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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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勘三郎があんな若くで死んでしまうとは思わなかった…
追悼番組を片っ端から観ているが、穴がふさがらない…そんな熱心なファンではなかったと思ってたんだけどな。


さて
昨年話題になったNHKの朝の連ドラ『カーネーション』はいまだ記憶に新しい人が多いんではないかと思う。
ファッションデザイナー・コシノ3姉妹の母である小篠綾子の一生をネタにしたドラマであった。

さて、この元ネタになったと思われる本を入手して読んでみた。『カーネーション』本放送中は、図書館でも何ヶ月も待たないと借りられなかったんだよね。

で、この本の最初の部分に、気になる記述を見つけてしまったのである。

そんな家々の婚礼は、豪華を極めた物であった。
例えば隅谷家(※主人公・小篠綾子の母の実家)の場合、慶応年間に生きた当主・小次郎は”梯子に上って火を付けなければならないほどの大きな灯籠がある”大阪長柄の尾上家から、次の当主・小三郎は”豪華な駕籠に乗り、京都御所の近くの屋敷からお輿入れしてきた”京都お花畠の吉川家から、それぞれ嫁を迎えている。その小三郎の息子・小一郎が、綾子の祖父に当たる。
(上掲書p.16)

気になるのはこの箇所

京都御所の近くの屋敷からお輿入れしてきた”京都お花畠の吉川家

これが何で気になるかというと、幕末の京都において、大河ドラマ『篤姫』で有名になった小松帯刀が近衞家から屋敷を給わり別邸としていたのだが、それを「御花畑(御花畠)」とよんでいた…と言う話を桐野作人氏のブログ「膏肓記」で紹介されていたのを覚えていたのである。 →参考     
 

さて、小篠綾子の母方ご先祖は近衞家の関係者なのか?それとも単なる偶然なのか?

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義久の和歌の中で、亀寿を取り返した一首と共に超有名な一首です。
といっても例によって上の句しかない_(。_゜)/

「荘内平治記」
一去程に、義久公十月廿五日鹿児島を立て給ひ、日州ニ向わせ玉ふ、日已に半途にして暮けれハ、霧島ニ旌旗を止め、終夜義久公敵軍退散の祈誓を申させ玉ひつゝ、一炊の夢の内ニ権現の御告有、
 討敵は龍田の川の紅葉かな
と新ニ霊夢を蒙らせ玉い、逆徒の退散疑ナシと悦の法施を奉り、喜悦の眉を開、十一月朔日ニ都於郡を打通り佐土原ニ着せ給ふ、野ニも山ニモ軍兵充満して、夥しともいふ計なし、斯て太守公財辺ニ兵を進め、大友の陳を責へしと詮儀已に定りけれとも、折節大雨降続て空く日を送り給ふ、
(「薩藩旧記雑録」後編1-1054)

ここでお馬鹿な疑問なのだが

終夜義久公敵軍退散の祈誓を申させ玉ひつゝ

義久御自ら徹夜でお祈りしたわけではないよね?「申させ玉ひつゝ」っていうのは他人に命令してやらせているって事だよね?
まさか自分でお祈りしてるとなると これ のイメージが頭について離れない訳なのだが。

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これからちょっとミニ特集?
ネタは、年末なのにめでたかる「伊集院忠棟」でーす(^^;)


(1)字の謎
祖父・忠朗は「源四郎」、息子・忠真は「源次郎」
が、忠棟は「源太」 “郎”がついてない… ※参考史料「本藩人物誌」
単に忠棟は正真正銘の長男で、忠真は実は次男でした(参考この記事)と言うだけなのかも知れないが…
でも忠朗は長男と書いてあるなあ…

ちなみに父・忠倉(忠朗嫡子)は不明。

(2)名乗りの謎
祖父・忠朗は「大和守」父・忠倉も「大和守」
忠棟は全く関係ない「右衛門大夫」
なんでだろ~
※「右衛門大夫」についてはこちら(wikipedia)

ちなみに忠真は名乗りを決める前に自害に追い込まれました…

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天正8年11月10日に詠まれた物です。

「御文庫三番箱一巻中」
梅岳常潤かくれ給し事、きのふけふかとたとり侍しに、はや拾三廻に押移り、名残すくなく成行は、さま\/諫め給ひし道〃の事共思ひ出て、袖をうるほすはかりにこそ、悲しさのあまりに、梅岳の二字をつらね、霊前に手向侍者也、「\手向奉る者也ト御譜ニハ改メアリ」
                   義久
梅の花うへし岳へをこと問は
 十に三とせの跡そ程無き
「御譜ニ天正八年ト朱カキ」
       拾一月十日
「十三廻ハ天正八年ニ当れり、此ニ載置也」
(「薩藩旧記雑録」後編1-1183)

義久の祖父・島津忠良の13回忌に際して詠まれた物です。
ちなみに、忠良は義久を溺愛していました。

            日新
 善も悪あくも善なりなせはなす
  こゝおよ心はちよおそれよ
一不動愛染之衆生、愛顧之形容を能〃可有見執之事、
一聊尓之子細糺詰られは、各護身之符つゐには良薬たるへき事、
一閣〃候者、当日は憐慰之様にもいへとも、翌日ハ身を亡す禍根之程たるへき事、
一為国家には見をおします、あやまちをあらため、腹立なきにいかり忿度をこらへ、聖人のこと葉を恐れ、被任心底候者、則天道神慮も仏法も他所ニ有へからさるもの也、
一内には鰥寡孤独之あはれを密行し、上としてハ只臨別儀なきものか、仮初にも人をそこなひ、やふらしの持戒を逼塞候而、外には五常を匡、辻〃には禁籠張着をも下被構候、是まことの可為慈悲候、
 右五ヶ條、諫言に似たりといへとも、眞平老耄之至と可有宥免候、
 永禄四年十月吉日
   義久
     
「義久公御譜中ニあり、糾合す」
(「薩藩旧記雑録」後編1-190)
 

  

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国立国会図書館から論文を取り寄せようとして検索したら、自分が卒論のネタに使おうとしたネタ(結局捨てた)で書かれた論文を偶然見つけた。がっくり_| ̄|○

以上、雑談終了(^^;)

さて表題、管見では「薩藩旧記雑録」には関係史料を見いだせなかった(見落としの可能性有り)。

しかし、昨年見に行った「細川家の至宝展」図録の掲載論文ではこう紹介されていた。

島津義久(一五三三~一六一一)に天正十六年八月(※に相伝した ばんない補足
(「古今伝授と細川幽斎-歌道に見る戦国のネットワーク」冨坂賢 p.301)

この年って、前年に豊臣秀吉の前に完膚無きまでに粉砕され、かなり悲惨な状況の年…だったように思うのだが。うーむ。

ちなみに図録論文がこの件に関して参照にした史料は不明。「綿考実録」あたりかなあ。


拙ブログ関連 こちら

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