永四丁卯年九月四日口宣頂戴仕候写
口宣案
上卿 日野大納言
寛永四年九月四日 宣旨
藤原益勝
宣任縫殿允
蔵人頭右近衛権中将藤原基○
右口宣案今所持仕候、
1節目では、以前拙HPのこちらで紹介したように、島津長徳の息子が後藤松林(少林)の養子となったことが書かれています。私が参考にした資料では養子先の後藤家のことが全く分からなかったのですが、「由緒書」によるとどうも徳川家の譜代の旗本のようですね。蛇足ですが島津長徳の出自について「島津○○守弟」と欠字になっているのが興味深いです。もしかしたら元史料の虫損じゃなくて、本当に伏せ字だったのかも。譜代の旗本の実家が外様の大大名となるといろいろやばそうですから。
2節目~最終節では、そのような譜代の侍がなぜ呉服師という商人になっていったのかを説明しています。当初二条城にあった将軍家の衣裳の管理をしていたのですが、それがきっかけとなって大奥に収める着物を扱うようになり、商人へと転じていったようです。
しかし、巻頭に書かれているように幕府からは「200石」という領地も拝領しており、半士半商という妙な立場だったのでしょうか?この辺り、私は幕府御用商人というのが余り分からないので何とも言えませんが…。
「後藤庄三郎由緒書」「呉服師由緒書」を所収した『徳川時代商業叢書』の前書き(緒言)では、その後の後藤縫殿允(縫殿助)家についてこう説明しています。
江戸時代に繁栄した呉服屋の多くは、明治以降は百貨店業に転じたところが多いように思うのですが(越後屋→三越、松阪屋、伊勢丹、高島屋、大丸など)、後藤家が百貨店業に転じたという話は存じません。おそらく幕府御用商人という立場から考えて、明治維新と共に没落したのでしょう。後藤縫殿介は世に呉服後藤と称へて金座後藤と区別す。其子孫今も東京に在りて「竹千代様家光御内證御申御賄共承候様被仰御諸懇の被仰渡義有之」し時の書類等を伝承せり。故に家光襲職の後は大に勢力を得て永く其家繁栄せり。其旧地は一石橋を隔てて金座後藤と相対せり。
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前回の話はこちら
タイトルに掲げた「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」は『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)に所収されています。
「後藤庄三郎由緒書」は徳川幕府御用達の御金改役を代々勤めていた商人・後藤庄三郎家の歴史を書いた物です。歴代当主の説明が10代目庄三郎で終わっており、日付を「寛政十年六月」(1798年)としているところから、この頃に成立したと考えられます。ちなみに初代庄三郎は角倉了以、茶屋四郎次郎と並ぶ徳川家御用商人でした。
「呉服師由緒書」はやはり徳川幕府御用達の呉服屋、後藤縫殿允・後藤松林家(松林家は縫殿允家の分家)、茶屋四郎次郎家の3家の由緒書をまとめた物です。こちらは年記がないため成立時期ははっきりしませんが、記述内容で最も新しい物が徳川家光の話で「大猷院様」と法号で書かれているところから考えて、4代将軍家綱の頃が成立の下限と思われます。
なお「後藤庄三郎由緒書」は「視聴草」所収「後藤家由緒書」とほぼ内容は同じです。
「後藤庄三郎由緒書」では後藤庄三郎家の起源について
ちなみに上の文章を見る限りでは、大橋局は青山正長なる人物の娘で、使えていたのは徳川家康のようです。
「呉服師由緒書」は「後藤庄三郎家由緒書」より文章量も少なく、簡略な内容です。
全文提示しますので、項をかえて続けます。
タイトルに掲げた「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」は『徳川時代商業叢書』第一(国書刊行会)に所収されています。
「後藤庄三郎由緒書」は徳川幕府御用達の御金改役を代々勤めていた商人・後藤庄三郎家の歴史を書いた物です。歴代当主の説明が10代目庄三郎で終わっており、日付を「寛政十年六月」(1798年)としているところから、この頃に成立したと考えられます。ちなみに初代庄三郎は角倉了以、茶屋四郎次郎と並ぶ徳川家御用商人でした。
「呉服師由緒書」はやはり徳川幕府御用達の呉服屋、後藤縫殿允・後藤松林家(松林家は縫殿允家の分家)、茶屋四郎次郎家の3家の由緒書をまとめた物です。こちらは年記がないため成立時期ははっきりしませんが、記述内容で最も新しい物が徳川家光の話で「大猷院様」と法号で書かれているところから考えて、4代将軍家綱の頃が成立の下限と思われます。
