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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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京都国立博物館で行われているタイトルの展覧会に行ってきました。
…すんげ長いタイトルの展覧会だ(^^;)

取りあえずの感想
・「王朝文化の華」とありますが、その“王朝”たる平安時代に関係ある物は文献資料のみ…地味だヾ(^^;)
・前半が主に平安時代以前の日記などの史料、後半が近衛信尹、家凞の関係史料で構成されています。
・表装が無茶苦茶立派。実は表装用の生地や紙などもコレクションしていたようだ>近衛家 パンフには残念ながら表装が分かる写真が余り載ってない(T∀T)
・最後に突如近代絵画が出てくるのだが…去年の「細川家の至宝」展を彷彿とさせます ちなみに近衛家と細川家は親戚
・島津家関連の史料は「家凞の金琺瑯の茶碗」「広大院の持ち物だったらしい雛道具」ぐらいかなあ 前久と義久の往復書簡とか出てるかなという期待は見事に外れたのでした(T∀T) というか前久の史料自体がほとんど出てなかった…
・余りにも文献資料が多い(しかも達筆な人が多い)ので、思わず出た言葉「これ書道のお手本にしたい」ヾ(^^;)

パンフに興味深いことが書いてありましたが、感想は以下にて

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天正18年5月27日に詠まれた物です。
実は例の如く(^^;)上の句しかありませんが一首としてカウントしちゃおうヾ(--;)

「義久公御譜中」
天正十八年庚寅、在京之際、紹巴法橋一会興行之時、所強発句再三固辞、然而弥請不止、是以不得已而応其求、即五月廿七日也、
「在御文書方」
          「雲イ」
梢よりしつ枝も花にあふち哉  龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-662)



「義久君上京日記」該当箇所こちら

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天正18年6月12日に詠まれた物です

「義久公御譜中」
天正十八年六月七日、依紹巴之有誘引、詣祇園神社、昌叱亦同列也、社邊美景歴覧亦已興盡、丁欲帰宿之時、紹巴攜入我於六条道場中文閑庵室、勤盛膳酌美酒非唯我耳、及供奉士卒、忘盛暑之難忍也、
天正十八年六月十日、招民部卿法印於私宅、而所以一日之為佳興也、紹巴・昌叱亦為挨拶召座席也、
    「三イ」
同月十二日、為西方寺一見、往于嵯峨入于寺門、則庭前樹木池水不得空過、而綴一首卑歌也、
「在御文書」
 池水のたヽむいはほに浪かけて
  夏ををくらす庭の松かけ
此歌の由、紹巴聞付られ候て、如此、
夢想国師手自石木をかさねうへ給う西方寺の庭、御一見の池水の御口号、近比珎重〃〃、御供之人〃何とて不被詠候哉、岩木のこヽろはつかしく候、次の日をくらる、
「在御文書方」
 岩たヽむ道とめ入て池水に
  夏ををくらす人のかしこき 紹巴
天正十八年六月十四日、先参東山 龍山公、而後直到于下京、見祇園会之盡華美也、
(「薩藩旧記雑録 後編」2-665)

西方寺(苔寺)を見物した後、嵯峨(大覚寺か?)を訪れ、そこの庭を見て作った和歌のようです。

それにしても他の和歌なども見て思うのですが、里村紹巴・昌叱とはよくつるんで…いやいや(^^;)一緒にいることが多いようです>義久


「義久君上京日記」該当箇所こちら


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先日再放送されていたので見ました。
何かもう3,4回は見てるような気がする(爆)

これのおもしろいのは、
「『源氏物語』というものがその時代時代でどういう風に利用され捉えられてきたか」
という観点で追っかけていること。
なので、『源氏物語』それ自体に興味のある人には余り面白くない番組かも。

やはり拙HP+ブログ的に興味深かったのは戦国時代(戦国武将)と『源氏物語』の関係についてのお話でしょうか。
都の華やか+雅な文化への憧れ=『源氏物語』というのは、まあ予想された展開だったのですが、
アメリカにある『源氏物語』の画帳が裏書きから三条西実隆が制作に関わっており、更に「実隆公記」の記述から注文主は大内氏(大内義興?)じゃないかと推測したお話が興味深かったです。
…いや、一番興味を引いたのは、それを推測したハーバード大学の先生(アメリカ人)が日本語ぺらぺらな上に、続郡書類従版「実隆公記」をぺらぺら読んでられたことですが…(^^;)ワタシモヨンダコトナイ

後は豊臣秀吉が必死になって「源氏物語」を研究しようとした?らしいノートが残ってるとか(でも誤字脱字が多いところを見ると途中で挫折したらしいとか(^^;))
徳川家康が将軍になった直後、諸大名の前で行った演説は「源氏物語」”初音”の一節であり、この話が権力の反映を示した物と捉えられていたのではないかとか でも家康が源氏物語知ってたというのが意外だった 実学しか興味なさそうな人だからヾ(--;)
戦国・安土桃山関連のネタはこれくらいだったかな。

江戸時代はやはりというか庶民にとってエロ本のネタとして使われてたみたいですなヾ(^^;)
…まあ、「源氏物語」はそういうネタの宝庫ですし、”権力の象徴”や”都の文化の象徴”としてよりよっぽど正しい使い方かと(ヲイ)

ところで気になるのが、拙HPのネタである島津さん。
この中に「源氏物語」に詳しいと明言されている人がいるのである。
島津忠良の次女にして樺山善久の妻であった島津御隅がその人である。 拙ブログ関連ネタこちら
「源氏物語」は先述の通り、アレなネタのオンパレードなお話なのだがヾ(^^;)
御隅の父・忠良は無茶苦茶規律とか道徳とかにうるさい人であって…
たぶん忠良が御隅に渡した「源氏物語」って、その辺の記述が戦後直後の日本の教科書みたいに黒塗りで塗りつぶされた物だったんじゃないかと(ヲイ)


公式HP?はこちら ほとんど説明ありませんが(T∀T)

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本文に日付がありませんが、天正18年6月頃に詠まれた物と思われます

「義久公御譜中」
一将軍家義輝光源院殿後室大陽院殿かくれさせ給ひし時読之、御霊前にそなへ奉るなり、
「在御文書方」
末の露消にし野辺の跡とへは
 なをもとつ葉を忍ぶ草かな
(「薩藩旧記雑録 後編」2-669)


あれ?もしかして女性宛に挽歌書いたの、増えた?ヾ(^^;)

この挽歌を捧げられた足利義輝正室とは近衛前久の妹(実名不詳)です。
義輝の母も近衛家出身で前久の叔母(慶寿院)に当たりますが、この人は息子と一緒に戦死しました。
義輝夫人に義久が挽歌を送ったのは、義輝に偏諱をもらったと言うこともありますが、近衛家の関係者であるという事情もあるかと推測されます。

ちなみに最後の将軍・足利義昭が亡くなったとき(慶長2年)には義久は全くの無反応でした。挽歌書いてたけど単に残らなかったのかも知れないが。



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