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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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慶長9年の2月頃作成の和歌です。
…但し、最初の和歌は上の句しかない(○。○)…また連歌の発句なのか?でもカウントを稼ぎたいので、恒例によりこれも1首に加えることとするヾ(--;)
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
慶長九年二月廿二日、鹿兒嶋護摩所にて、
龍伯
立そふや今年わか枝の家桜
「右同」
或る神に法楽
小 小萩原わけくらしたるかりふしの
まくらに近きさをしかのこゑ   龍伯
松 松かせの更行まゝに音たてし
よさむつれくる秋の柴の戸
大 大空の月の光のさやかにて
木の下かけもかくれさりけり
明 明日もこん小鷹かりはの廣野ハ
さしてそのまゝをく鳥柴哉
神 神慮なひきやすらん紅葉ハの
色にいろそふ秋のはつ霜
(「薩藩旧記雑録」後編3-1910)

この頃義久の居所は富隈城(現鹿児島県霧島市隼人町)でしたが、この時点でもまだ鹿児島の護摩所という宗教的に重要な場所に行き来できたことが伺えます。
「小松大明神」は現存のどの神社に当たるか寡聞にして不明。後考を期す。

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慶長9年の4,5月頃に作られた和歌です。当然これは旧暦なので、実際は6,7月頃の作と言うことになりましょうか。
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
慶長九年四五月之比、日さかり過て田地荒るゝにより、雨こひとして詠之、
五月雨の雲かさなりて日比ふれ
なへて田面のうるふハかりに
(「薩藩旧記雑録」後編3-1930)
雨乞いの歌は2回目かな。雨乞い係の義久さんでした(^^;)

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慶長9年に作られた和歌です。なんと一気に3首も書いてくれている。これはポイント稼ぎちゃーんすヾ(--;)
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
国府に移り、大中良等の夢想有て歌の会あり、慶長九年雪月六日、
水路新雪
今朝は猶ふりかさねたる白雪に
たえぬハ水のなかれなりけり
当座松経年
作りなす庭には千年の影みえて
こけむすハかり松そ木高き
「右同」
かこしまより、いなり山の紅葉とて手折ておくられし時、当座
枝すこしをるさえおしきもみち葉は
たてなからにや神に手向ん 
(「薩藩旧記雑録」後編3-1974)
「大中良等」とは義久の父・島津貴久のこと。たまには忠良おじーちゃん以外の人の夢も見るのねヾ(--;)
建前としては貴久の追善?歌会の時の和歌と言うことになってはおりますが、歌の内容を見ても、国分城に引っ越したときの記念の歌と見て間違いないでしょう。
「雪月」は12ヶ月の異名には見つからないようですが、前後の文書から見て12月のことを指しているのでしょうか?(ちなみに「雪待月」なら11月)

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前の話はこちら


桐野作人氏の連載+ブログで上記文書の大本になった書状が判明しました。
長文なので、関係分だけ抜粋します。
(前半略)
一、右わつかの人衆にて、与風下向申候儀ハ、内輪ニ野心在之儀を頼候て、被指下候由尤存候、敵説にも此地へ其聞候之間、爰元の用心油断不申候事、
一、此中宇土ニ堪忍候又介殿、薩摩へ被相越之由被聞食付候由、尤ニ存候、乍去さつま迄ハとても可被通事ハ罷成間敷候<与欠>、定而此地三ケ村へ徘徊たるへく候、涯分密々ニ念を入たつねさせ可申候、万一又介殿尋出申候ハヽ、打果可申候、大方ニ尋候てハしれ申ましく候よし、 上意尤存事候、及心念入可申候事、
(1節略)
一、又介殿舎弟、今程水俣へ在陳之由申候、万事からくり可有と聞え申候、かミかたの衆不相下候之処、不図加主計(※注1)、如水(※注2)罷出候事ハ、内輪ニくり付候衆依有之参られ候由、彼鹿屋三右衛門尉(※注3)申事候、くわしく直ニ可被聞食候間、一二ニ不及申候事、
(以降の節略)
「朱書き」
「慶長五年」                      図書頭
十一月十三日                      忠長(花押)
伊勢平左衛門尉(※注4)殿

(「薩藩旧記雑録」後編3-1285)

※注1:加主計→加藤主計頭、加藤清正のことである
※注2:如水→ご存じ黒田官兵衛孝高のことである
※注3:鹿屋三右衛門尉→鹿屋壱岐守兼長(生没年未詳)、天正14年7月の筑紫城攻めで筑紫春門を討ち取ったこと、その後朝鮮出兵にも同行したことが『本藩人物誌』に記されている。
※注4:伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(島津忠恒(家久)筆頭家老・伊勢貞昌の兄)のこと
実は前半に謎を解く文章があるように思うのですが、不覚にしてcopy取ってませんでしたヾ(--;) 体調回復できたらcopy何とかしたいのですが…図書館に行く余裕が…ああ、薩藩旧記雑録をどこか全文データベース化してくれないかな(←無茶である)

気になるのは後の節「又介殿舎弟」で始まる文章で、ちょっと文意が正確に解釈できないのですが、
「又介殿舎弟」は慶長5年11月時点では何かの陰謀(「万事からくり」)に荷担して水俣に在陣している模様で、それは上方(徳川家康サイドのことか?)の指図ではなく、加藤清正や黒田如水が出ていることから見て(彼らの)内輪の指図じゃないか?…と鹿屋三右衛門の情報から島津忠長はそう考えている
…というのがこの文の大意ではないかと考えています。

「又介殿舎弟」が誰か?ということですが、これは桐野氏の推定通り末弟・島津小七郎忠豊(天正9~慶長10/11/21、25歳没)で正解かと。忠清には3人弟がいますが、慶長5年11月時点で、すぐ下の弟・忠栄は島津豊久を頼って佐土原におり、その下の弟・忠富は早くに島津家への脱走に成功し、関ヶ原の合戦にも大叔父にあたる島津義弘と共に参戦していました。なので消去法でこの「又介殿舎弟」に該当する人物は末弟・忠豊しか考えられません。

ちなみに同年(慶長五年)9月15日以前は、島津忠清は小西行長軍の旗下にあった可能性が高いです(こちらのサイト参照)。ので、桐野氏説のように島津忠清が加藤清正軍旗下に入ったとしたら、確実に関ヶ原の合戦後です。…ただし、小西行長側に立って戦っていた人物を関ヶ原の合戦後わずか2ヶ月の間にこういう重要な仕事に抜擢したというのが…むー、後考を期す。

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慶長10年頃に書かれたのではないかとする和歌です。
「義久公御譜中」
「慶長十年<与欠>、五月ヨリ七月迄旱魃」
雨こひの歌
「御文書方ニ有之」
山めくる雲のさそハヽ雨をちて
大御田小田のさなへうるほせ
(「薩藩旧記雑録」後編4-64)
雨乞いとは領主らしいというか、古風すぎる感じもする和歌ではあります。戦国大名で雨乞いのために和歌を詠った人ってちょっと知らないのですが。

他の史料にはこの続きが書いてあるのですが…続くヾ(--;)

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