なお「後藤庄三郎由緒書」は「視聴草」所収「後藤家由緒書」とほぼ内容は同じです。
「後藤庄三郎由緒書」では後藤庄三郎家の起源について
と説明しています。大膳大夫大江広元弟武蔵守大江親広後裔、美濃国加納城主長井藤左衛門利氏曾孫上意を以氏を改め後藤少輔三郎又少三郎共庄三郎共認る
その後延々と後藤家歴代がいかに徳川家の興隆に貢献してきたかが語られているのですが、注目すべきは後藤家が徳川家のご落胤を当主としたとほのめかすような記述があることでしょう。
はっきりとは明言していませんが二代目・広世(廣世)が商人の息子でありながら家康から家光まで3代の将軍に近侍したこと、老中・酒井忠世という重要人物を烏帽子親として元服したこと、様々な拝領物をもらったこと、今川家→徳川家→後藤庄三郎家→徳川家と伝わったという「貴子鏡」なる宝物の逸話などをまじえ、「尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候」(広世の出生については恐れ多いことを伝え聞いているので)などとひじょーにうまいことを言って「書面に相認不申候」(確認できる資料は持ってません)とごまかしています。しかし同じ由緒書きでこのことを二回も強調しているところから見て、「将軍家のご落胤を身ごもった大橋局を引き取ってやった」という秘密を握っていたことが、後藤庄三郎家が長年に渡り「幕府御金改役」という特権を握れた理由であったことは間違いないと見てよいのではないでしょうか。庄三郎光次妻儀者、青山善左衛門正長娘、権現様上意以縁組仕候、然上大橋局と申を妻に被下置、其腹に出生仕候男子、二代目庄三郎に而、元和二年、御老中酒井雅楽頭忠世烏帽子子として、忠世宅に於て元服仕、廣世と相名乗申候 但、庄三郎廣世出生仕候譚、申傳之儀御座候得共、恐多筋も御座候間、書面に相認不申候
(中略)
二代目庄三郎廣世出生仕候儀、申傳有之候得共、恐多筋故相認不申候段本書に有候譚者、廣世母は、権現様御世大奥相勤大橋局と申し候処、光次江被下候、其以後間もなく男子出生候所、御内々申上候趣等、品々申傳候儀御座候へ共、恐多儀も相聞候間、書面に相認不申候
(中略)
右之外、承傳候者、生貴子鏡と申候鏡、古来駿州江唐船着之頃持渡り、今川家之手に入候、右鏡を常々見候婦人者、必男子を出産仕候由に而、重い器に御座候所、権現様御手に入有之、大橋儀大奥相勤候節右鏡奉預り、其後光次江大橋を被下候処男子出産仕候、則前書に相認候二代目庄三郎廣世に而御座候、且又右貴子鏡拝領仕持傳候所、文昭院様御代差上候様被仰付、月光院様御勤中被下候由に御座候得共、数度之類焼に而書留類焼仕候、尤右廣世出生等之儀、至而恐多儀も申傳候間、前々より書留など憚候儀と相見申候、且只今之常盤橋、古来者大橋と唱候由、廣世母名前大橋と申候儀も、御側相勤候故之儀に御座候哉、又者光次江被下候以後、伺御機嫌等に罷出候節大橋と被召呼候哉、名前者いわと認候覚書も有之候間、右推察之趣も御座候哉、尤大橋儀老後に剃髪仕、栄長院と申候、慶安五年五月廿九日病死仕候
(後略)
ちなみに上の文章を見る限りでは、大橋局は青山正長なる人物の娘で、使えていたのは徳川家康のようです。
「呉服師由緒書」は「後藤庄三郎家由緒書」より文章量も少なく、簡略な内容です。
全文提示しますので、項をかえて続けます。
拙HP「大橋局」はこちらを。
拙HPの記述はなるべく原史料に当たるようにしているのですが、この大橋局に関しては『人物事典 江戸城大奥の女たち
』(卜部典子著)を参照しました。というのも、卜部氏が当たったという「視聴草」を所蔵している図書館が近隣になく、非常に入手困難で確認が難しかったからです。
その後、影印本『視聴草』目次索引
があることを知り、それを入手したところ
なんと「視聴草」というのは一冊の本としてテーマを決めて上梓された物ではなく、江戸時代に販売されたいろんな書物を一冊にとじた物であることを知りました(○。○)
そして「視聴草」全体で百科事典ほどの本が17冊もあるというトンデモナイ物量の物であることも…⊂(。Д。⊂⌒`つ
そこで、やはり「原史料に当たって大橋局の記述を確認すべきではないか」と思い、上記の目次から怪しげな文書をリストアップ、その文書が掲載されている本のみを取り寄せて確認することにしました(購入は無理なんで、大きな図書館に依頼して取り寄せました…)。
その結果ですが
拙HPの記述はなるべく原史料に当たるようにしているのですが、この大橋局に関しては『人物事典 江戸城大奥の女たち
その後、影印本『視聴草』目次索引
