拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
某所で
「戦国武将で“長政”という名前の人多いよね」
ということがかなり以前から話題になっている。
思い浮かぶだけでも
・浅井長政
・黒田長政
・浅野長政
・山田長政
他にも
・木沢長政
・織田長政
・池田長政
・市橋長政
・木造長政
という方もいるらしい。
しかし思ったのだが
「長政さん集団(^^;)には負けるけど義久さんという名前の戦国武将も多いよね」
「戦国武将で“長政”という名前の人多いよね」
ということがかなり以前から話題になっている。
思い浮かぶだけでも
・浅井長政
・黒田長政
・浅野長政
・山田長政
他にも
・木沢長政
・織田長政
・池田長政
・市橋長政
・木造長政
という方もいるらしい。
しかし思ったのだが
「長政さん集団(^^;)には負けるけど義久さんという名前の戦国武将も多いよね」
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戦国島津ヲタヾ(^^;)のみならず、鹿児島県史、一部史料は幕末史研究にも必須だった「鹿児島県史料集」
ところが、ほとんどが県立中央図書館クラスでも所蔵が無く、国立国会図書館にも一部の所蔵が抜けてたりして、入手がかなり困難だったのですが
…
なんとpdfファイルのupがスタート!ネットからでも容易に入手が可能になりました!
…というかなってました。3年前からみたい_| ̄|○ いまごろ気がついたんかよ私
残念なのは、過去の発行分はpdf化対象外みたいな事。
今後刊行予定の史料もこの調子でお願いいたします<(_ _)> >鹿児島県立図書館様
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戦国島津ヲタヾ(^^;)のみならず、鹿児島県史、一部史料は幕末史研究にも必須だった「鹿児島県史料集」
ところが、ほとんどが県立中央図書館クラスでも所蔵が無く、国立国会図書館にも一部の所蔵が抜けてたりして、入手がかなり困難だったのですが
…
なんとpdfファイルのupがスタート!ネットからでも容易に入手が可能になりました!
…というかなってました。3年前からみたい_| ̄|○ いまごろ気がついたんかよ私
残念なのは、過去の発行分はpdf化対象外みたいな事。
今後刊行予定の史料もこの調子でお願いいたします<(_ _)> >鹿児島県立図書館様
一時期、某掲示板で
「島津は近親婚が多いからキモイ!」
という書き込みを必死になってしていた人がいた。試しに
「じゃ、日本古代の豪族や皇族についてはどう思うのよ?」
と書いてみたら
「古代日本も近親婚が多いんですか?」
…という回答が真剣に返ってきて⊂(。Д。⊂⌒`つ 「ああ、これが噂のゆとりか」…と妙な感心をしたのを覚えていますヾ(--;)
さて、考えてみれば確かに島津家は近親婚が多い傾向がある。
とりわけ義久の代以降は、というか義久自身が近親婚である。これとかこれ
しかし、言い訳しておくが、義久の他の兄弟はここまで酷くはないようだ…
義久のパパ・貴久は先妻が肝付兼興の娘、後妻が入来院重聡の娘だから、戦国大名の政略結婚っぽい。
他の戦国大名を見てみると、確かにこんな半径3mでヾ(--;)嫁を探してくる人の方が珍しいのだ
が、叔父・姪で結婚した例を2件見付けた。それが2つとも南の方に属する戦国大名なのである。
・伊東祐兵(妻は兄・伊東義益の娘)
・長宗我部盛親(妻は兄・長宗我部信親の娘)
2つには共通する事情がある。
兄が元々の正統な世継ぎだったが早世したため、弟がその娘と結婚して代わりに世継ぎになるという物である。但し長宗我部の場合は家臣団から猛烈な反対(人倫にもとるとか)があったらしいですが。
島津義久の例は上記2例とは異なるが(まず第一「叔母甥婚」だし)、拙ブログでもネタにしたこの辺の話が本当であれば、実は危うい家督継承を確実にしていくための結婚であったことは間違いないだろう。
最初の話に戻ると、日本でも古代は近親婚が盛んだったが、時代が下がって行くにつれてだんだん結婚できない範囲が広がってくる
~奈良時代:異母兄弟まで→平安時代:叔父姪、叔母甥まで→鎌倉時代~:いとこまで
家督継承に関わる場合のみという特殊事情はある物の、近親婚が残っていた南日本は、やっぱり古風な習慣が残りやすいのかも知れないなあ。
「島津は近親婚が多いからキモイ!」
という書き込みを必死になってしていた人がいた。試しに
「じゃ、日本古代の豪族や皇族についてはどう思うのよ?」
と書いてみたら
「古代日本も近親婚が多いんですか?」
…という回答が真剣に返ってきて⊂(。Д。⊂⌒`つ 「ああ、これが噂のゆとりか」…と妙な感心をしたのを覚えていますヾ(--;)
さて、考えてみれば確かに島津家は近親婚が多い傾向がある。
とりわけ義久の代以降は、というか義久自身が近親婚である。これとかこれ
しかし、言い訳しておくが、義久の他の兄弟はここまで酷くはないようだ…
義久のパパ・貴久は先妻が肝付兼興の娘、後妻が入来院重聡の娘だから、戦国大名の政略結婚っぽい。
他の戦国大名を見てみると、確かにこんな半径3mでヾ(--;)嫁を探してくる人の方が珍しいのだ
が、叔父・姪で結婚した例を2件見付けた。それが2つとも南の方に属する戦国大名なのである。
・伊東祐兵(妻は兄・伊東義益の娘)
・長宗我部盛親(妻は兄・長宗我部信親の娘)
2つには共通する事情がある。
兄が元々の正統な世継ぎだったが早世したため、弟がその娘と結婚して代わりに世継ぎになるという物である。但し長宗我部の場合は家臣団から猛烈な反対(人倫にもとるとか)があったらしいですが。
島津義久の例は上記2例とは異なるが(まず第一「叔母甥婚」だし)、拙ブログでもネタにしたこの辺の話が本当であれば、実は危うい家督継承を確実にしていくための結婚であったことは間違いないだろう。
最初の話に戻ると、日本でも古代は近親婚が盛んだったが、時代が下がって行くにつれてだんだん結婚できない範囲が広がってくる
~奈良時代:異母兄弟まで→平安時代:叔父姪、叔母甥まで→鎌倉時代~:いとこまで
家督継承に関わる場合のみという特殊事情はある物の、近親婚が残っていた南日本は、やっぱり古風な習慣が残りやすいのかも知れないなあ。
番組HPはこちら
えー
…
ヒストリアらしいミーハー風味でしたなあヾ(^^;)
確かに長宗我部元親は“姫若子”と言われてましたが、肖像画はこれだぞ?
