拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
これの続きです。
詠花有喜色和歌
惟新
あつさゆミはるたちしより久堅のひかりのとけき花のいろかな
春日同詠花有喜色和歌
左衛門尉久高
春雨のそほふる空は長閑にて花もうちゑむ色や見ゆらむ
詠花有喜色和歌
沙弥慰畋
とひくやと春はひとまつ山さとの華にさかりの色そ見えける
春日同詠花有喜色和歌
大膳亮忠俊
なかめぬるこゝろをしるやとはかりにつほミし花もかつ開なり
春日同詠有花喜色和歌
大炊助久正
よろつ代のおひさきこもるはなの色はことしよりまつ咲そめにけり
春日同詠花有喜色和歌
左衛門尉貞成
契りきやときしこそあれさくらはなさき出るけふの色を見むとは
詠花有喜色和歌
沙弥玄与
ちとせへむ春そしらるゝ玉しきの庭のわか木のはなのいろ香に
詠花有喜色和歌
沙弥抱節
うくひすのこえのあやをる花なれは色も匂ひも似たるやはある
春日同詠花有喜色和歌
兵衛尉宗親
さきみてるはなのこすえはとよ年をしらせてつもる雪かとそ見る
春日同詠花有喜色和歌
左衛門尉忠通
風もいまえたをならさぬ時とてやさかりひさしき花と見ゆらむ
詠花有喜色和歌
沙弥宗察
なかめつゝなをもあかなくおもふかな花にあさ日のかけにほふ山
詠花有喜色倭歌
沙弥宗玄
うくひすの声をもはなにきゝそへたゆたかにみゆるにわの明ほの
詠花有喜色倭歌
沙弥與進
いまそしる四方のあらしのおさまりておもふことなく花を見むとは
慶長十一年三月四和歌会
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慶長11年の和歌の集いで詠った物のようです。
…じゃなくて、これは万葉仮名(たぶん)で書かれたれっきとした和歌なのです。…最もこの歌会の他の列席者は普通に漢字仮名交じり文で和歌を書いているから、義久が何を思ったのか気取っているのは事実ではありますが_(。_゜)/
拙読み下し
「しくちいく花のさかりじなれなれてこえなつましきももちどりかな」
…だと思うのですが、皆様のご意見お待ちしております<(_ _)>
他の列席者の和歌は次項にて。
ぎゃー漢字ばっかりじゃー気取り屋は伊勢貞昌ばかりじゃなかったのかヾ(--;)「義久公御譜中」
「正文御南戸方ヨリ出」
詠花有喜色和歌
法印龍伯
止久遅幾花濃佐可里耳奈礼ヽ天声無津真志貴百千登利賀那
(「薩藩旧記雑録」後編4-171)
…じゃなくて、これは万葉仮名(たぶん)で書かれたれっきとした和歌なのです。…最もこの歌会の他の列席者は普通に漢字仮名交じり文で和歌を書いているから、義久が何を思ったのか気取っているのは事実ではありますが_(。_゜)/
拙読み下し
「しくちいく花のさかりじなれなれてこえなつましきももちどりかな」
…だと思うのですが、皆様のご意見お待ちしております<(_ _)>
他の列席者の和歌は次項にて。
慶長11年、島津歳久の菩提寺・心岳寺に供養のために石塔が建てられます。その時に集まった人が詠んだ追悼和歌の中に、島津義久の一首もありました。
詞書きに当たる史料も一括して掲載してみます。
和歌の頭に「同」という小文字が付いていますが、おそらく本来は義久の一首の前に歌題が載っていたはずなのですが、それを失った物と思われます。四首に共通する言葉は「雪」(玄与の和歌のみ「霰」になっていますが)であるので、歌題は「雪」だったのでしょうか。
詞書きに当たる史料も一括して掲載してみます。
「左衛門督歳久譜中」
慶長十一年丙午十一月日、建石塔也、
「前ニ慶長四年三月、一寺ヲ建立シ、心岳寺ト称スル云〃アリ」
法印龍伯公、惟新公渡御于心岳寺、此時有高詠曰
(「薩藩旧記雑録」後編4-305)
「正文在平松心岳寺」
岩木まてかけふる寺を来て見れは
ゆきの三山そおもひやらるゝ 龍伯
同
夕浪に月と雪とをまちとらは
いつくはありと磯の山寺 惟新
同
御仏をたのむものゆへ袖にちる
あられの玉を手向にやせん 玄与
同
はらへともこほれぬ庭の雪さへて
松の葉しろき月のした風 久正
(「薩藩旧記雑録」後編4-306)