なんと「視聴草」というのは一冊の本としてテーマを決めて上梓された物ではなく、江戸時代に販売されたいろんな書物を一冊にとじた物であることを知りました(○。○)
そして「視聴草」全体で百科事典ほどの本が17冊もあるというトンデモナイ物量の物であることも…⊂(。Д。⊂⌒`つ
そこで、やはり「原史料に当たって大橋局の記述を確認すべきではないか」と思い、上記の目次から怪しげな文書をリストアップ、その文書が掲載されている本のみを取り寄せて確認することにしました(購入は無理なんで、大きな図書館に依頼して取り寄せました…)。
その結果ですが
ネットを検索したりすると真田家を大河にしてくれ!という人は多いようですね。
でも、この数年の惨状ヾ(^^;)を見てると、大河にしたところで
「何もかもまるっと小松姫様のおかげでございます!」
とか
真田信繁(一般的に「真田幸村」として知られている人)が小松姫様の作ったお守りを握りしめて死んでいく
とか
こんな展開になりそうなのがはっきりしているので、まあそれでも良かったら…ヾ(^^;)
そうそう、今の20代以下の人は知らない人が多いでしょうが、かつてNHKは『真田太平記』
という連続ドラマを作ってまして、この頃大河ドラマ枠では現代ドラマを放送していたこともあり、この『真田太平記』を「裏大河」と評する人は多かったのです。最近e2byスカパー!のチャンネル銀河という老n熟年専用チャンネルで放送されているようですが(詳しくはこちら)、DVDも販売されているようです。
ということで個人的には「真田の大河見たかったら『真田太平記』のDVDを入手しましょう」という意見なんですが、万が一間違って真田大河する羽目になったらヾ(^^;)、表題の人を取り上げて欲しいなぁ。私も今まで全く知らなかったのですが、偶然検索中に知りました。詳しくは以下のリンクで。
石川貞清(wikipedia)
でも、この数年の惨状ヾ(^^;)を見てると、大河にしたところで
「何もかもまるっと小松姫様のおかげでございます!」
とか
真田信繁(一般的に「真田幸村」として知られている人)が小松姫様の作ったお守りを握りしめて死んでいく
とか
こんな展開になりそうなのがはっきりしているので、まあそれでも良かったら…ヾ(^^;)
そうそう、今の20代以下の人は知らない人が多いでしょうが、かつてNHKは『真田太平記』
ということで個人的には「真田の大河見たかったら『真田太平記』のDVDを入手しましょう」という意見なんですが、万が一間違って真田大河する羽目になったらヾ(^^;)、表題の人を取り上げて欲しいなぁ。私も今まで全く知らなかったのですが、偶然検索中に知りました。詳しくは以下のリンクで。
石川貞清(wikipedia)
前の話はこちら
さて、以前桐野作人氏のブログで「島津亀寿の名前」についていろいろコメントしたことがあるのだが
『歴史読本』2009年4月号の坂田氏のコラムを読んで考えたのは
島津亀寿は幼名を晩年まで名乗っていた可能性もあるのではないか
ということ。
もっとも拙HPで説明しているように、人からは「御上様」と呼ばれることがもっぱらだったようなので、自称するぐらいで「亀寿」を使う機会は少なかったと思われる。
この説では「新城島津家文書」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家分け10』所収)にある亀寿書状の謎の末尾サイン「か」は「亀寿(かめじゅ/かめひさ?)」の略と言うことになるが…。ちなみにこの時代の女性、なぜか自分のサインをするときに頭一字しか使わないことが多いです(例:北政所書状で「ね」(「禰々」か「寧」の略)など)。
さて、以前桐野作人氏のブログで「島津亀寿の名前」についていろいろコメントしたことがあるのだが
『歴史読本』2009年4月号の坂田氏のコラムを読んで考えたのは
島津亀寿は幼名を晩年まで名乗っていた可能性もあるのではないか
ということ。
もっとも拙HPで説明しているように、人からは「御上様」と呼ばれることがもっぱらだったようなので、自称するぐらいで「亀寿」を使う機会は少なかったと思われる。
この説では「新城島津家文書」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家分け10』所収)にある亀寿書状の謎の末尾サイン「か」は「亀寿(かめじゅ/かめひさ?)」の略と言うことになるが…。ちなみにこの時代の女性、なぜか自分のサインをするときに頭一字しか使わないことが多いです(例:北政所書状で「ね」(「禰々」か「寧」の略)など)。