歴女はまたゲームだけを元ネタにしてもりあがっとるのか…ヾ(^^;)
というかあんたら寄付金集めて、元親の墓をどうにかしてやって下さい。壊れかけてるらしい。
ちなみに島津をネタにHP作っている私ですが、信親は好きです、というかかわいそうすぎる。仙石氏ね(をい)。
気になるのは、今になって長宗我部をネタにしているということは
…まさか、再来年の大河ドラマの餌食ネタは長宗我部?!(○。○)
※引き続き、長宗我部もちょっと出てくる記事を掲載します。この話は何故か『ヒストリア』中で出てきませんでしたね。
えー
…
ヒストリアらしいミーハー風味でしたなあヾ(^^;)
確かに長宗我部元親は“姫若子”と言われてましたが、肖像画はこれだぞ?
歴女はまたゲームだけを元ネタにしてもりあがっとるのか…ヾ(^^;)
というかあんたら寄付金集めて、元親の墓をどうにかしてやって下さい。壊れかけてるらしい。
ちなみに島津をネタにHP作っている私ですが、信親は好きです、というかかわいそうすぎる。仙石氏ね(をい)。
気になるのは、今になって長宗我部をネタにしているということは
…まさか、再来年の大河ドラマの
※引き続き、長宗我部もちょっと出てくる記事を掲載します。この話は何故か『ヒストリア』中で出てきませんでしたね。
本日放送の『なんでも鑑定団』に登場していました こちら
北条幻庵がよく自作しており、意外なところでは織田信長も得意だったらしい(使用品が現存)。
拙ブログとして「一節切」といって名前が浮かぶのは
島津義久!
なにせ一節切の名手として知られ、あの細川幽斎に「その音が聞きたい」と小倉城にご招待された位なのである。
…もっとも、その招待された時期が「それがしは病気でゲホゲホ」と上洛を断った慶長7年(1602年)…をい!
ちなみにこの時義久が演奏したのは「隆達節」これ実は恋歌なんですな。こちらのブログで詳細に解説されています(歌詞の一部も紹介)
…義久、こういう事もやってるし、実はお色気満々のジジイだったのかも知れないヾ(^^;)
この話はこちらのブログでも紹介されているので、ご存じの人が多いかも。
上のブログでも紹介されてないようですが、この話の元ネタは「細川家記」、に該当箇所は載っているので簡単に読むことが出来ます。但しもう絶版のようなので図書館で取り寄せてみて下さい。
実は島津側の史料では、上の話は伝えられてない。何でだろう。やはり慶長7年の上洛命令を逃げておいて、小倉に遊びに行くのはOKだったというのがまずかったからだろうか(^^;)
さて
残念ながら、義久が使った一節切は現存していない(つ_`;)
弟の義弘の方は残ってるけど。
北条幻庵がよく自作しており、意外なところでは織田信長も得意だったらしい(使用品が現存)。
拙ブログとして「一節切」といって名前が浮かぶのは
島津義久!
なにせ一節切の名手として知られ、あの細川幽斎に「その音が聞きたい」と小倉城にご招待された位なのである。
…もっとも、その招待された時期が「それがしは病気でゲホゲホ」と上洛を断った慶長7年(1602年)…をい!
ちなみにこの時義久が演奏したのは「隆達節」これ実は恋歌なんですな。こちらのブログで詳細に解説されています(歌詞の一部も紹介)
…義久、こういう事もやってるし、実はお色気満々のジジイだったのかも知れないヾ(^^;)
この話はこちらのブログでも紹介されているので、ご存じの人が多いかも。
上のブログでも紹介されてないようですが、この話の元ネタは「細川家記」、に該当箇所は載っているので簡単に読むことが出来ます。但しもう絶版のようなので図書館で取り寄せてみて下さい。
実は島津側の史料では、上の話は伝えられてない。何でだろう。やはり慶長7年の上洛命令を逃げておいて、小倉に遊びに行くのはOKだったというのがまずかったからだろうか(^^;)
さて
残念ながら、義久が使った一節切は現存していない(つ_`;)
弟の義弘の方は残ってるけど。