和歌の頭に「同」という小文字が付いていますが、おそらく本来は義久の一首の前に歌題が載っていたはずなのですが、それを失った物と思われます。四首に共通する言葉は「雪」(玄与の和歌のみ「霰」になっていますが)であるので、歌題は「雪」だったのでしょうか。
11首目は島津義弘の妻・宰相殿への追悼歌でしたが、ほぼ詞書きも含めて同文のものが慶長12年の項(「薩藩旧記雑録」後編4-322)に出ています。同文なので再掲はしませんが、日付が入っている点だけが異なっており、「慶長十二年二月十五日」となっています。
この史料の前後に、宰相殿死去に関する他の史料も掲載されています。和歌はありませんがヾ(^^;)興味深い物を2点ほど。
「羽左衛門大夫正則」は分かる人にはすぐに分かったと思いますが、福島正則のことです。宛先の「羽柴陸奥守」というのは島津家久(忠恒)のこと。豊臣秀吉は生前自身の権力基盤の強化を兼ねたものか、「羽柴」苗字を諸国の大名に配り(押しつけ)まくりました。関ヶ原の合戦後はほとんどの大名が「羽柴」苗字の名乗りをやめてしまったのですが、福島正則は慶長十一年時点でも「羽柴」苗字を名乗っていたこと、また他大名への書状の宛書きも「羽柴」苗字を使っているのは興味深いところです。
この史料の前後に、宰相殿死去に関する他の史料も掲載されています。和歌はありませんがヾ(^^;)興味深い物を2点ほど。
さすがの家久(忠恒)も実母の死はショックだったのか絶食したらしいです。といっても「親が死んで3日絶食プレイ」というのは中国の史書にはよく出てくるテンプレだったようなヾ(--;)「家久公御譜中」
慶長十二年二月朔日、家久之母堂逝去、法号実窓芳眞大姉、家久哀傷之余、三日断水穀、
(「薩藩旧記雑録」後編4-320)
「古御文書御軸物十番箱中」「家久公御譜中ニ在り」
以上
御状令拝見候、仍御母儀様御遠行候由、扨〃沙汰之限御朧気之段、無是非次第共御座候、将亦大御所様御上洛之者へ申入候、恐惶謹言
(慶長十一年) 羽左衛門大夫
五月廿七日 正則(花押)
羽柴陸奥守様
御報
(「薩藩旧記雑録」後編4-359)
「羽左衛門大夫正則」は分かる人にはすぐに分かったと思いますが、福島正則のことです。宛先の「羽柴陸奥守」というのは島津家久(忠恒)のこと。豊臣秀吉は生前自身の権力基盤の強化を兼ねたものか、「羽柴」苗字を諸国の大名に配り(押しつけ)まくりました。関ヶ原の合戦後はほとんどの大名が「羽柴」苗字の名乗りをやめてしまったのですが、福島正則は慶長十一年時点でも「羽柴」苗字を名乗っていたこと、また他大名への書状の宛書きも「羽柴」苗字を使っているのは興味深いところです。
12首目(?)はなんと連歌会。「12首目」でひとくくりにしていいのかなヾ(^^;)
しかもかなり長い_| ̄|○
義久の分だけ抜粋しても意味が通らないのでまとめて頑張って入力していきます。
列席者メンバーについてはこの後に書かれた史料で詳しいデータが判明します。
しかもかなり長い_| ̄|○
義久の分だけ抜粋しても意味が通らないのでまとめて頑張って入力していきます。
詞書きを見るとすぐ分かりますが、心岳寺(上記では「真岳寺」)で行われた島津歳久の追悼連歌会のようです。といっても歳久と直接関わりがあるのは兄の義久と孫の常久ぐらいしか見あたらないのがアレですが(苦笑)。あとは義久と親しい家臣が列席しているようです。「義久公御譜中」
「正文在平松真岳寺」
慶長十二年六月十八日
懐旧之連歌
露はたゝさなから玉のはちす哉 龍伯
池水きよき夏のゆふかけ 常久
にほとりの羽風絶ゝ音つれて 宗親
真砂つたひのみちのすえゝ 玄与
いく木立松ハらならし深みとり 忠通
あま雲はるゝ秋のすゝしさ 豊信
山窓にいまハた月をまちとりて 宗察
うち出けりなあさのさころも 有栄
帰るへきころとや旅をおもふらん 与進
風もしつかになる興津ふね 忠増
みるゝも浪に朝日の移ひて 政徳
たちにしあとにねたるとりゝ 元綱
かた分てふるやしくれの雨ならむ 武金
冬来てもまたさむからぬそて 龍伯
しはしたゝまきの戸ほそに端居して 常久
入にし月の名残こそあれ 宗親
行やらて秋の山路の仮まくら 玄与
きゝすてかたきさをしかの声 忠通
かなしさやたゝ我からのくれつかた 豊信
こゝろミたるゝおもひはかなや 宗察
なかめこし華はあらしに散つくし 有栄
つれゝにしのをくるなかき日 与進
春雨のをやミもやらぬ草の庵 忠増
たちこむる野のかすみいくむら 政徳
あさ沢の水のひゝきは幽にて 元綱
むすひやそむる氷なるらむ 常久
ほのしろく見ゆる梢のあきの霜 龍伯
松の葉わけの月のゆふくれ 玄与
ひやゝかに雲ふきはらふ風の音 宗親
つハさはなれすかけるとも靏 豊信
やとりをや出て行えの鷺ならむ 忠通
あけわたりたる遠かたのやま 宗察
夜もすからましハりつゝものむさけに 与進
罪ゆるされてかへるミやこ路 龍伯
こくふねはなミにへたゝるあかし瀉 玄与
しつまりけりなすまのうらかせ 元綱
月は猶あしたになるもかけ澄て 常久
をきそひにたる露のむら草 忠増
さまゝのなかめもよほす秋の庭 龍伯
とへかしとのミ人をまつくれ 宗親
ちきりてもあすをたのまむ命かは 玄与
おもひの程をいひハのこさし 忠通
みえしその面影をしもわすれかね 宗察
かすそふまりの名残おしけき 龍伯
袖にしもにはかに雨のそゝきゝて 与進
しのふむかしやなミたともなる 玄与
しほかまの跡をとふこそあはれなれ 政徳
おりゝことの松風の声 豊信
あたなりとしれは花にもうらみあれや 宗親
見れはこてふの遠さかるかけ 有栄
さひしさやなひくかきほの夕霞 元綱
人は帰りてさすやしはの戸 常久
塵の世をうしとや捨てすみぬらん 龍伯
苔地ふミわけむすふやま水 宗察
菊の香はなかれのすゑに浮ひ来て 玄与
秋をともとしくめるさかつき 有栄
出るよりうち向ひたる月のもと 政徳
あくこもさらにあらぬあらそい 与進
乗駒はけふのまつりを心にて 龍伯
とりゝならし袖のしらゆふ 玄与
誰もたゝたひのかとてのことふきに 忠増
とをき国までつかささたまる 豊信
代々にしも超つゝいまはおさまりて 忠通
あらしの後は雪のくれ竹 宗親
あつまりてすゝめ色とき声すや 宗察
往来たえたるみちのかたハら 元綱
あやしくもたかいひさけし中ならん 与進
うらみ出むもさすかはつかし 龍伯
海士のすむさとをたのめるさすらへに 豊信
明くれにしももくつ焼そて 忠通
蛟のこゑはと絶もやらぬ比にして 玄与
いく度もなくさむるうたゝ寝 忠通「本之儘 忠増」
板ふきのひまとめている月のいろ 有栄
露をさそへるかせ過ぬめり 常久
めくり行あとにもあきのうちしくれ 宗親
高根をうつむ雲のむらゝ 政徳
盛なるはなにかすミやけたるらん 忠通
さくよりそれと梅はまきれす 与進
越やらぬとしにもはるや立けらし 龍伯
声やゝちかき今朝のうくひす 元綱
竹の葉はミきりのうちにさしおほひ 常久
袖にふれ来る風そ涼しき 忠増
例ならぬこゝろなりしもをこたりて 玄与
取みるふみのふかきことハり 豊信
山すみもいてゝつかへん君なれや 忠通
民のさかへのしるきさとゝ 龍伯
爰かしこつま木のけふりたな引て 宗親
霜よりそらはあけはなれ行 有栄
声ゝに月にからすのなきさハき 与進
いねかてになる秋のさよかせ 宗察
ひきかこふ草の戸さしもうら枯て 政徳
いかにしのかむ夏の日さかり 忠通「本之儘 忠増」
所たゝかへ行やまの氷室守 豊信
つゝくともなき岩かねのミち 忠通
よそに見て帰るはおしき花の色 龍伯
松の木すゑにかゝる藤かえ 宗親
明ほのゝはるとやきなくほとゝきす 玄与
雲引すつるよとの川風 宗察
くりいれてとむる小舟の綱手なは 与進
おさまりにけりゆうなミの音 常久
龍伯十二句 与進九 常久八 忠増七 宗親九
政徳六 玄与十一 元綱六 忠通九 武金一
豊信八 宗察八 有栄六
(「薩藩旧記雑録」後編4-361)
列席者メンバーについてはこの後に書かれた史料で詳しいデータが判明します。
最後に「鮫島備後入道宗察は"宗親"と同人か」と補注で書いていますが、この推察は間違いで、「宗親」は平田宗親のことでしょう。『旧雑抄』「歳久ノ譜中ニアリ」
慶長十二年六月十八日
懐旧之連歌
露はたゝさなから玉のはちす哉 龍伯公
池水きよき夏のゆふかけ 常久
「他ニ数行略ス」
龍伯公十二句 常久八 平田肥前入道与進九 宗親九
佐多宮内少輔忠増七 阿蘇玄与十一 鎌田源六政徳六 川上又左衛門忠通九 野村才右衛門元綱六
八木新右衛門豊信八 調所弥二郎執筆武金一 山田民部少有栄六 鮫島備後入道宗察「宗親同人カ」
(「薩藩旧記雑録」後編4-362)

